「ウォ!」
犬は尖った声音を噴き、身を引いて義人の手から逃げる。
なにを考えている? あれはあの男の手ではない。“彼”の手だ。そう思い直しはすれど、それはそれでなんともしっくりと来なくて、戸惑って。
わけがわからない。それでも自分を無理矢理奮わせ、歯を剥いて身構えた。
自分はまだやれる。こちらも本気でやる。身の内で練り上げた力をもれなく解放し、この嘘つきではなかった男ごと消し飛ば
「今日んとこはって言ったろ? また遊ぼーぜ。殴り合いでもほかのなんかでも」
また頭を撫でられて、込めた力がばらばらと散り消えていった。
こんなもので懐柔されてしまうなど許されない。そう思うほどに集中が阻害されるのもあの女の魔術のせいなのか?
「グルッ!」
睨みつければ花子は肩をすくめ、犬の耳にしか届かないよう細く絞った声音を紡ぐ。
あきらめるんだね。そこのバカはあたしも君も放っておかないつもりらしいから。
「グゥ」
不満だ。それはもう不満だけれど。しかたない。
「ぐぅ」
次に遊ぶときに嫌というほど思い知らせてやる。この男の得意でなく、自分の得意――引っぱりっこで。
ワードッグの姿を解いた黒犬の仏頂面を左右から挟みつけ、義人はぶーと唇を尖らせた。
「もっと俺のこと歓迎しろって。かわいがってくれていいんだぜー、なあ」
言いながらぐりぐり、インフィニティの軌道を描かせる。
「ぐぅ」
犬の不満はさておき。彼の両手から術式の糸を引き抜いた花子は、笑みを含めた声音を投げかけた。
「おめでとう。その手の正当後継者は君だ」
「手? あー、忘れてました」
普通に自分の手だと思い違えていたが、そういえば借り物だった。
それほど普通に手は義人へ馴染んでいる。包帯を突き抜けて掌をこする犬の毛先のこそばゆさに思わず口の端を緩め、彼は誰とも知らない手の持ち主へ祈った。
名前知らねっすけどナントカさんの手、大事に使わしてもらいます。ですから! どうかちょっとやらしいこととかしても許してやってくださいだってほらおとこのこなんでそういうのってあるじゃないすかおねがいします――
彼の邪な祈りを感知したのかどうなのか。花子はあきれ顔を左右に振って、言の葉を割り込ませる。
「これも忘れてるだろうから言っておくけど」
込められた意思の強さが義人の、さらに犬の目を引きつけて。
「君が継いだ手には使命がある。果たされなかったそれを果たす、君の言いかたを借りればやりきる。それが正当後継者のやるべきことだよ」
忘れていたが、忘れていない。忘れて逃げるような真似を、自分は自分にけして許さない。
義人は顔を引き締め、うなずいた。
「なにすればいいんすか?」
「向こうに行けばいくらでも説明してくれる輩がいるし、君だって思い知るさ」
「了解っす!」
花子が返してきた答になっていない答を疑ってみることも考え込むこともなくさくっと受け容れた彼だが、「あ、でも」。眉根を引き下げ、物言いたげな顔をして。
「ん、なんだい後輩くん。なにか引っかかることでもあるのかい?」
当然といえば当然だ。彼からすれば知りたいことが山ほどあるはずだから。
今は明かしたくない花子の都合はあれど、少しくらいは答えてやらなければなるまいか。
視線で促す彼女へ、義人は恐る恐る口を開き、弱々しく告白する。
「こんなの誰かに言うの初めてなんすけど俺、実は難しい話と長い話ガチで苦手なんす」
なんか途中からわかんなくなるんすよ。
花子はそんな彼へやさしくうなずき、
「そんなの知るか」
それはもう酷薄に突き放した。
「犬も先輩も俺に冷たくね……?」
ぶつぶつ言いながら足に引っかけたサンダルをぺたぺた、脱ぎ棄てた病衣を探しに行く義人。
ボクサーは裸がユニホームだけれども、さすがに未知の土地へ短パン一丁では心許なさすぎる。まあ、ないよりマシという程度ながら、ないとあるでは大違いというもの。
と、そこへ。
「ちょ、持ってきてくれたんか、おいー!」
なんと、犬が病衣を咥えてこちらへ歩いてきたではないか!
感動に涙を滲ませながら、彼はかがみ込んで両手を拡げて「よし!」、待ち構えたのだが。
「来ぃーい、いぃっ?」
犬はまったく歩調を緩めることなくするっと彼の脇をすり抜け、歩き去っていく。
「おま、どこ行くんだよ、なぁ!?」
門だ。犬は門扉の前で振り返り、前肢を小さく跳ねさせる。
早く開けろと急かされているのは間違いない。ついでに、咥え込んだ病衣を返すつもりがないことも。
いやいや、始めっからいっしょに行こうぜって言う気だったけどさぁ! 一枚しかねー服はやんねーって!
「君のにおいがするものを持っておきたいんだなぁ。ああ、けなげだねぇ。かわいいねぇ」
かわいい!? あれが!? どこが!?
ともあれ花子のにやにや顔へ負けないために変顔を返して、義人は小さな門の前へと立った。
この先に異世界がある。
受け継いだ手へ握り込まなければならない使命がある。
だが、その胸に恐れも後れもありはしなかった。自分の右に魔法使いの花子がいて、左には仏頂面の犬がいる、唯一懸念があるとしたらまさにこの頼りない恰好なわけだが、大丈夫だろうから大丈夫。
「じゃ、行きますか!」
手がそうしていたように取っ手を掴み、呼吸を整えて押し込めば、重い門扉はゆっくりと、しかしなめらかに開いていく。
中央へ縦一文字の狭間が生まれ、それは速やかに拡がり拡がり拡がって、そして。
義人に未知の様を見せつけるのだ。