まっすぐに踏み出した左足へ右足を追わせ、また左足を踏み出す義人。
回り込むことなく直ぐに犬へと向かい、フェイントをかけることもなく拳の間合へ踏み入った。
ふん。犬の鼻息が鼻先を押してくる。
それで自覚させられた。自分が間合を掴んだと同時、相手の間合へ捕らわれたのだということを。
――上等だ。
先に仕掛けるか、仕掛けさせて合わせるか。先に行くならフェイントを先に置くか、後へ回るならカウンターを狙うか。
互いに動きを止めてにらみ合う中、義人は犬の機先を探りながら思考して、息と共に全部吐き棄てた。
考えれば考えるほど自分が濁る。濁れば淀み、流れが止まる。
考えることをやめれば体は勝手に動き出す。
待ち構えるなどという頭脳プレイは単純バカにそぐわない。だからこそ、勝手に溢れ出てくる体に染みこませたものへ自分を乗せ、無心で攻めるだけだ。
「おまえの鼻面、まっすぐぶち抜いてやっからな!」
考えないはずが決め手を限定したあげく大きな声で宣言してしまう……実にアレな感じではあったけれども。
君はほんとに思ったこと言っちゃうよなぁ。花子はあきれるより感心しつつ指先を蠢かせ、彼の両手へ結んだ術式の糸を繰る。
手の力を遣えない義人はつまり、術式を付与された手の制御もまったく行えない。
ただでさえ過ぎるほど強い力を備えた手だ。今も正しく発現させられない力を内で荒ぶらせ、犬ごと暫定継承者を噴き飛ばそうとしていて。
させないけどね。
繋いだ糸は言わば手綱だ。手の力を術式の燃料として機能させられるよう術式を編み変え続け、両者を制御し続けるための、それこそ命綱でもある。
言うは易いが、実際に制御するのはおそろしく難しい。力尽くの精密作業という理不尽な代物へ向かわされるようなもので、だからこそ術者の心身を酷く疲弊させる。
後輩くん、まったくほんとに才能ないからなぁ。
苦笑して、花子は今にも消し飛びそうなまでに痛む頭から弱気を振り落とした。
あのバカの自在を保てるよう、気づかせずに手綱を繰る。これまで数多を修め、この身に収めてきた叡智を尽くして支えきる。
結局はさりげなく助けちゃうんだよなぁ。なんて奥ゆかしいんだろうね、あたし。
彼女の奮迅を知らないまま、義人はその場で構えを据えた。
右の拳は首をすくめて前へ出した顔の脇に置き、一応は防御にも回せるよう備えているようだが、問題は左拳だ。
まっすぐだらりと下げられたそれは、肘を細かに揺らすばかり。
攻撃特化のスタイルらしいことは知れたが、花子には意味がわからなかった。そもそも義人がプロボクサーだとは知っていても、階級や戦績、ファイトスタイル、なにも知らないのだ。
彼はいったいなにがしたい?
正解はすぐに知れた。
「しぃっ!」
噛み締めた歯の隙から気迫が噴く。
先んじたそれへ下から伸び上がって追いつき、挙動の中で伸縮する筋肉と肩、肘、手首のしなりによって稲妻のごとき軌跡を描いて置き去った左拳が、犬の鼻面へ押し迫って。
速さが増したわけではない。と、犬が寸手で顔を引いて躱したときにはもう、襲い来た左拳は下まで引き戻されていた。
当たらないと見て戻した? それよりも鼻腔の先にこびりついたこの臭いはあの女の魔術だ。実に気に入らない。
「グゥ」
怒りがこみ上げてきた。あの女の臭い術を遣ってまで食い下がろうとするこの男のいじましさ、不快に過ぎる。
早く終わらせよう。心臓を串刺すか、首を落とすか、腸を千切
「ォア」
胸中で唱え終わるよりも迅く下から左拳が飛んできて、犬は思わず一歩を退いた。
自分が下がらせられた? この期待外れなバカに?
腹立たしい。
苛立たしい。
手を奪っていこうとした者は多くあったが、誰ひとり認められる者などいはしなかった。弱い、小狡い、浅ましい。すべてが自分の欲のために“彼”の手を欲しがって。
この男もそうだ。絶対、ほかの輩と同じなのだ。
自分から誘ってきたくせに、他のものへばかり意識を向ける男。つまり遊ぼうとの誘いは嘘で、だから約束とやらも嘘ということだ。
最悪の最期をくれてやる。
この憤りを鎮める贄として、その嘘臭い命を差し出すがいい。
変わらない仏頂面とはいえさすがにわかる。
「そんな怒んなよー」
義人が声をかれれば、犬は鼻面に皺を寄せて「グゥ!!」。
おお、非定型が強い。
ついでとばかりに防御の薄い彼の顔面へ爪先が突き込まれてきたが、これを右の手背で外へと払って半歩分前へ。下げていた左手を上へと跳ね上げた。
「ッ」
息を詰める犬。
まったく同じ手を三度、それで当てられると思うか!? 苛立ちはしかし、上唇の端を擦った拳にめくられて、剥き出された歯が驚愕にきしんだ。
ダメージはない。だが、反応はしっかりとしているのにこの体たらく、自分の見切りがずらされているからに他ならなかった。それもこれも、あの左手の変則的な挙動がこちらを惑わせているせいだ。
受けに回るから惑う。ならば先に攻め潰せばいいだけのこと。
「グォウッ!!」
左右左左右、間髪入れずに振り込まれる犬の爪。
細かなステップワークで身を左右へずらし、義人は左へ左へと回り込んでいく。
別に爪が突かれる機先を見切っているわけではなかった。残念ながら自分の目が追いつける迅さではありえないのだから。
しかし、ただ周囲を回るのでなく、ステップとはリズムをずらしながら上体を振ることで、犬の狙いを外している。理屈は先ほどの誘い込みと同様だが、誘いが複雑化しているだけにより危険度の高い一手であった。そうと自覚して行うならば、だが。
考えるまでもなく体は動く。だから余計なことを考えず、義人はただ体を動かすだけだ。
「ゴォオオッ!!」
咆吼に乗せて振りかぶられた犬の爪がフルスイングで横薙がれる。
これもまた考えることなく感じるばかりで躱し、義人はさらに左へ抜け、手招いた。
「捕まえてごらんなさーい、ってな」