舐めた真似をしてくれる!!
憤怒の赤に侵された両目でもって獲物を追い、左手の爪を突き込んで、躱されて。
それでも犬は犬は両手の爪以外を使わない。なぜならあの嘘つきは弱々の雑魚だからだ。それをきっちり思い知らせてやらなければ気が済まない。
だというのに思い通り圧倒できず、翻弄までされているからこそ、犬はより両手に縛られ、それ以外を使えなくなっていた。
おまえ焦ってんだろ、わかってるって。
義人は皮肉な笑みを口の端へ刻み、ステップを加速する。
――義人は身長でもリーチ(腕の長さ)でも他の選手より大きく劣っていた。
さもありなん。体躯に恵まれた欧米の選手ひしめくウェルター級へ、彼はまったくのナチュラルウェイトで臨んでいたのだから。
減量という作業を行い、階級を下げることで優位を得る。それは普通に行われていることで、なにもおかしいものではない。だというのにそれをしなかったのはなぜか?
自分がこうと思い定めた真っ向勝負を穢さないためだ。
妙な拘りを振りかざすチビは勝ち星の肥やし――そう嘲笑い、驚くほどの遠間から強烈なパンチを突き込んでくる輩。それをぶっ飛ばすため、死に物狂いで技術を学び、考えるまでもなくそれを繰れるようになるまで体へ刻み込んだ。
得意のコンビネーションなどというものはない。得意のファイトスタイルもなにもあるものか。
休むのと同じらしいバカの考えに頼らず、反応と反射で闘う。
その上で考えて、休むよりはマシななにかを捻り出す。
遣えるものを全部遣い尽くして最後には勝つ。それこそが己の常道で王道だから。
もちろん今回も勝つ!
嘘つきを捕まえられない。右手ひとつで爪が弾かれ、ちょこまかと逃げ回られて。かと思えば間合を詰められて小さなパンチを当てられて、離脱される。
苛立ちの余りに犬は「ゴオォオッ!!」、威圧の咆吼を吐きつけ、繰り出す爪へ全力をかけたが、それも叩き落とされた。
こうなれば低い蹴りで下腹か腿を抉って――いや、だめだ。それをすればこちらが掲げた格を自ら引き落とすこととなってしまう。
ああ、まるでおもしろくない! おもしろくない。おもしろくは、ないのだが。
「やばい死ぬやばい!」
思わず弱音を吐き出しながら、義人は犬渾身の右ストレートを手背でブロックして流し、続くボディブロウを掌で叩き落とした。
手で迎撃できるようになり、できることは大きく拡がった。ただ攻防を演じるだけでなく、犬を焦らせて力ませ、最大の売りである迅速を鈍らせることを為せるまでに。
だというのに追い立てるよりも追い詰められているのだから、本当に厄介な対戦相手であった。
「グルッ」
低い唸りを漏らしながら攻めの機を探る犬。その圧に押し下げられないよう踏ん張れば、わずかな時間の間で増やされた傷がひりと疼く。
オーケーオーケー、そりゃあ痛いけどな。焦んなよ俺。
「追いかけっこもそろそろ飽きたんじゃねーか? だったら」
唐突にステップワークを止め、底へ突き立てた両足を強く躙る。
「真っ向勝負で遊ぼーぜ?」
拳に込められた義人の熱が糸を伝い来た。
花子はそれが手の力を暴走させないよう慎重に調整を施していく。水の術式で冷却すれば簡単に済むことではあったが、それをすれば義人の心まで冷ましてしまうだろう。
思うことは多々あるし、なにか声をかけるべきかと迷う。が、結局はただ見守ることを選んだ。彼の集中をわずかにでも乱さないために。彼を信じた自分の心へ背かないために。
「ゴァァッ!!」
犬の右手が加速し、左手が加速して、加速加速加速。
「ぉあああぁああぁぁあぁ!!」
勇ましさなど微塵もない悲鳴めいた絶叫をあげ、義人は犬の連撃をいなし、流していった。
もう機先を読むどころではないし、なにかを考えることさえできはしない。ただ体で憶えた技術を本能が繰ってくれるまま両手を舞わすのみ。
「ゥガウルルフウゥウウッ」
攻める犬がなにやら声音を紡ぎ、
「ああぁあああはははぁっ」
守る義人が声音を弾ませる。
「ガフグルグゥォッ」
「ぉぁはははははっ」
いつしか彼らは笑い出していた。
互いに両手のみを遣うとのルールを課した、嘘偽りない本気の遊び。それがこの上なく楽しくて。
「ォフォッ」
犬はしかと閉ざしていた口を緩めて発し、右の爪を突き込んできた。
「へっ!」
それを潜って肉薄した義人は一瞬迷う。
犬が口を開けるほど疲労している今、ボディブロウは最大効果を発揮しよう。
でも、それじゃ俺が嘘ついたことになっちまうからな。
約束通り、あの鼻面をまっすぐ突き抜く。思い定めた彼は振り下ろされてきた左の爪の脇をすり抜けて、先の攻めを潜った低い姿勢を保つ中で撓めに撓めてきた膝のバネを解放。他の筋肉のバネすべてを連動させて体を跳ね上げて。
さっきよりビックリしろ犬っ!!
これはつい先ほど見せられた、突き上げる拳打だ。
瞬時に判断した犬だったが、腕を振り下ろした体は今なお下へと向かい続けており、上へはもちろん右へも左へも動かせはしない。
果たして。
真下から突き上げられた顎が大きく跳ね上がり、緩んでいた上下の犬歯がガヂリ、強く噛み合った。
「ッ!?」
無理矢理噛み合わされた歯以外、痛む箇所はない。あのときの手同様、弾き上げられただけだ。
浮かされた顔面ががくりと沈みゆく中、立て直しにかかる犬だったが。その鼻先にはすでに義人の右拳が在った。
あの女の術式で固められたこの一打は自分の鼻を潰し、顔面をぐしゃぐしゃに破壊するだろう。何百年ぶりかに与えられる痛みが恐ろしくないはずはない。が、こうなれば受け容れよう。本気で遊んだ代償、その支払いを拒むのはあまりに不義理というものだから。
あきらめて、そのときを待っていたのに。
拳が唐突に開き、掌が鼻面を擦って突き抜けて。
「ヮフ!?」
「今日んとこは俺の勝ちな!」
自分の頭をわしわし撫で回す手の向こうに顔いっぱいの笑みが輝いたのだ。