神の間にしては黒くないか?
義人は病衣の裾に絡んではふらつく脚へ細心の注意を払いつつ、病院用サンダルの底面を底へ擦り擦り黒の中を進む。
麻酔が効いているせいで力がうまく入りきらない。なのに倒れずに済んでいる理由は鍛え抜いた体幹のおかげか。うん、さすが俺。
「もうじきに見えるよ。ここにあるたったひとつのもの、今度こそ異世界と繋がってる大門が」
すぐ横から花子の声がして、ぎくり! 慄くが、たったそれだけのことで心が動いてしまう自分がどうやら浮かれているらしいと、今さらながらに気づかされた。
ほんとに手がもらえるんなら俺、寿命9割くらいすぐ払うし。
殴るしかしか能がないのだから、殴りきれたと思えるまで殴り続ける。こうして思い出してみるとなんとも曖昧な感じだが、なにより大切な約束だから。投げ出さずに済むなら悪魔とだって契約してやる。
でも先輩、悪魔じゃねーんだよな。
黒の内にぼんやりと浮かび上がってきた花子の姿をあらためて見ても、別にどうということもない普通女子である。しかし彼が欲しくてたまらない手にたまたま当てがあるなど怪しくないか? 本当に悪魔が化けている可能性もなくはない気がしてきた。
「先輩ガチで魔法使いなんすか? 悪魔だったら何年分で許してもらえるっすか?」
「魔術師だから魔法使い寄りだけどって君、相変わらず思ったこと全部訊くねぇ」
それはもう単純バカだから。義人も自覚していることなのだが、さすがに口へ出すのはどうかと――
「あっさり認めちゃうところがまたアレだし」
「なんでわかるんすか!?」
そのまま顔に出るからさ。あえて説かず、花子は一点を指さした。
「じきに異世界への出口が見えるよ。とはいえ開かない門だから、向こうの景色は見えないけど」
門なのに開かない?
問いかけた義人の口が途中で止まり、音を紡ぐことないままぱくりと開いた。
小さな門だ。
身長171センチの義人がぎりぎり頭をかがめずに通れるかという、いっそドアと呼びたくなる代物。それでいて一丁前に両開きなところが実に腹立たしい。と、それはともあれ。
金属とも木材とも知れない不可思議な門扉の取っ手を、それは掴んでいたのだ。
押し開けようとしているのだろうか。それとも引き開けようとしているものか。左右の門扉につけられた取っ手の輪をしかと握り締めた、両の手。
そう、在るのは手だけだ。
一応、見た目は人間のそれと変わらない。元の手よりも少しだけ大きいだろうか。そして手首から上は存在せず、生々しい切り口が見える。
生々しい? 花子の口ぶりからして結構な時間が経っているだろうに、あの切り離されたばかりのような瑞々しさはいったい……それに、本来の主はなぜこんなところへ自分の手を遺していった?
「君にとっていちばん大事なことはなんだい」
差し込まれた花子の問いが彼を引き戻す。
大事なことは。そうだ。あの手を得ること。
「手首をくっつければ全部繋がるよ」
これも見た瞬間からわかっていた。自分の内にある野生なのか本能なのかが、あの手に招かれていることを告げている。
そっか。手さんも待ってくれてたってことだよな。
「いただきます」
進み出た義人は己が腕の先を固める包帯を解き、縫い合わされた疵口をかまわず両手の断面へ押しつけた。
繋がる――痺れが痺れが触感に換わって、応えが伝わり来る。今触れているものはそこにある空気だ。
と、手首から先にまとわっていた虚無を重みが押し退け、しかと居座った。血管へ血が流れ込んで端々へまで届き、熱を帯びて彼を急かす。
ちょっと待てよ、重たいんだって。骨の重さに辟易としつつ小指、薬指、中指、人差し指が順に繋がって、触覚を繋がれた親指で4本を押さえて力を込めれば、拳が形作られた。
ただそれだけのことで、まとわりついていた重さが弾け飛ぶ。ああ、これならば。
拳をもたげ、力を緩めた左手を振り出した。引き戻すに合わせて右手を伸べ、それを引き戻して上体を回転、横から空気をかき集めるように左手を回し込みつつ膝を絞って。
左ジャブ、右ストレート、左フック。コンビネーションのなめらかな繋がりを確かめた彼は絞った息を吹く。
まだパンチを打つ感覚を憶えていたことが、たまらなくうれしい。
同時に少し恥ずかしくもなる。他人の手をなんのとまどいもためらいも感じずに遣える自分の厚かましさが。
厚かましいの上等! 手があるんだからさ! なあ、手があるんだぜ俺! 手がある!
「手があるって最高ぉーっ!!」
案の定思ったことをそのまま叫び、両手を王者のように突き上げる義人へ、花子はあきれた言葉を投げた。
「思い出しておくれよ後輩くん。ここから試練が始まるんだから」
「わかってますって! なんでもやりますよ! なんすか試れぇッ!?」
調子のいい台詞は言い切れない内にぶつ切られる。
足元へ生じたなにかに臑を押され、バランスを崩して蹈鞴を踏んで。それでも倒れなかったのはまさに体幹のおかげさまだ。
「っと、なんだよおいおい!?」