ぐぅ、くもぐり気味の低い音がして、凝視した義人の前になにかが姿を現した。
犬だ。渾身を黒毛で鎧い、黒い瞳をしばたたいて、黒い鼻を蠢かせる黒犬。
大きさはひと抱えくらいだから、中型犬になるだろうか。キツネ系の柴犬というとイメージが近いかもしれない。
ともあれ犬は義人から数メートル離れた後、それはもう見事な仏頂面を向けて、はたはた。2回だけ小さく尻尾を振った。
おかしい、普通の犬はもっと思いきり難度も振って、すぐさま駆け寄ってきたりするだろうに。
「よ、遊ぼーぜ」
とりあえず口に出してみれば、犬はふいと視線を横へ逸らす。
愛想も愛嬌も皆無。犬がよくしているパンティング――舌を出して小刻みな呼吸を繰り返すあれだ――もしない。ただただむっつりとそこに立っているばかりだ。
「先輩。試練って、これとなかよくなるとかっす?」
「それは多分試練より難しいんじゃないかな。結構な顔見知りのあたしにもあれだよ」
義人からも花子からも目を逸らして、ぐぅ。犬は鼻の奥あたりを低く鳴らす。
乗り気じゃないどころか好意皆無なこの感じ。なにをどうすれば距離を縮められるのか、さっぱりわからない。
困ったあげくに視線を犬から外してため息をついて、また視線を戻せば、
「えーっ!?」
犬は先ほどとまったく同じ姿勢のまま、仏頂面もそのままに、彼の真ん前までやってきていた。
「おおー、お、おう。おまえアレなん? ツン、ツンデレ?」
返事はぐぅ。非定型ということで間違いあるまい。
それにしても。我々が思い浮かべがちな犬っぽい盛り上がりを一切演じてくれないため、どう接していいかがまったくわからなくて。
「頭触って大丈夫か?」
とりあえず頭をわしわし撫でてみると、ふん。強く鼻息を噴いて後ずさり、距離を開け直してから2回尻尾を振ってみせた。
「やばいガチわかんねー!!」
真剣に悩み出した彼へ曖昧な笑みを向け、花子はワカラナイダイジョブデスヨー。なぜか裏声カタコトで応えた上で、
「遊んであげてよ。その子は退屈してるんだ。なにせ門が閉まった後の何百年か、ずっと独りで手の番してるんだから」
一気に周囲の黒が張り詰めた。
「っ!?」
緊迫が引き絞られ、それに追い立てられた義人は一歩を退いて。
その中で、前肢を前へついてうんと伸びをした犬が突然膨れ上がった。
みぢめぎと湿った異音をあげながらうねり、伸びて、形作る。そして最後には後ろ肢で立ち上がって――ついには獣人と成り果せたのだ。
「見ての通りあの子はただの犬じゃない。降参するんだったら今のうちだよ」
花子の脅しに義人はくわっと振り向き、「ガチでやばいっす!」。
「でも異世界だーって盛り上がってきました!!」
先に見た魔術は「魔法!」という感じではなく、実感を得られていなかった。が、目の前で犬がワーウルフ、いや、ワードッグへ成り果せていく衝撃は、彼にこれ以上なく実感させるのだ。
これが異世界!
これが俺の対戦相手!
これがもらった手で挑むデビュー戦!
今度こそ、やりきる。
手をくれた誰かの分までやりきって、約束を守りきってみせる。
「あの子に勝たなきゃ異世界には行けないよ。その前に、両手も君のものにならない」
単純バカは余計なことで悩まないし、あれこれ気づかないからありがたい。
とりあえず胸をなで下ろしつつ言って聞かせる花子。
暫定の後継者として“彼”の両手が繋がれた義人。彼へ期待するのはもちろん犬に勝つことではない。
そもそも勝てない。理由はシンプルで、あの犬はおそろしく強いからだ。その気があれば唄に語られる勇者パーティーへ加われるほど。
……犬が“彼”をどれほど大事に思っているものか。あの仏頂面から見て取ることは不可能。が、遺されたものを守るがため、淡々と数百年の孤独を受け入れたのだから、愛情深さはとにかく義理固さは相当と言えよう。
試練はだめでも、せめてほんの少しの間だけあの子の気晴らしに付き合ってやってよ後輩くん。1分とは言わない、30秒だけでも。