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6.多分

 苦戦は終わらない。光明ひとすじ差し込んではくれなかった。


「ガゥッ」

 爪ではなく肉球を押し出しての横殴り。一応は平手打ちということになるのだろうか? なんであれ、当たってしまえば相当なダメージをもらってしまう。

 やらせねーってんだよ!

 自分を勢いづかせて割り込ませた腕は、見事に平手打ちをブロックしたのだが、しかし。

 あ、肉球ふわっふわでやわらかー? とろりと和めたのは一瞬にも満たない間だけ。予想以上の膂力に繰られた面の広さが彼を激しく揺すり、守っていたはずの脳を揺すぶって。

「当たってねーぞ!」

 ノーダメージをアピールしたくて痺れた舌を必死で繰った。概ね成功はしたが、だからといって脳震盪は和らがない。

 頭の中で鐘を打ち鳴らされたのかと疑いたくなるほど、視界が揺れる音が揺れる汗が揺れる。


 踏み外しかけた爪先をなんとか踏ん張って犬の正面から上体を逃がし、義人は唇を噛み締めた。

 収まるまであとどれくらいかかる? いや、待ってなどいられるものか。

「来いよ」

 頭を前に出して揺らしてみせれば、犬は再び平手を振り込んできた。

「っと!」

 義人はこれを倒れ込むように潜って斜め前へ。犬の背後まで駆け抜ける。

 あえて顔を突き出したのは、それこそ相手の攻めを引っぱり出すためだ。あっさりと当たりそうな位置に狙いどころを差し出されればつい追いかけたくなるもの。このあたりは人も魔獣も変わらないらしい。うん、ガチで助かった。

「オゥ!」

 すぼめた口先からひと声を噴き出し、犬が右の爪を突き込んでくる。

 これをブロック――したらそこの肉が削ぎ落とされてしまう! 前へ出しかけた左肩を内へ滑り込ませ、敵の手へ押し上げた。

 成功したはずなのに、熱く冷たい“ひりり”が肩先から渾身へとはしり抜けるのは、犬が咄嗟に曲げた爪先に掻かれたせいだ。

 痛くねーっての!! 食い締めた奥歯の端がごぐりと鈍い音を上げる。端が欠けた? 歯医者に行ける金など持ち合わせていないというのに。思わずすがめた目に犬の肉球がどアップで写し出されて、あわや、上体を右へ振り出し、レバーブロウを捻り込んだ。

 効かないことを忘れていたのは、思い出すことを忘れ果てるほどのピンチだからだ。


 ピンポイントで決まったはずの拳に息を詰めることすらせず、犬は義人の意識を刈り取るべく、延髄目がけて右手を振り下ろした。

 大丈夫、敵が振りかぶったときにはもう、義人はその場を踏み抜けている。

 右へ回り込んでジャブを突く、空振り。もう半歩分右へ回ってジャブ、空振り。右へ身を移してジャブ、空振り。まるで当たらない。

 人間の反応速度を上回る迅さで打ち出されるジャブを、犬は打たれた後に見切り、顔を傾げて躱し続けていた。


 やばい。ガチでバケモンだ。

 やっぱすげーな異世界。


 ほぼほぼ時間差なく飛んできた左と右の爪を下へ潜ってまとめて避け、義人は端が欠け始めた視界の中央に在る犬へ口の端を上げてみせる。

 一度仕切り直すどころか息を吸い込んでいる暇すらもらえない。そのため、体が酸素欠乏を起こしつつあった。

 あと何回パンチを打てる? 何回回避できる?

「ひェッ」

 頬をかすめていった爪に声音を裏返し、大きくサイドステップ。なんとか追撃の間合を外した。まだ大丈夫……ほんとに大丈夫か俺!?


「3分」

 花子の宣告を受けた犬が前に傾げていた重心を引き戻し、跳びすさった。

 鼻面を皺々と波打たせていて、種族の違う義人にもはっきりとその不満が見て取れるが、さておき。

「ぶぁはっ」

 溜まっていた息を吐き出し、酸素を貪り吸う。

 あってくれてよかった、空気!

 掌で汗まみれの胸元を拭えば、べたりと掌にまとわりついた。冷や汗に相当量の脂汗が混じっているせいだ。

 なんか俺のせいで大活躍させてやれてねーな、手。

 なにやらすごい力を備えているらしいのに、自分はそれを引き出してやることができない。まさに持ち腐れというよりなくて。だがしかし、それでも。

 俺はやりきらねーとだめなんだ。約束、守らねーと。

 沸き立つ焦燥すらもどこか煮え切らない。なにより大事なものを見失いかけていることは、回りの遅さに定評のある単純バカの脳ですら自覚せざるを得なかった。


「さて、後輩くんにはなにか打開策あるのかな?」

 義人の途方に暮れた顔から微妙に視線を外し、花子は問う。

 正直なところ、体育会系丸出し男のバカさ加減にはうんざりしていた。さっさと犬に喰われてしまえとも思う。

 柄にもなく腹を立てているのだ。

 これまで試練に連れてきた者たちがどれほど惨めに這いつくばっても、この心が動くことなどなかったのに。

 ああ、もう! いいからもう終わりにしておくれよ。ここから見てるだけなのはかなり辛いしさ。

 重いため息をつきかけた、そのとき。


「いらねっす」


「なにが?」

「心配いらねっす」

 義人が笑んでいた。他の誰でもない、花子を安心させたい気持ちを顔いっぱいに込めてにっかりと。

 なに勘違いしてるんだこのバカは。言い返そうとした彼女をキザったらしいしぐさで制しておいて、彼は犬へと踏み出していく。

「義理と人情、義人っす! 先輩だからって女子どもは泣かしませんって」

 先輩だからって泣かさないは差別じゃないか?

 それにしても久々に聞いた。実際は一昨日も聞いているのでまるで久々ではないのだが。


『義理と人情、義人っす』は彼の決めゼリフである。どちらも名前に含まれているし語呂も悪くはない。だがしかし。

 義人は確か二十歳そこそこだから、相当伝統的な名前をつけられたものと言えよう。初めて聞いたときに花子がそれを指摘すると、彼は不敵な笑みを立てた親指へ添えて、

『オヤジにもらったいい名前っす!』

 結局、親からもらった名前に思い入れがあることを報されて終わり、以降はスルーし続けてきた。

 そう、たかがそれだけの話なのに。

 やけに気になってしまう。なんなんだろうね、これ。ほんとになんだっていうんだろう。


 花子の靄めいた心情にまるで気づかず、義人は一歩を踏み出した。

 今もなにをすればいいのかは見えていない。

 見えてはいないが、ここへ連れてきてくれた花子への恩返しをやりきる。そうでなければ義理が立たない。

 なんで、泣かねーでくださいよ先輩。俺はやりますよ。なんかこう、いい感じにやってきますんで、多分!

「よっし、続きやろうぜ!」

 またも1分の休憩は半ばで中断され、闘いが再開する。

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