畳んだ肘をステップのリズムに乗せて軽く揺すり、前へ出した左の爪先を支点として後ろにある右足を右横へずらし、体を流す。
対して犬は、自分の周囲を衛星のごとく巡る餌へじわりと正面を向け直すばかり。なんらかの機を窺っていることは間違いない。
攻められようが待たれようが、義人の為すべきことはただひとつ。あと一歩を踏み込んで、どこへでもいいから犬へパンチを当てる。
たとえどれほど弱くとも、衝撃を感じれば体は硬直し、挙動を止めるものだ。そうなれば次の攻めを決める手がかりができる。
犬に玩ばれていることはわかっていた。だからこそ知らしめてやらなければ。絶対の不利を覆す知恵と勇気というものを。
手加減されてんのガチでむかつくよな。本気で来いよ、俺だって死なねーようにがんばるからさ。
花子には「死んでも」と言っていながら、この期に及んで死ぬ覚悟はできていなかった。
せっかくもらえた手を放したくない、これは正直な気持ちだ。
先輩へ対する義理を立てたい、これも本気で思っている。
が、それらと同じほどに、長い間置きっぱなしにされてきたこの手をまた独りぼっちにしたくなくて。
ぼっちが寂しいっての、知ってるからさ。いっしょにぶちかまそうぜ。
「グゥ」
こちらを見ろとでも言わんばかりに犬が爪を突き込んできた。
頭を上体ごと下へ落とし、下を潜った義人は頭を上げる。そこから頭にU字を描かせ、敵の追撃を躱して。
ダッキングからのウィービング。共に敵の打撃を空振りさせることを狙うディフェンステクニックであり、敵にあと少しで当てられると思い込ませることで無駄打ちを重ねさせられる。
果たして4つの攻め手を空振りした犬は「ゥオウ!!」、苛立ちを込めた右足を踏み込ませ、担ぎ上げるように振りかぶった左手を叩き込んできた。
それでもまだ手加減つきかよ。こちらも苛立たしく思いながら、義人は渾身のバネを効かせて自分を跳ね上げ、迫り来る爪の根元を右のアッパーカットで突き上げた。
「ワウッ!?」
びっくりだろ? すっげぇ飛ぶだろ?
無論魔法の類いなどではない。インパクトの瞬間に拳を引くことで衝撃をいや増し、対象物を弾き飛ばす打法だ。
これなら行ける。鼻面を弾けば毛皮の防御力は関係なく、脳を揺らしてダウンさせられる。
がら空きになった敵の顔面へ、「しぃっ!!」。先と同じ右拳を横から振り込んだ。
ショートフック――眼前の敵のこめかみへ死角から叩きつける鉤打ち。
いや、犬の視界の広さを思えば死角は突けてはいまいが、この一閃は完全に虚を突いていた。絶対に、届く。
「グゥ」
先と同じ不満足げな声音。だがしかし、先よりも深刻さと切実さをいや増した声音。
つまらなさげな顔を傾げて鼻先の10センチ先を横切っていった拳を見送った犬は、右拳を義人の腹へと叩き込む。
「げ、ぶっ!!」
義人はげっぷを吐き出した。
と、結果だけで言えばそれだけのことながら、抉られた胃は迫り上がる酸で口を灼かれて鈍く痛み、無理矢理に押し開かれた食道は唾を飲み込めないほど鋭く痛む。
犬からすればこちらを真似てみただけの遊びなのだろう。こちらが遊びの域を超えたダメージを受けているのだとしても。
「ぁぢっ!」
犬の右の爪をサイドステップで避けたその先に、バックハンドで振り回された左の爪が
待ち受けていて。脇腹にするりとキリトリ線を入れられた。
血は染み出している程度、まだやれる。いやそれより集中だ。少しでもしくじれば今度は線どころではないものを刻まれる。ここは一旦退くか?
いやだめだ。犬の追い足から逃げられるわけがないし、ここで退けばもう前へ出られなくなりそうで。
眼前のワードッグは美しい。すらりとした骨格にワイヤーよろしく細く絞り込んだ筋肉を盛りつけた長身は、膂力のみならず背丈もリーチも義人を大きく上回っていた。
だとしても。このまま負けてしまったら、自分はまたもすべてを失ってしまう。果たせなかった約束に苛まれ、長すぎる余生を過ごしていく? 真っ平御免だ。
もう妙な拘りは棄てよう。どんなに汚い手を使ってでも番犬を倒して、暫定後継者から正当後継者に成り上がるのだ。結果さえ出せれば過程はなんとでも言い訳ができる。さあ、ビームが出せるように花子へお願いしようじゃないか。
と、思い定められたならどれほど楽だったことか。
自分は約束を破らない。本気でまっすぐぶち当たり合って真っ向勝負で勝つ。それができなければ、約束の芯に通されたもうひとつの約束へ背いてしまうから。
それに。
狡いことしたら遊びが台無しだもんな。そうだろ――って。
遊び!?
単純バカの頭に気づきと言う名の雷が振り落ちた。
犬がしなくていい手加減をわざわざしている理由はなんだ?
噛みつきも蹴りも、跳躍すらせず手ばかりを振り回しているのはどうしてだ?
なんだよ俺、ガチでバカじゃねーか!!
音にしきれなかった思いを噛み締める義人へ、犬がやる気を失くした爪を斬り込ませてきた。
「ちぃっ!」
それを必死のサイドステップで躱し、無駄と知りつつジャブを打ち込んで、案の定空振り。
ただし想定していただけに未練なく間合を離して、どたばたと追いかけてきたあげくに放り込まれた投げ槍な爪を、あわやで上体を後ろに引くスウェーバックでやり過ごす。
そりゃそんなつまんねー顔するよな。
俺、自分のことばっか考えてた。そんで弱くてなんもできなくて、バカ晒して。
置いてかれたまんまの手が寂しい? もっと寂しいヤツがいんだろがよ!!
……俺、このまんま死ぬんかな。犬がっかりさせたまんま、先輩に義理も立てらんねーで、手ともお別れすんのかよ。
いや死なねー!
犬! なにしたらいいとかさっぱりわかんねーけど、おまえのこと誘ったの俺だから! 死んでらんねーよな!
「よお! 遊ぼうぜ!!」
「グゥ」
無機質な目をギラリと光らせた犬が、右手の爪を義人の心臓へと突き込む。
見切りをつけたのだ。これ以上遊ぶ意味も意義もありはしないと。
これからまた長い間、独りで手の番をして過ごしていく。次の餌はどんな奴なのだろう? どうせならこの奇妙な男のように――
ガヂッ。