決闘あらためタイマン当日。
エルバダ城の西側に建てられた競技場、その西の端にある明かり取り用の窓ひとつない控え室にて、シャザラオはひとり壁を見やってため息を漏らした。
この壁の向こうには城壁が密接しており、さらにその先は山が塞いでいる。外へ出るなら競技場を東に抜け、城の正面広場を通らなければならないわけだが……
護衛と称する人間の兵が自分を同胞から引き離し、この室へ連行してきたのはつまり、万一にも彼を逃がさないためか。
心配せずとも己は逃げんさ。
ああ、そうだ。
あのときと同じく、けして。
5年の昔。
エルバダ圏内に棲まうゴブリンの一氏族が、つまらないことからエルフとの抗争を開始した。
他の氏族が責めるどころか便乗したのは、エルフの弓や調度の魅力に負けたためだ。数はゴブリンが圧倒している。負けようのない戦に乗らずしてどうする?
計算違いだったのはエルフが想像以上にしぶとかったことと、そして……
エルバダ建国時より北端の辺境――多数の異種の居住地と隣接した文字通りの激戦区――を預かる“北端侯”が、なぜか手勢と共に戦場へ現れエルフに与する、まさに不慮の災厄というよりない事態が起こったのだ。
北端侯の指揮を得たエルフ軍は精鋭と成り果せ、ゴブリンを追い立てる。
数の優位は瞬く間に失われ、ついに荒野の片隅へまで追い詰められた彼ら。こうなればもう、一発逆転の願いを込めて総攻撃をかける以外、選び取れる道はない。
『ノドが突き破られた!』
ノドは氏族の中でも最大であり、生存数も最多だった。作戦では中央と右翼に陣取る他氏族がエルフ軍を受け止め、左翼のノドが敵本陣へ強襲をかけるはずだったのに。
すでに右翼は壊滅し、中央もまた苦戦を強いられている。左翼を助けにいける余裕など欠片ほどもありはしないのだ。
『隠したつもりであったが、読まれていた』
まとめ役を担うゼダゴの族長がかぶりを振る。
そもそもゴブリンは武の者ぞろいだが、その分知略が不得手だ。それでも必死に考え、当たってきたが、知勇を兼ね備える北端侯からすればまさに児戯というものであろう。
氏族の長たちは額を突きあわせて悩む。どうするべきかどうするべきかどうするべきか。
『中央の戦士を全員左へ向かわせればいい』
唐突に発せられた声音が全員の目を奪った。
『ひとつところに戦力を集めて撤退に注力すれば、それだけ生き延びられる数も増そう。己らは武辺よ。下手に考えたところでなにができようはずもあるまい』
そして視線に照らし出されるのだ。シャザという目立たない氏族の一員である若者が。
本来なら跪かせて叱りつけるところだが、長たちは今は藁にもすがりたい心持ちで。つい訊いてしまった。
『……中央はどうする』
対して若者は事もなげに、
『己が担う』
『汝ひとりでか』
『応。戦士を退かせれば守る必要もない。打って出る』
『打って出る? あの北端侯率いる軍勢相手に、ひとりでなにができると?』
若者は噴き出しかけた声音を力尽くで飲み下した。
とにもかくにも腹立たしい。エルフに対してではない。まるでエルバダを統べる聖女王さながら異種を見下し、愚挙に出た長どもにだ。
今の己らになんの矜持がある? 誉れがある? なにひとつあるものか!
だが、長どもよりも。氏族間のしがらみに抑え込まれ、ただただここまで従ってきた自分こそが疎ましい。
若く立場が低いから? それでも氏族の名誉を考えてきた? 己だけは筋を通してきたつもり? なんの意味もない! 醜い言い訳ではないか!
左に佩いたこの剣は父母より授けられた宝。恥を演じるためのものではなく、誇りを示すがためのものだというのに。
ならばここから、自分はなにをするべきなのか?
いや、違う。悩むことも迷うことも不要。
ただ、やるだけ。
命を賭して、己を尽くして、やりきるだけだ。
『北端侯へゴブリンの意気を示しに行く』
言い切った若者は長たちに背を向ける。
『馬鹿を』
『若造が』
『そも先達を敬わぬ』
長たちの雑言が背へ当たるも構わず、彼は踏み出した。
不思議なほど心は凪ぎ、困憊していたはずの体に力が湧き立つ。
今、己はゴブリンのあるべき様を背負っている。その重さが、殊の外快い。
ゴブリンの主力部隊が苦しい防戦を演じている戦場中央へ出た若者は、降り落ちてきた矢を剣の腹で剥ぎ払い、高らかに吼えた。
『全員左翼と合流し、活路を拓け!! この場は己が請け負った!!』
言う間に突き込まれた複数の穂先を潜って敵へ肉薄した彼は、地を這わせるように低く薙いだ剣で脛当て越しにひとりの臑をぶっ叩き、もうひとりのアキレス腱へ水面蹴りを喰らわせて前転。息を飲んで硬直した3人めへ飛びつくや、柄頭をもって顎を打ち抜いた。
この期に及んで不殺を貫くのは、勝者へ媚びるためではない。
殺すほどに、掲げた意気が濁るからだ。
ここまで散々に種の名誉と矜持をゴブリン自ら貶め、醜く濁らせてきた。せめてここからわずかな間だけは澄ませておきたい。
これは己の我が侭というものだが、それでいい。
己は己に恥じぬ己を貫きたいのだ。
そして願わくば、それを赦してくれる敵と相対したいもの。
……長どもに劣らず欲深いのだな、己も。
だが、ここは押し通すのみよ!
『北端侯!! 己の声音は届いているか!!』
前を塞ぐ敵兵の方へ跳び乗り咆吼した若者は、そこから剣の腹を舞わせて襲い来る者どもを叩き払って、
『今より直ぐにそちらへ参る!!』
肩を蹴って跳躍し、駆け出した。
一方、場に在るゴブリンたちは速やかに転進を開始している。
彼らは歴戦であり、多くの後進を導く者も多い。だというのになぜ、見も知らぬ若造に従ったのか? 疲弊しきっていたからではなかったし、思考が鈍りきっていたからでもない。いや、確かにそれはあったのかもしれないが、やはり違う。
すっかりと魅せられてしまったのだ。
若者の背に燃え立つ、激しく美しい意気に。
『おおおおおおっ!!』
自分が為したことに気づかないまま、若者は駆ける。
射込まれた矢を斬り払い、殺到する穂先をまとめて叩き落とし、斬り下ろされた刃を潜り、直ぐに直ぐに直ぐに。
その自在の体捌きにエルフはもちろん北端の精兵たちもまた目を見開いたが、若者に誇る余裕など欠片ほどすらもなかった。
退く同胞を追わせてはならない。己を取り囲み、殺しに来る敵兵を殺してはならない。その上で、己が死んではならない。
なんという艱難であり、辛苦であるものか。
だが、命を賭して我が侭を貫くと決めたのだから押し通し、そして。
『押し通る!!』
どれほど駆けたものか。
いくら吸い込んでも息は端々まで行き渡ってくれず、曇りきった視界はぼやけた影の蠢きを報せるばかり。
全身に詰まった痛いと苦しいと辛いが結託し、激烈な疼きを頭に捻り込んでは歩を鈍らせようと仕掛けてきたが、止まるものか。
ここで倒れ伏せばゴブリンが嗤われる。
己から攻めかかってきておきながらあっさり返り討たれたか弱き下種と、嘲られる。
……ここまでの数百年、ただひとつの目的を為すがためシャザと他の氏族は、エルバダとい敵地へしがみついてきた。
そう。人間の手にある王者の位を、次こそ奪い取るために。
とはいえ王者というものがなんなのか、実は人間を含めて誰も正しく理解はしていない。
王者にはこの世界を古くから護ってきた竜の加護が与えられ、覇権が与えられるという。曖昧な情報ではあるが、人間が最上の地を与えられ、こうも繁栄している以上は信じるよりあるまい。
ともあれゴブリンは他の種よりも先んじて再来した王者へ挑むため、危険で貧しい暮らしに耐え忍んでいる。
つまり満ち足りていないせいなのだ。この欲深さも、浅はかさも、すべてすべてすべて。
安全がなく、安心がなく、満腹がないからこそ外で悪行を働き、内で互いを傷つけ合う。今はそれを止める術などありはしない。だからこそ。
同胞へ、エルフへ、北端の兵へ、示す。ゴブリンの真(まこと)を!