謁見の間での騒ぎから数日が経った朝。
「ガチ異世界っ、すねっ! だってっ、ゴブリンっすよっ、ゴブリン!! なんすかね! なんか、思ってたゴブリン、って感じじゃ、なかったっ、すけど! 冒険の始まりって感じっ、すわー!」
息が整うまで待たず、すっかり見慣れた短パン姿の義人は肌にまとわる汗を拭って盛り上がる。
そんな彼を見ないように視線を外し、花子は「浮かれていていいのかい?」。
案の定きょとんと首を傾げる後輩へ、先輩は説いた。
「シャザは氏族の名前だよ。それを自分の名前に入れられるのは氏族を代表するひとりだけ。そしてゴブリンを負うってなれば、普段は争い合ってるほかの氏族が彼を代表だって認めてるってことさ。つまり」
数秒溜めて、
「彼はゴブリンの勇者だ」
言われた義人は3回目をしばたたき、そして。
「ガチやばいっすね!! マジですげーっす!!」
両手を握り締めて思いきり奮える。
単純バカはキライじゃないないんだけどねぇ。苦い思いを胸に閉じ込め、花子はこちらに迫り来る熱い後輩からぐいーっと視線を引き剥がした。
「? なんか俺、先輩にまで避けられてねっすか?」
「それはそうだよ後輩くん。君のその燃え立つ露出趣味はそっとしまっとくべきだ。紳士淑女の方々がびっくりしちゃうだろ? ちなみにあたしはがっかりだよ。戦場で遣えなさげな体うれしそうに見せつけてくる君の変わった性癖すなわち変態度の高さにね」
「先輩の趣味じゃねーのはいいんすけど、俺だってヘキとかじゃねっすから!!」
彼と花子が今いるのは、王城の城壁内に通された射手用通路である。
平時は兵士が配置されていない上、ゆるやかに湾曲しているが400メートル以上の長さがあるそこは、走り込みにうってつけで。あれこれ話をつけて義人が活用させてもらうことにしたわけだ。
ちなみに今は昼前だが、彼は朝から延々と……それはもう延々と、通路を走り続けている。
「ボクシングの練習はしなくていいのかい?」
あまりに過酷で地味なトレーニングにげんなりし、花子は思わず問うたものだが、義人は「基礎が大事なんすよ」。それだけを答え、全速力で走り、インターバルだと言って走り、とにかく走り続けて今に至る。
「そういや先輩、俺に付き合ってくんなくてよくないっす?」
「女王とその一味に憎まれちゃったからねぇ。居られる場所がないんだよ」
そこそこ以上に深刻なことをさらっと言う花子。
実際、女王と王者一行の間には幅広く深々とした溝ができていた。義人が騎士や兵士の訓練場でなく、こんな薄暗い場所で走っていること、宿舎が客室でなく城壁の中央に造られた外敵監視用の側防塔なこと、どちらもそのせいだ。
だというのに一行が城へ留まり、女王がそれを認めている理由は、それこそ「王者は挑戦を受けたその場所にて決闘を行う」という理解不能な掟があればこそ。少なくとも闘いが終わるまで、袂を分かつことはできないのだった。
ま、女王としちゃ難癖つけて引き止めて軟禁したいとこだろうけど。
夜な夜な繰り広げられている暗闘を思い出し、花子がうんざり顔をしたそのとき。
「うぁう」
誰にそうしてもらったものか。病衣は背中に括った犬が、義人へ早く走るぞと急かす。
いちばん好きな遊びは引っぱりっこだが、駆けっこも悪くないどころかむしろいい!
そんな心情まではわからなくても、犬がいつになく楽しそうなことは瞭然だ。にーっと笑った義人はがばっとしゃがみ込み、両手を伸べて。
「盛り上がってんな犬ー!」
顔といわず頭といわずわしゃられた犬は「ぐぅぅ」。すっかり元に戻ってしまった仏頂面を引き抜いて、そっと目を逸らした。
見なかったことにしたものは最初から存在していないものとする。それが犬の掟だ。
「あれおい犬冷た――おい、見なかったふりとかすんな俺のことかわいがれよー!!」
そういうとこうざいから知らん振りされるんじゃないかなぁ。
言わずにそっとしまい込み、ため息をつく花子だった。
犬と共に通路2往復を5回繰り返し終えた義人は休憩がてら、壁へ等間隔に並ぶ銃眼から町並をのぞいてみる。
「城も町も? なんかヘンな形っすよね」
この城は山脈の狭間に捻じ込まれるように建てられており、全体の形は二等辺三角形によく似ていた。そして城壁というものは三角形の底面――城の前方へ扇状に拡がる城下町の方向にしか存在しないのだ。
なぜこのような都作りがされたかといえば、この地に在る水源を、城という“蓋”でもって外敵から守るがため。
「当時は安全に水を確保できる手段が少なかったしね。だから初代の聖女王はここが欲しいって王者にねだったのさ」
今は王城の東側から伸び出し、都民へ水をもたらすと同時に都の東端の境界線を務める河。この地を見出した透白の聖女は大はしゃぎしたものだ。
と、つい思い出してしまった花子はかぶりを振り、苦いばかりのそれをかき消した。
「あんまり見ないほうがいいよ。もしかしたらゴブリンに気づかれるかもしれないし」
「え、そんなすげーんすか? だったら逆に見てみてーんすけど!」
ゴブリン群は今、町のすぐ外に控えてしている。敵である人間の都へ勇者を送り届けようというのだから、相当の数がいるはずだ。
それを見てしまえば義人が気圧されてしまうかもしれないと、そんな心配をしたのだが……取り越し苦労だったようだ。
勇者に感じ入ったのは確かでも、ゴブリンはゲームの雑魚って印象が拭い切れてないんだろうね。今はそれでいいよ。やり合う前から萎縮されたら次にも繋がらないし。
胸中でつぶやいた花子へ、ふと義人が問うた。
「そういやゴブリンが欲しいのって、やっぱ王者の手なんすか?」
対して花子はわずかに眉根を引き下げ、低い声音で答える。
「いや、手じゃないよ。王者の称号さ」
今は人間の手にある王者の称号。それを獲た種こそがこの世界の主となり、思うがまま繁栄できる。
「そういうことになってるし、実際に王者を輩出した人間はたった数世代の間に他種を抑えて繁栄したよ。でもね」
義人へ聞かせるでもなく、花子はただ自分の胸中に詰まっていた思いを吐き出していく。
「四十三代めになってもさ、聖女王は初代の言いつけ通りに国の体裁を維持してるだけなんだよね。見なくてもわかるよ。町も民も何百年前と同じまま、ただ豊かになってるだけなんだって」
呪いだよ。繁栄って名前の停滞は。
低く添えられたひと言は重く、怒りの棘を悲しげに垂れ落とさせていて。
義人は真剣に聞き、うなずいた。
彼女の心中を単純バカが見透かせるはずがない。それについてなにを言っても嘘をつくだけになってしまうから、わかることだけを口にした。
「先輩の話、よくわかんねっす。王者もチャンピオンって感じじゃねーんすよね? やっぱわかんねっす」
義人は短く刈られた自分の頭をくしゃくしゃ掻き回し、「あーっ!」。
「なんか俺わかんねーことばっかっす! これ、ガチやばいんじゃねーかって思うんすけど! 俺、実は考えるのとかマジ苦手なんで!」
「実は苦手かぁ」
知ってるけど。言わずにおいて、花子は顰んでいた表情を緩める。
後輩くんはこういうとこほんと、潔いね。わからないことをわからないって言えるのは美徳だよ。
「? なんか目がなまあったかくねっすか?」
野生の勘で察しかけた後輩へ彼女はまあまあ、手を振ってみせて、
「それより後輩くん。君、いつまで走れば気が済むんだい?」
話題を変えて言ってみれば、義人はさらっと、
「1600メートルあと3本なんで、時間計っといてください!」
「ぉまっ――ぉまちっ、くだ、ざぃっ。ョシド、どのぉ」
今まで記さずにきたが、この場にはもうひとりの人物がいた。
義人のトレーニングに付き合いたいと申し出たはいいが最初の100メートルダッシュで横っ腹を痛めて悶絶し、それでもなんとか王者に続こうとあがいてもがいてのたうちまわる、この国で12番めに偉い王子セルファンが。
「ぃま、ぃきまずがらぷぉろぉげぇっ」
全身を脂汗にまみれさせた貴公子が絶対に吐いてはいけないものを吐き吐き、四つん這いでじりじり進むその姿は悲惨のひと言。はっきりと言えば恐い。
「王子はそれくらいにしておくべきだね。息も満足にできてないじゃないか。そこのバカに付き合って病気にでもなったら、恐い聖女王に継承権取り上げられるよ」
花子から見ても、セルファンに運動神経や運動能力が皆無であることは瞭然だった。走る姿にはリズム感がなく、構えにも安定感がなく、妙にくねっていて恰好悪い。
でも、当の王子は血の気の失せた美貌を皮肉に笑ませ、
「いまさら、です、よ」
聖女継承に拘るこの国において、王子は万が一の備えに過ぎない。
上位に据えられた聖女王候補全員が死亡し、王家の血脈を繋ぐことを求められた際にのみ機能させられる、備え。
無論そのような事態が起こり得るはずはなく、第四十四代の聖女王が誕生すれば彼はこの城から解放されることとなるだろうが、それはいったい何年後の話だ? 10年後? 30年後? 50年後?
国政に関わる権利が一切与えられていないからこそ、セルファンはいくらか自由であることを許されている。城内限定であるとはいえ、だ。
だからなのだろうか。彼が王者オタクというだけの理由ではなく、少しだけでも強くなりたいと思ってしまうのは。
……僕はきっと浮かれているんだろう。ヨシト殿と出会って、毎日が楽しくて。でも、それは僕自身の立場を危うくするだけじゃない。決闘に臨む王者の勝利を危うくしてしまってはいないか?
王子の複雑な胸中をもちろん察することなく義人は手を差し伸べ、華奢な体を引っぱり上げた。
「じゃ、行きますか」
セルファンは吐き気を無理矢理飲み下してうなずいた後少し迷って。問うてしまう。
「申し訳ありません。僕の身勝手でヨシト殿の邪魔をしてしまって」
当然、曖昧な「いやー、ジャマじゃねっすよ」か直球の「マジでジャマっす」が返ってくるものと、そう思っていたのに。
「なに疲れてんすか。走りゃ走っただけもっと走れる感じになるっすよ」
義人は本気でセルファンが疲れて弱音を吐いたのだと思ったらしい。その上で、走れば弱音の素は消えて失せると言い切った。
……雷に打たれる、とはこのような心持ちを指すのだろうか。
裏も表もないまっすぐなだけの男の言葉が、無数に刻まれた心の掻き傷へ染み入り、尽きることない痛みを和らげる。
この人は僕を腫れ物でも種馬でもないただの「セルさん」だと思ってくれていて、素質があろうとなかろうと関係なく、やりたいと申し出た自分の気持ちを信じてくれた。
青く冷めた顔を上げ、セルファンは元気よく「はい!」。がくつく脚を無理矢理伸ばしてしっかりと立つ。
そして息が整ったことを確かめた後、最高の笑顔を王者へ向けて。
「ヨシト殿と同じ時を過ごせる機など千金すらも及ばない至福!! そも初代王者が自身に心得のない槍術を授けられる際、筆舌し難い苦辛を味わったとの記述が複数見受けられ、ほんのわずかながら僕もそれを体験できることはまさに至極というものです! 例えるならそう――」