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4.強敵

 義人はすっかりかわいげを失った――それは初めからなかったけれども――犬へ視線を据え、病衣を脱ぎ落とした。

「うわモッキモキだね。脂肪少なすぎて戦場じゃ遣えなさそうだし、まったくもって好みじゃないねぇ」

 普段から気をつけて絞っている自慢のボディ、酷評である。

 というか評の方向性が普通の女子と違い過ぎだ。

「結構女子ウケいい体なんすけど……」

 筋肉に厳しい日本以外の国の女子限定だが。

 ともあれ誰が履かせてくれたのかわからない短パンに感謝しつつ、サンダルを脱いで爪先を立てる。そして前後にステッピング、足場を確かめて。

 ロープが張ってあればと思ったし、手を鎧うバンテージとグローブ、それと歯に被せるマウスピースが欲しくもあったが、とりあえず、やれる。

「ボクシングって3分やって1分休みだったかな。で、その3分が何回続くんだったっけね? ううん、命尽きるまででいいかぁ」

「オフッ」

 義人を放って犬とルールの確認? をしていた花子が戻ってきて、

「後輩くんに朗報だよ。なんと! ボクシングルールが採用されました!」

 拍手を強いる花子へ「いやいや」とツッコみを返して、

「ないっすからね、死ぬまで殴り合うみたいな地獄ルール」

「それはあれだよ異世界ルール。ま、いつでも降参はできるよってことで」

 なんでもない顔で答えた花子がつと顔を寄せ、

「君が装着したそれは数多の挑戦者を退けてきた王者の手だ。その力があれば大丈夫」

「よくわかんねーすけど」

 義人は振り切るように振り向いて犬を見た。

「やろうぜ」

 二足歩行になっても尻尾は消えておらず、はたはた、2回だけ振られる。そして。

「ォウッ」

 これも先ほどまでとまったく変わらない仏頂面を傾げ、ひと声を発したのだ。

 ああ、通訳は要らない。「来い」と言っている。言葉が通じなくともわかるものだ。たとえ場所がリングでなくとも、相手が人間でなくとも問題なく。

 手、使わせてもらいます。

 決意を握り込んだ右拳を上へもたげ、顎の前へ置いた。続けて左拳をその前へ出して、据える。上体を立て、重心は後ろに置いた右足へいくらか多めにかければ、アップライトと呼ばれる構えが完成した。

 俺、ほんとに構えてるんだぜ、なあ。

 彼が輝かせた視線を半ば閉ざした目で受け流した犬は、垂らしていた両手を前へ出して、「グォウ」。

 跳ねずに滑らせる、獣のセオリーをなぞらない一歩で数メートルの距離を詰め、熊さながらに太く鋭い爪を振り下ろした。

 が、義人はすでに左へ踏み抜けている。

 動き出した後でなく、相手の機先に反応して先の先を取るのがボクサーだ。繰り出した左足の爪先を立てて歩を踏み止め、左フックを敵の頬へと叩きつけた。

 と、犬面が傾ぎ、フックをやり過ごす。どれほどの安全距離を取ったものか知れないが、黒毛の先に灯った体熱が空振った拳に伝い来た。

 なにやら得意げに剥き出された歯、義人がたった今見せた見切りへの当てつけであることは瞭然だ。

 やなヤツかよ! 顔を顰めて右ストレートを打ち込めば、犬はその右腕が伸びきるより迅く己が身を被せ、爪を突き込んできた。

 クロスカウンター。これについて多くを語る野暮はしないが、当たれば天国、当たらなければ地獄を体現する高等技術である。もっとも犬からすれば絶対に当たる簡単な一手なのだろうが。

 ガチでやなヤツだな。笑みすら浮かべ、義人は重心を前へと送り出す。

 被さり来る爪を肩の上へ滑らせ前進。上体を下へ落として、進み落とし落とし落とし。体重のすべてがかかった左の爪先を蹴返し、黒底のにおいを嗅ぎ取れるまで落ちた鼻先を引き上げて上体を捻り。

「しぃっ!」

 左拳を犬の右脇へ捻り込んだ。

 完璧なボディブロウ。相手の肝臓を突き上げ、横隔膜を痺れさせて呼吸を奪い、文字通り地獄の苦辛を与える一撃、そのはずが。

「ゥフッ」

 犬は鼻息ひとつで弾き飛ばしたどころか、逆に爪を横薙いで。

 引き下げた頭のすぐ上を行き過ぎていく爪。

 それに裂かれた風が義人の髪先を千切り飛ばす。

「をがっ」

 思わず妙な声が出たのは、あれに顔面を直撃された図をつい思い浮かべてしまったからだ。

 立ち止まっていたらやられる! 悪寒が這い上る背筋の“ぞくり”に合わせてバックステップ、間合を離した義人は「ぉひょ!」、間合を跳び越えてきた犬が振り下ろしてきた袈裟斬りの爪先をあわやで潜り、前へと逃げ込んだ。

 犬は右手を決めに遣う。それを容易に突き込ませないため、義人は右へ回り込んでその可動域から我が身を外し、頭を左右に揺らしつつ息を整えた。

 犬の毛皮はおそろしく強靱で、パンチをあっさり跳ね返す。何度も打ち込んでいけばあるいは効くのかもしれないが、効果が出るよりも見切られてざっくり行かれるほうが早いだろう。

 ボディブロウはやめだ。そうなれば、狙いどころはあとひとつ。

「っし、おまえの顔面ぶっ飛ばす!」

 なんでわざわざ言うかなぁ。

 花子はやれやれとため息をついた。

 犬はそれこそ遊びに徹しているらしい。蹴りも牙も遣わず、大振りな手だけで相手を追い詰めている。

「ひょっ!」

 犬の鼻面へ向かわせた左拳をあわてて引き戻し、義人はこちらのパンチに合わせて突き込まれた爪を掌で払い落とした。あと2センチ分対応が遅れていたなら鼻先が消失していたところだ。

「ぎゃ!」

「ぉほ!」

「へぃっ!」

 体のどこかがなくなる寸手でかわし続けるあきらめの悪さ、それだけは見事と言えなくもないが……なぜ義人はあれを遣わない?

「うぉわーっ!!」

 犬のフルスイングを必死で躱し、続く唐竹割りを潜った彼は逃げて逃げて逃げて。

 スマホのアラームが鳴ったところで花子は「はい3分」。

 ぴたりと犬が攻めを止め、仏頂面を翻す。

 荒い息をつく義人を見やり、花子は思わず苦いため息を吐き出した。

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