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8.義人

「3分経ったし離れて離れて。えっと、ブレイクだ」

 分厚い大盾を千切りにもできよう犬の爪先を、割って入った花子の背がしかと受け止めていた。

「ァウ!」

 まだ時間はあるだろう。そんな抗議を含めて唸る犬だったが、

「さっきから休憩時間短めになってたろう? その代わりだよ」

「グゥ」

 言い返されて、渋々とながら結局距離を空ける。

 けして納得しているわけではない。ただ、あの女は敵に回すとなかなか恐いし、そうでなくともおそろしく面倒臭い。だから今だけは従ってやろう。


 一方の義人はおろおろ、花子の周りを意味なく回り続けていた。

「あ、って、せ先ぱ輩、せ背中か」

「ちゃんと守ったから大丈夫だよ」

 言われてみれば、肩のすぐ下あたりに空いた破れ目から赤い光が漏れ出ている。さらに注目してみると、それがいつの間にか皮膚を鎧っていた赤い鱗の照り返しであることが知れて。

「先輩、佐藤さんじゃなくてさかなサン、だったんすか?」

「恐る恐る訊くことじゃないし、そもそも的外れだし」

 背中を隠しつつ彼女が咳払いすると、鱗は綺麗に消えて傷ひとつない肌が取り戻される。ちなみに義人は礼儀正しく掌で自分の目を塞いでいた。

「竜の鱗だよ。あたしたちの世界からも失われかけてる古い魔術の力さ」

 世界最高の攻撃力と防御力とを兼ね備える竜。身体の一部を変化させ、竜めいた形と力とを得るこの竜化術式は、習熟難度の高さに見合わない遣い勝手の悪さのせいで滅びつつある文字通りの遺物だった。

「やば、かっけーっすねそれ! ドラゴン! ドラゴンっすもんね!」

 盛り上がった直後、自分のあちこちに刻まれた傷を抱えて悶える義人。

「ぁぎゃああぁあああ!! いってぇぇえぇえぇっ!!」

 いやはやまったく、男子という輩はなぜにこうも竜が好きなんだろうか。


 最初から鱗を見せておけばよかったかな……苦い表情を左右に振り振り、花子はあらためて切り出した。

「それは置いておいて。魔術って結構万能だよ? 君もそろそろ意地引っ込めてビーム出そうよ。犬もやる気ないみたいだし、2、3回当てたら引き分けで終われるよ」

 どれほど犬が手加減していたのだとしても、トータル8分弱も力の助けなしにその攻撃を避け続け、生き延びた。それは評価に値する。

 それに免じて君を生きたまま帰したげる。手は、しょうがないから代わりのなにかあげようか。記憶はいじらせてもらうとして、落としどころとしてはいい感じ――


「すんませんっす! 俺バカでした!!」


 それは凄まじく唐突な、されど教本に載せたくなるほど見事な土下座だった、

 上向いた後輩の背はあまりにも浅ましく惨めったらしく、だというのにそれはそれで清々しい男らしさを魅せてもいて。

 なんだろうね。これぞ男の覚悟ってことなのかな。気の抜けた思考を紡いで、「知ってる」。

 実際のところ、世界でいちばん深々と思い知っていた。

 そんな花子の心情を察することなく、くわっと頭を上げた義人はさらに言ったものだ。

「俺、ガチでバカなんす!!」

「うん、だから知ってる」

 これは意味のある会話にならないやつだ。まあ、意地を張るのをやめて力を遣うならそれでいい。これで無駄な試練を仕舞いにできる。

 と、術式を編み始めた彼女の手を止めたのは、義人が繋げた意外なひと言だった。

「バカっすけど俺、絶対ほっとかねーんすよ」



 花子はまたもバイトの日々を思い出す。

 さまざまな問題が噴き出しては襲い来る日々、義人はただひたすら且つ直向きに誰かのために動き、花子は口も手も出すことなく、よく言えば見守った。

『後輩くんは全力でがんばれ。あたしはなんとなく見とくし、後は全部君に任した』

『っす! ありがとうございまっす!!』

 単純バカな義人の頭脳は花子の言葉の内容ではなく、真剣な雰囲気によって惑わされ、結局全部押しつけられていたのだが、その上でなお彼は他の問題を抱えに行く。

 さすがにここまで来ればただの単純バカとは言い難い。花子はふと訊いてみたものだ。

『君、バカじゃなくてマゾの人?』

『は!? ちがうっすよ!』

義人は思いきりかぶりを振って、

『誰か困ってたり泣いてたり寂しかったりするの、ほっとけねーっつか、ほっとかねっす』

 そこに救われたい誰かがいるから放っておけないではなく、放っておかない。

『うん、さっぱり意味がわからないよ多分マゾの人』

『いやいや俺殴られんのキライなんで! いや、ボクサーなんで殴られてもいいんすけど、あれ? 俺ガチでそっち?』


 とまあ、なかなかにいいコンビではあったのだが、それももう終わり。

 理由はごくシンプルで、花子がバイトを辞めたから。

『今日から君も独り立ちだ。全部あたしのおかげさまだねぇ』

『先輩ガチでありがとうございました! でも俺、なんか面倒見てもらった記憶ないんすけど』

『それだけあたしのフォローがさりげなく完璧だったってことさ』

『あれ? そう、なんすか? 俺、なんか』

『悩まなくていい。君は君でいてくれたらいいんだよ』

 最後までこんな調子だったが、だからこそ花子はここを離れられる。この施設から、この地から、この国から、いずれは――


 彼女が名残を振り切って踏み出した、たった十数時間の後。義人は不慮の事故に遭った。

 そしてさらに数時間後、彼は彼を貫いたあげく、不慮の転機を迎えることとなったのだ。



「なにを放っておかない?」

 これまで捨て置いた真実を、今こそはっきりとさせなければいけない。花子は不可思議な使命感をもって彼へ問うた。

「犬っす」

 対して義人はごまかすことなくまっすぐと返す。

 浅ましさを追い越して、惨めったらしさを置き去って、清々しさだけを湛えて、立ち上がって。

「何百年も1匹ぼっちで、この後も1匹ぼっちとか、そんなつまんねーのほっとかねーっしょ」


 独りぼっちが寂しいことを誰より知ってるはずなのに。義人は犬のサインをあっさり見逃していた。

 尻尾振ったのも、なんだかんだ寄ってきたのもさ、ちょっとうれしかったからだろ? しかも遊ぼーぜって俺が言ったから、もうちょっとうれしくなったんだろ。

 ぼっちはヒマでつまんねーよな。寂しくってやりきれねーよな。

 おまえがどう思ってるかわかんねーけど。俺がこんな黒いばっかのとこから引っこ抜いてやる。

 そんでさ、ふっかふかのお花畑でぶっ倒れるまで走り回って遊ぼうぜ。


「ドリルもビームもいらねっす。魔法で手、硬くしてください。犬の爪刺さるとガチで痛いっす」

 義人はこの場へ来るまで腕の先を押さえていた包帯で両手を巻き締め、花子へと差し出した。


 結局ビームは使わず、拳闘に拘るのか。ため息をつきかけて、花子は笑む。

 まあ、この頑なさがあればこそあれほど約束へ拘り、生き抜こうとあがき続けられるのだろう。

 気がつけば、この単純バカのことを認めてしまっている自分がいた。


 つまりあたしは、君に“彼”の手を継がせたいんだ。


 殺されようとしている最中にすら反撃の手を模索し、次へ繋ごうとあがき続ける折れない心を見たから、ではない。

 これまで見続けてきたからだ。単純バカの行動を、心根を、美しいほどの意気を。

 今になってみればだからこそ彼をここへ連れてきたのだろうが、そうと気づけない程度の期待であったし、このまま霧散していくはずのものだった。

 その霧が確かな期待と成り果せたのは、窮地のどん底まで追い詰められた彼が犬へ向けて言い放った「遊ぼうぜ」のひと言だ。

 あれを聞いた瞬間、この心はそうと決めてしまって、気がつけば割って入っていた。


 あたしは犬の孤独に気づこうともしなかった。“彼”の遺品を挟んで右と左にいるだけの顔見知り、どうでもいいヤツだって切り捨てて、自分の約束が果たされないことにばっかり囚われて。

 あたしは思い通りにならないからって怒ってた。悲しんで恨んで憎んで。でも。もうなにもかも放り棄てて後悔するのはまだ早い。そうだろう?


 思い込んでやる。単純バカは最高の逸材なのだと。

 信じ込んでやる。義人こそが自分の願いを叶える者だと。

 そして託させてもらう。その手が果たしきれなかった使命を。

 誰かの孤独を放っておけないでなく、放っておかないと言い切ってきた義理と人情の男は、なにをどれだけ押しつけられてもすべて抱え込み、塞がった手をなお誰かへ伸べるのだろう。損得を計ることなく、それこそただ放っておかないためだけに。

 君の足りないもの、今度こそあたしが全部足す。あたしを尽くして君の約束を果たさせてやる。だから、頼むよ。あたしが棄てかけてたこの約束を果たしておくれ。どうか、どうか、どうか。


「――了解。でも君が好きそうなドラゴンフィストはだめだよ。人間の筋力じゃ持ち上げられないくらい重いし、握り込んだらそれこそ爪が掌に刺さるしね」

「あー」

 残念そうな彼にかまわず、バンテージ代わりの包帯へ指先に集約させた風と土の術式を編み込んだ。毛皮を突き抜くに足る土の重さで固めると同時、その重さを相殺する風の軽さをまとわせる。

「おおおおおお、なんか手がかっけーっす!」

 可視化させた術は彼の両手には宝石のごとき輝きを灯し、魔力の揺らぎを立ち上らせていた。

「ゲームっぽく言えば魔法付与ってやつだね。もっとも燃料の魔力は君の手から引き出してるんだけど」

 とにかく攻撃も防御もそれこそお手のものさ。言い添えて、彼女は口の端を引き絞る。

「ほら、元気に行っといでっ」

 大事なことを告げずに済ませたことを包み隠すように勢いをつけて、ぱぢん! 花子は義人の背へ容赦ない平手を打ちつけた。

「アッヂィッ! 引っかかれたとこ染みるうぅうウゥッ!!」

 横っ腹を抱えてくねる情けない有様を見送り、花子は口の端を吊り上げる。

 あたしが勝たせるなんて言いたくないし、言わない。君が君を貫いて勝て。それが君の握り込んだ使命ってやつだ。

「なんか先輩にちゃんと面倒みてもらって感動っす」

「おっと。これまでのさりげない面倒見から大っぴらな面倒見に変えただけだよ? いくら頭に自信がないにせよそこは正しく理解をだね」


 後ろで騒ぐ花子を置き去り、両手を握り締めた義人は犬へ声をかける。

「お待たせしたけどそろそろやるか」

 こちらの話は聞いていただろうに、犬は相変わらずつまらなさげな仏頂面をしたまま動かない。

 当然だ。なにせ義人に1ミリの期待も抱いていないのだから。

 十二分にわかっている。自分の無力も、それを知りながらなお自力に拘り、犬の期待に背いた頑迷も。

 だからこそ、全部棄てて新たに握り込んだこの手で証してみせる。

「よ、遊ぼーぜ」

 台詞は同じ。しかしながら。

 今度の今度こそガチのガチだぜ!

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