「ってわけで、なくなっちゃったんすよね、右手と左手」
とある病院の個室。その奥へ置かれたベッドの上で、
「なるほど」
と、ベッドの脇の丸椅子に腰かけた女性は彼の手首から先が消失した両腕へうなずき返す。
少女めいていながらやけにお姉さんぽくもあり、かわいくも綺麗にも感じられるのにいざ思い起こしてみれば特徴皆無で年齢不詳な彼女は、義人のバイト先の先輩である
「実に君らしい話だね」
実際、まったくもって彼らしい話ではあった。
そう、トラックに轢かれかけていた幼い少女を見て全力で飛び込み、その命を救った代償に両手をミンチにされ、千切られたのだから。
なにせバイト先のデイサービス――介護を必要とする高齢者を送迎し、日中の生活を補助する施設――でも、義人は最初から全力だった。
『今日からお世話になりまっす! 飛田義人っす! 全力でがんばりますんでよろしくお願いしまっす!』
初日、顔いっぱいの笑顔で言ってみせた彼だが、すぐに職場からはみ出してしまう。彼の全力は、この業務でもっとも重要なチームワークをぶっちぎっていたから。
が、自分が孤立していくことにも気づかず、彼は全力で業務へ立ち向かい、全力で利用者へコミュニケーションをとりに行き、全力介助、全力送迎をし続けた。
『どしたんすか? 困ってることも悩んでることもなんでもかんでも言ってください。アレっすよ。言わなくてもわかるとか神様だけっす。言ってくんなきゃわかんないんで』
彼の荒っぽいながら裏表ない快活さは、確かに利用者の癒やしとなっていた。うざったさがまったくなかったとは言えないけれども。
そんなある日。
誤って転倒しかけた同僚へ、『おっとぉ!』。義人は迷わず仰向けヘッドスライディング、あわや救った後、壁に頭を激突させる事件を起こす。
救われたのはもっとも彼を疎んでいるひとりで、故に悪意が好意に逆転するどころか、彼の考えなしの行動を糾弾したものだ。
『すみません。でもこれだけ言わしてください』
頭を包帯で巻かれた彼は怖い顔を彼女へ向け、
『ケガしなくってよかったっす』
ほろり、笑んだのだ。
『君、嫌われてるのわかってる?』
義人と同じバイトの身分ながら、職場ではなぜか全職員から“先輩”と慕われている花子が彼へ声をかけたのは、まったくもって興味本位からのことだ。
『え、ガチすか!?』
『うん、ガチだよ』
『そっすかー。マジで申し訳ねっす……』
納得したのでなく、言われたことをそのまま信じたのだ。その上で、心底申し訳なく思っている。人が良すぎるにも程がないか?
『俺、明日っからもっと全力でがんばるっす!』
うん、それはやめたほうがいいと思うよ。彼がどうなろうと関係ないので言わずにおいて、彼女は話題を変えた。
『なんでここでバイトしようと思ったんだい?』
『バイト探してたら募集してたんで!』
意気込んで言う希望理由じゃないなぁ。
このあたりで察したのは、彼は別に人格者などではないということ。なので少々かまをかけてみようか。
『じゃあ、なんで彼女を助けた?』
『え? なんかピンチだったんで』
はい確定。この男は損得を考えられない単純バカでお人好し。こうした輩は利用されて損をし続け、あげく裏切られて死ぬものだ。
せめてドラマチックな最期だといいねぇ。と、会話を打ち切って離れようとした、そのとき。
『俺、約束してるんす。それ守りてーんで、ほっとかねーんす』
別にどうということもない言葉がやけに引っかかって――孤立極まった彼の世話係を買って出てしまうのだった。
『というわけで、後輩くんのお世話係になった佐藤花子だよ』
『っす、お願いしまっす! てか先輩の名前ガチで伝統芸って感じっすね!』
古めかしい名前だと言われたことはわかる。精いっぱい考えて選んだ言葉なんだろうということも。
『思ったこと全部言うねぇ。頭悪そうに見えるからさ』
止めたほうがいいよ? そう締めようとした、そのとき。
『実は俺……アタマ、悪いんす』
いや、意外なことを打ち明けますけどみたいに言われても。
『そうだろうとも』
『なんっ!?』
うん、そんな意外なこと言われたみたいな顔をされても。
『悩むと頭が疲れるよ。君は君らしく君でいてくれたらいい』
単純バカに演じられる役どころが単純バカ以外にあるものか。このときにはただそれだけの意を込めた言葉だったのに。
「まったくほんとに君らしい」
見事なまでの無表情だが、それはそうだろう。安易な同情を示したところで後輩はなにひとつ救われない。
そういえば彼女の私服は普段黒っぽいのに、今は淡いピンクのゆるふわ系ワンピースを着ている。これは見舞いに来る者としての気遣いなのだろう。
「そうなんすよ。で、ついに俺も異世界転生か! って、思ったんすけど」
手だけ行っちゃいましたぁははは。力なく笑って返した顔から力が抜けていく。
先輩、と呼んでいいものかは迷うところだが、彼女は病室へ顔を出しに来てくれた唯一の存在だ。なんとか普通に笑って別れたい。別れたいのに。
「は」の音が途切れると、音になりきれなかったため息が漏れ出した。
麻酔が効いているおかげか、今も痛みはない。しかし、そこに在るはずの手を無意識に、何度も何度も擦り合わせてきたせいで思い知っている。
「俺もう殴れねーんすよね」
ため息が尽きる瞬間を狙ったように、花子が低い言葉を滑り込ませた。
「そうだね」
先輩先輩先輩先輩……振り向けばいつも義人がいて、振り向かなくともやはり義人はいる。
端から見ればなかなかのストーカーだが、花子は気にする様子もなく彼の相手をし続けたし、便利に使い続けたものだ。
そして相変わらずの使い使われる1日が終わった帰路の途中。
『俺、ボクシングやってんすよ』
並んで歩いていた義人から唐突に打ち明けられた花子は、
『ボクシングってあれだろう? ほとんど裸の男がふたりで向かい合って息荒げながらぺちぺち叩きっこするやつ』
なぜに顎をしゃくれさせて言ったのかは不明だが、義人は大げさに頭を抱えて『合って――ねーわけじゃねー!』。
服の上からでもわかる彼の筋肉の充実ぶりはつまりそういうことだったわけだ。ひとり納得しながら花子は問う。
『当然プロなんだろう?』
『っす』
ああ、後輩が期待している。もっといろいろ訊いてほしいと目で訴えている。
だから彼女は溜めに溜めて、それはもういい笑顔で言ってやったのだ。
『あたしボクシングに1ミリも興味ないし、二度とその話しないこと』
『え!? 先輩だから言ったのにー!? なんかもっとこう、深掘ってくださいよー!!』
今にして思えば。
花子が誰かとこんな軽口を叩き合える関係を築いたのは久々だった。皆と親しみながらも近寄らず、近寄らせず、適切な距離を保つ。なぜか? どうせ長く続く関係ではないから。
もしかしたらだけど、あたしはうれしいのかもね。しつこくつきまとわれて、それこそ放っておかれないのが、思ってたよりずっと――
ああ、あたしはうれしかった。だから、柄にもなく君の顔なんか見に来ちゃったんだ。
花子は胸に灯った思いをため息で吹き消し、小さくかぶりを振る。
あれほど深掘ってほしかったはずのボクサー生命を、義人はあっけなく失った。報われることなく損をし続けた結果がこれか。普通に死ぬより悪い。最悪を超える最悪だ。
もちろん、彼の絶望を察することなどできはしない。
ただ、なにより大切なものを失う悲哀だけはよく知っているから、最高に柄でもないことを言おう。
「君は怒っていいんだ。悲しんで恨んで憎んで後悔しても」
実際のところそうするしかなかろう。結果として未来を潰されたことを怒り悲しみ、そんな運命を押しつけた子どもやトラックドライバーを恨んで憎んで、自分の失敗を後悔するしか。
「怒んねーし悲しまねーし恨みも憎みもしねーっすよ。俺は俺がやりたいことやっただけなんで」
頑なに固めた表情を左右に振り、義人は続けて言った。
「やりてーことやりきる! って約束したんすよ、俺。ちょっとは守れたかなって、そう思うんす」
けれども一枚、また一枚と散り落ちる花弁のように、声音から感情の色が抜けていく。
それが意味するものは明白だ。そして自分ですら認めざるを得ない単純バカが、それを胸の奥に押し込んでおけるはずはなかった。
「でももう、それができた後にやるって約束したもういっこ、やりきれねーまんまになっちまった。それだけ、後悔っす」
仄かなとまどいを刻んだ顔を傾げる花子。
義人が騒がないのは、人生の目標を失って真っ白になったからだ。でも、プロボクサーなら真っ先にボクシングができなくなったことを嘆くべきではないのか。
仮定の話だが、彼を真っ白にしたものが競技者生命でないなら……困った。もしやとすら思わずに来たはずが、予想外のもしやを引き当ててしまったのかも。
そもそもの話、彼は適材と言うよりない存在ではないか。両手だけを失った格闘技のプロフェッショナルだなんて!
ほんとに困ったな。神のいたずらだって言われても、今だったら信じ込みそうだよ。
思った直後、彼女は全否定する。
ありえない。あっていいはずがない。これまで何度期待した? 何度試して、裏切られた? しかも自分はともかく“あの子”は頑なだ。これまで通り、けして赦すまい。
でも。だけれど。それでも。
思いに沈み込んでいく花子だったが、頭の先が浸かる直前、それはもう一本釣りされる勢いで引っこ抜かれた。
「俺、探しに行こーかなって思うんす!」
「は?」
なにをどこに? 引っぱり下げた眉根はしかし、続く彼の言葉によって引っぱりあげられる。
「異世界とかムリでも、なんか研究所とか地下組織とかあるかもっしょ。戦闘用義手とかモンスター素材のバイオハンドとか」
「ちょっと待て待て。どこかにあるかもしれないけど、あてはあるのかい?」
「なんもねーっすよ。なんで全力ガチで探さねーと」
義人は意気込んで鼻を鳴らし、サムズアップのつもりか右の手首を前へと突き出した。
「約束破ったら義理立たねっすから!」
後悔の話はどこへ行ったのかは不明だが、逆に明確になったこともある。単純バカというものは、こうも単純でバカだからこそ迷いなく直向きなのだ。
なぜか打ちのめされた気分を振り払い、花子はベッドから這い降りようとしている義人を見て唇を引き結んだ。
これ以上迷っている暇はない。
なら、あたしも肚くくらなきゃね。
「ひとつ質問するよ。君がやりきりたかったことって、ボクシングじゃないのかい?」
これに彼が正解したなら誑かさなければならない。彼にとってはなにより甘い餌をぶら下げて誘い出し、死地へ蹴り落とすために。
誰も幸せになれないってわかってるのにね。でも、まあいいさ。死んだみたいに生きるのも死ぬのもいっしょだろう? あの子にだってたまには暇潰しのおもちゃを放ってやらなきゃだし。
言い訳を重ねていることは正しく自覚していた。が、失敗したときの言い訳が用意できて、心が据わる。
失敗するに決まってるけど。君が万一の成功を見せてくれたなら――
胸中で荒波さながらにうねる感情を悟られないよう身を固め、彼の答を待つ花子だったが。
「俺がやりきりてーのは、約束したことっす」
固く身構えていたはずの花子の体が緩む。完全に芯を突き抜かれたせいで。
過ぎるほど強固な意志が紡ぎ出した、過ぎるほどまっすぐな言葉。
嘘ではないだろう。
嘘であるはずがない。
嘘であってはいけない。
君は大正解したんだからね。後戻りはさせないよ、絶対に。
「探しに行かなくていい。異世界は、ある」
花子は低く、強く切り出して、
「君にぴったりの両手もだ」
言い切った。
義人は口を挟まない。彼女の次の言葉を待っている。聞かなければならないと、頭ではなく本能で悟っているのだろう。
さてお立ち会いってやつだ。花子は胸に沸きかけた靄めきを押さえつけ、言葉を継いだ。
「持ち主はもういない。残ってるのは手だけ。それを受け継げたら君はきっと望みを叶えられるだろう。ただし元の持ち主がやりきれなかった使命を代わりに果たしてやらなきゃいけないし、そもそも受け継ぐための試練とかあるけどね」
「先輩がなに言ってんのかよくわかんねっすけど」
敬愛する先輩の長セリフをばっさり斬り捨てておいて、
「チャンスください」
彼は花子の言葉を疑わない。うまく生きられない自分がなんとかバイトを続けられたのも、すべて彼女の導きあればこそ。
自分の頭が悪いことはわかっていた。だから全力で信じきる。
花子からしてみれば、ひと目で見て取れてしまう彼の迷いなさがたまらなく苦い。あたしなんか信じるな。言って聞かせてやりたくなる気持ちを無理矢理に飲み下し、肚に力を込めた。
いや、あたしを信じろ。これからあたしは全力で君を騙す。君じゃない誰かとした約束を君に果たしてもらうために。ただし、それもあの子を納得させてくれてからのことだ。
「ショウタイム」
花子は隙あらば上向こうとする心を鎮めつつ、指先でもって式を描き出す。それはこちらの世界から失せて久しい魔術の式だ。
義人の目には、彼女の手から伸び出した光が指先で編まれ、宙に文字列のような。絵画のような、それこそ編み物のようなものを刻んでいく様が見えていた。
もちろんさっぱりわけがわからない。
「先輩これって」
彼が訊ききる前に、光は扉を形作り、自ら押し開く。
相変わらずまったくわけがわからないので、止めるのを止めて、
「なんなんすか?」
「魔術。でも君には魔法のほうがわかりやすいかな。で、扉の先はこの世界の外側だ。とはいえ行けるのは異世界手前の、異世界転生もので例えたら神の間みたいなところだね」
残念ながらあたしは神様じゃないし、待ってる“あの子”も神様じゃないけど。
言わずに飲み込んだ花子の複雑な表情に義人は気づかない。今は手と異世界、ふたつのことで頭がいっぱいで、いっぱいいっぱいだったから。
「異世界。異世界っすか。なんかいいっすよね異世界!」
まあ、単純バカの性のせいでもあるにせよ、だ。