口に咥えた己が左腕――棄ててこなかったのは敵になにひとつ与えてやりたくないという、子どもじみた心持ちによる――を噛み締め、若者はなおも剣を右へ左へ振るい、駆け続けた。
一歩を踏み出すごとに、怒りが吹き払われる。
一歩を踏み締めるごとに、恐れが砕け散る。
それにつれ純化していく。誇りたいと念じた意気、そればかりが彼を満たし、そして。
『おお、おお、本気でど真ん中を突き抜けてきおったわ!!』
戦場を轟と揺るがす野太い声音。
若者は残響を手繰り、そして見た。
鈍色の装甲で急所ばかりを守ったごく軽装の偉丈夫――馬に跨がってはいないが、間違いない。あれが北端侯だ。
『己はこの場にあるゴブリンすべてを負って来た!』
ついにここまで連れてきた左腕を吐き棄てた若者が、すっかりと潰れて歪んだ刃を掲げ、告げる。
心身も得物も、なにひとつ十全を保っているものはない。だが、あと一度。一度だけ、全力の攻め手を繰り出せればそれでいい。
一度止めた足を進み出させれば、当然主を守る北端の精兵が迎え討たんとするが。
『ほう、ならばぬしは如何にする?』
当の北端侯が彼らを制し、若者へ短に問うたのだ。
『ゴブリンが意気、見ていただく!!』
腕一本損なっているとは思えない、重心の据わった突進だった。
地を擦りそうなほど顎先を前へ倒し込み、滑るように敵の眼前へ駆け込んで、一気に体を跳ね上げる。
『おおっ!!』
跳躍した若者が右手ひとつで縦一文字に剣を振り下ろした。
為されたものは体重と落下力、そして己が誇りを乗せた渾身の一閃。
しかし、さすがは北端侯である。すでに身を傾げ、刃の軌道から頭頂をずらしていて。
若者は敵の武の練度に感嘆し、奮えた。
構うものか。元より見せるためだけに来たのだから――このまま押し斬る!
と、思った次の瞬間。彼は口の端を歪めて剣を引き止めたのだ。
『なにゆえ!?』
問いが発せられたのは、北端侯がどこからか抜き出した段平をもって彼の一閃を流し、思いきり振り払った後のことだった。
『押さえい!!』
主の名に即応した兵がもんどりうって地へ転がったゴブリンへ殺到し、拘束する。
若者に抗う力は残されておらず、故に今度は自分の意志によらず敵将と向き合うこととなったのだった。
『殺せ』
歪めた顔を真っ向から敵将へ向け、短(みじか)に言う若者。
『殺さん』
ゴブリンの視線を無表情で受け止めつつ、やはり短に返す北端侯。
と、ここで侯がほろり。笑みを浮かべて。
『ぬしの気概を見ておきながら殺せるものかよ』
これを聞いた若者の目が大きく見開かれる。
『――ならばなぜ己に斬らせようとした!?』
押し斬ると決めて振り下ろした剣。が、十分には程遠いあの一撃が戦策のみならず武技にも長けた侯へ当てられるなどと思い上がっていなかった。
だからこそ、見えてしまったのだ。
侯が身をずらし、肩口で剣を受けに来る様が。
あまりに酷い仕打ちではないか。真っ向から斬り捨ててくれるならいざ知らず、癇癪を起こした幼児をなだめすかすように受けてくれようだなど!
『斬らせるかよ。当てさせてやるだけのつもりであった』
侯は悪びれた様子もなく白状し、表情を正して説く。
『エルフは勝利を獲、ゴブリンもただ負けたばかりならず思いがけぬ奮迅を見せた。とどのつまりそうした落としどころが要るのだよ、戦を終わらせるには』
そのために、この戦の当事者ではない彼が泥を被るつもりだった。
だとしてもだ。ゴブリン風情に傷を負わされたなど、北端侯の名誉を穢す愚行ではないか。
若者が疑問を口にすれば、侯は生真面目な顔を彼へ突きつけ、まるで父が子へ言い聞かせるかのように語る。
『儂には儂の分(ぶん)がある。ぬしにぬしの分があるようにな』
分――つまりは面目を指す言葉だが、侯は自身の名誉よりも、エルフとゴブリンの面目を保つことを選んだ。それこそが客将としての分ということなのだろうが、しかし。
『さて、ぬしに問おうか。ぬしの分はなんだ?』
『己の、分』
問われた瞬間、見失う。
駆けている最中はゴブリンの意気を示すと息巻いていられた。だが、敵に捕らわれ、情けをかけられ、おそらくは期待までされているらしい今、果たすべき分がなんであるものかなど皆目見当がつかなくて。
我が侭を通すことか? それをあっさりいなされて面目を潰されたとわめくことか? ゴブリンの意気とはそんなものなのか。そうではない。そうであるはずがない。ならばどうあるべきもので、どのようなものなのか?
『ま、今はぬしを生かした胆力を素直に誇っておけ』
侯の合図を受けた治癒術師が若者へ歩み寄る。その両手には彼が吐き捨てた彼自身の左腕があり、拒む間もなく切り口同士が合わされ、繋がれた。
『そのおかげでそれも取り戻せたことだしな』
ふはははは。哄笑を響かせる侯に、若者は尖った視線を突きつけて、すぐに力を失い、うつむかせる。
『汝に斬られていさえすれば迷わず済んだ』
思わずこぼした弱音へ対し、侯はしたり顔で説いたものだ。
『悩むが若造の分というものよ』
拘束を解かれ、剣を返された若者は渋い顔でそれを左に佩き直す。
この場で再び刃を抜くつもりはもちろんなかった。とりあえず示せたらしい意気を穢せるものか。
ただ、自分のすっきりとしない心持ちにも侯の思わせぶりな言い草にも、やはり納得がいかなくて。
北端侯はそんな彼を見やり、やれやれと息をついて言う。
『ぬしは手練れだが、その心根、兵でも将でもないようだ。その剣をもってなにを成す?』
見て取られたことを、無理矢理に察せさせられて……だというのに不思議なほど憤りは感じなかった。
導かれたあげくに気づかされたのだ。これほど悩みに悩んだことへの己なりの正解を。
『己は、ただ直向きに己を尽くしたい』
故にこそ、直ぐに言い放つ。
結局は我が侭をやりきりたいだけなのだ。だとしても、それが己を己として確立するための分なのだから、もう迷いはしない。
意を据えた彼は右の拳で胸を叩き、ゴブリンの礼を侯へ送って、
『これよりは己が分を果たすためにのみ武を振るう』
その礼に込められた決意の重さを、侯は正しく見て取った。
故に苦笑し、うなずいて告げる。
『それはまた難儀よな』
若者は言い切ったのだ。種のためでなく、氏族のためでもなく、己がそうと認めた敵にのみこの剣を抜くと。
それが彼にとってどれほどの困難となるものかを、侯はすでに見抜いている。
なぜなら彼は、ただひとりでこの惨めたらしい負け戦を善戦にまで押し返し、北端侯に認められさえしたのだ。打ちのめされてうなだれ、拠り所を求めたゴブリンたちがどうするかなどわかりきった話ではないか。
『ぬしはやがてぬしが望まぬものと成り果せようが、とまれ気が向いたなら北端へ来い。城三つと根づくがための土、ぬしと同胞に用意しよう』
すべてを語ることなく北端公は身を翻し、兵と共に戦場から退いた。
実際は戦後の諸々を決めるため、今少し残ることにはなるのだがさておいて。
若者は戦より生還したゴブリンの口によって語り上げられ、讃えられる。
語られる中で彼という存在は日に日に大きく育ち、ついには氏族の象徴的存在へ、さらにゴブリンという種を担う勇者に祭り上げられて。
しかし、彼自身が剣を抜くことはこの5年の内で一度たりともなかった。
他種との争いも同胞の諍いも、すべて弁舌で収めてきた。
戦うとはつまり、語り合うことをしくじった結果のものだ。そも、命を掛けてまで守らなければならないものを命の奪い合いで守るなど、ナンセンスにも程がある。
そう思ってきたのだ。
数百年の昔にこの世界を去ったという伝説の魔術師、“玲瓏なる竜魔”から報せが届くまでは。
王者再臨。
その報せにゴブリンは総じて沸き立った。勇者が在るこの時に王者が現れるなど、我らに王位奪取の悲願を果たせと神がお膳立てしてくれたに違いない。
が、当の勇者は正直なところ気乗りしていなかった。
確かに悲願を成すのは勇者の務めではあろう。が、人間に覇権をもたらした王者の無敗は、挑戦者に得意な戦いをさせないことを貫いた結果だという。そんな相手に己を尽くせるものか。
とはいえ使命は使命と弁えていたし、そうでなくとも異種を見下すエルバダの聖女王へ己が意気を知らしめてやりたくもある。
『まずは見極めに行こうか』
そして単身、竜魔が通した道を駆け抜けて王城の謁見の間へと辿り着き、見たのだ。
軽い態度の底におそろしいまでの矜持を押し詰めた王者の様を。
『あの男とこそ闘いたい』
気がつけば、竜魔の問いにそう答えていて。
直感に理屈をつけても屁理屈に成り下がるだけのこと。故に多くを語りはしないが、とにもかくにも確信したのだ。
あの王者にならば、己を尽くし、己が分を果たしきれる。
シャザラオの名を馳せるに至ったゴブリンの勇者は、あのときの確信をあらためて胸の内に据え、拳を握り締めた。
心配せずとも己は逃げんさ。
ああ、そうだ。
挑むべき最高の王者がこの先で待ち受けているのだからな。