すっかり夜のとばりが落ち、星々ではなく人工の輝きが地上を染め上げている様子を病院の屋上で見ながら、杏はしらッと大輔に目を向ける。どうにか冷静を保とうとしているが、苛立ちが見え隠れしている。
「何をしているのだっ?」
「何って、落書きだけど」
「……何故?」
「いや、まぁこんなに間抜けで気持ちよさそうに寝ている顔があったから」
間抜けな表情で寝息を立てているウィオリナの顔に、大輔は水性ペン片手にワキワキと手を動かしながら、落書きをしている。ダサい眼鏡や髭、額には『非常識人間です』等々が描かれている。酷い。
しかもそれの何が悪いの? とキョトンとしている様子がさらにひどい。杏はしらッとした目つきから人を殺すような鋭い目つきへと変える。
それと同時に、まぁこれで満足したし、と大輔は立ち上がる。杏は溜息を吐き、尋ねる。
いや、それでも苛立ちが抑えられない。暴発する。
「ッ。それで貴様らは何故あそこにいたっ!? 何故認識阻害をしているっ!? コイツは何だっ!?」
「ええっと、まずあそこにいたのは
「頼まれただとっ!?」
怒鳴り問い詰める杏に大輔はほんわかした微笑みを向けながら頷いた。
「百目鬼さんのお母さんの容態を把握してほしいと」
「ッ。な、何故あいつがそんな事をっ!」
「知らないよ、僕だって。それが僕の最良になるって言ってたけど、仔細を話してくれなかったからさ」
怒気を
「それにしても何でそんなに怒ってるの? 調べただけでしょ?」
「ッ。……私は
「……ふぅん」
どうにか声音を落ち着かせながら、吐き捨てるようにそう言った杏に大輔は左目を
「そういえば、百目鬼さんってどんな魔法を使えるんだったけ?」
「……なんだ、こんな時に」
「いいから」
突然関係ない質問をされ、杏は仏頂面をしながらも答える。
「炎を生み出し操作する≪灼熱≫、意識している事柄に関連した予感を与える≪直観≫、魂にもダメージを与え、燃え続ける白の炎を生み出す≪白焔≫」
「……やっぱりそうだよね」
杏の使える魔法を確認した大輔は神妙に頷いた。
「じゃあ、知ってるんだ」
「……何をだ?」
「お母さんの事」
「……」
その瞬間、杏は思い知った。自分の力で知ろうとした真実の一つを思い知った。
俯き、項垂れた。無力感に満ち溢れていて、数秒ほどして杏はドサリと柵に寄りかかりながら座り込む。
人口の明かりで星が全く見えない夜空を見上げながら、項垂れる。
「百目鬼さんはどこまで知っているの?」
「………………死んでいる事。生きていると偽装されている事」
消えるように弱弱しい声音。先ほどの怒気はなく、無力感だけがあった。それを聞いて大輔は、なるほどね、と頷いた。
「
「ずっと分からないの一点張りだ。ここ一週間近く何度も、対価を渡して調べてもらってもそう言われた。分からないと言ったやつは本当に分かっていないらしい」
「……ああ、≪直観≫を使えば嘘は分かるもんね。けど、真実は分からない。知らなければ、嘘とはいえないし」
「そうだ」
杏は蒼穹の瞳を
「生き返らせてって何で僕に
「……頼ってはいけない。対価も何も持ち合わせてもいないのに、大切な人の事だからと厚顔無恥に頼み込むなど……お前にとっては赤の他人なんだ」
「それでも普通は頼ると思うけど」
「だろうな。だが、
「過去の自分を信用してるの?」
「……過去が作った今を信用している」
それを聞いて大輔は納得がいった。たぶん、
(明確な意思があるかはおいておいて、疑似魂魄による思考はあるし、思考ベースは僕たちのも加えてるから、嗜好は似てるんだろうな)
そう考えながら大輔は杏を見た。
死んでいると知っている母親が、生きているように偽装されている。不可思議な力故に神和ぎ社に頼っても分からずじまい。いや、神和ぎ社を知ったのはつい最近だから、それまでは一人で抱え込んでいたのか。
それに父親はどうなのかは直樹から聞いていないが、それでも今の杏の表情から何となく予想はつく。
その精神的負担はどれほどだったか。
けど、杏はその負担を抱えながら魔法少女として戦ってきた。日常生活を送ってきた。
時間が許す限り、死んでいる母親に会いに来ていたのだろう。触れて温かみを感じるのに、死んでいる母親に会ってきた。
それは生きていて欲しいという縋りではなく、墓参りしているような
頼ることなく、自らの力で……
大輔は杏の思考を正確に読み解いていく。
(望みは、たぶん本当の意味で死んで欲しかった。実際は死んでいるのに、生きていると思われるのが嫌だった。いや、その前に自分の≪直観≫が正しいか知りたかったのかな)
けど、と大輔は思う。
(
大輔はそんな事を考え、項垂れて座り込む杏に提案する。
「ねぇ、新しい視点は欲しくない?」
「視点だと?」
「そう。百目鬼さんは、覚醒してからお母さんに≪直観≫を使った?」
「……いや、使わない。どんなに縋っても願っても結果は変わらない」
杏は淡々と言った。奇跡はなく、一度起きた事実が変わることは一生ないのだと知っているから。何百回、何千回と突き付けられたから。
けれど、大輔は言った。杏の言葉も覚悟も心も全て踏みにじる。
まさに悪魔。その口から呟かれる言葉は悪魔の
「百目鬼さんは覚醒してどんな魔法が使えるようになったの?」
「……黙れ。お前がどれほど力があっても、アタシは望まない。これ以上頼らない。あとは自分でやる。毒だっ!」
「もう一度問うよ。どんな魔法が使えるようになったの?」
「ッ! 黙れと言ったっ!」
座り込んでいた杏は立ち上がり、大輔の首を掴んだ。地面に叩きつけ、馬乗りとなって頬を
「何かっ! 死者を蘇生させたいかっ? 力を見せびらかしたいかっ? 感謝されたいのかっ!? じゃあアタシじゃなくて他の人でそれを満たせっ! アタシは――」
「もう一度聞くよ。覚醒してどんな魔法が使えるようになった?」
目から大粒の涙を流し、力強く吠える杏に大輔は淡々と言う。
「死者を蘇らせてはならない。その通りだよ。死んだ人は生き返らないし、生き返らせてもならない。けど、それは死者だよ。死んだ人の事だけなんだよ」
「ッ。貴様は母さんが生きているとでも言うのかっ! そんな戯言――」
「百目鬼杏、君はどんな魔法が使える?」
「ッ」
まるで揺らぐことのない大地のように射貫く茶色の瞳に、杏は息を飲む。それから少しだけ冷静になって言った。
「≪灼熱≫、≪直観≫、≪白ほむ――あ」
そして気が付いた。気が付いてしまった。魂にも攻撃を与える魔法を持っていることに。魂――魂魄という存在に。
顔を真っ青に染め、嘘だ、嘘だと何度も呟きながら後ずさる。
金髪のベリーショートを掻きむしり、大剣を召喚したり、消したりを繰り返す。掠れ声を出し、涙を流す。
そんな杏に大輔は容赦なく尋ねる。過去に定めた杏の気持ちをかき乱し、壊す。酷く残酷で、甘い問い。
「百目鬼杏、君はどっちを選ぶ? 表の地球だけの価値観か、それとも魔法少女としてのか」
「アタシは……アタシは……」
「君は選べる。その力で決めることができる。生と死を。どっちを選んでも間違ってはいない。それを基準とした考えは間違ってない」
地球の表側は魂魄の存在を確認していない。肉体が死ねば、それは死者だ。死んだ存在となる。
だから、≪直観≫を使っても、芽衣が死んだという結果しか分からなかった。
けど、魂魄の存在を確認した瞬間、それは変わってしまう。肉体が死んでも魂魄はまだ生きていることなんてざらにあるのだ。
肉体を蘇生して生きている魂魄を入れ治せば、それは治療行為となるのだ。死者の蘇生ではない。ただただ治療をしているだけだ。
そもそも、昔は心臓と肺が止まれば死んだ事になった。けど、現代の医学では心肺
見ている範囲で、変わるのだ。死という観念が。
パンパンッと制服についた汚れを払いながら、大輔は毅然とした声音でそれを示唆する。動揺し錯乱していた杏は、その示唆にゆっくりと顔を上げた。
酷い顔を何度か撫でる。深呼吸を繰り返し、涙を拭う。
ああ、ホント酷い男だ。頼らないと願わないとそう決めたのに……そう口の中で呟いた後、ゆっくりと立ち上がり、パンッと頬を叩く。凛とした様子で言う。
「確かめる。もう一度母さんの前で確かめる」
「そう。なら――」
じゃあ、
「ウィ流血糸闘術、<血糸捕縛>」
「もう一回言うけどここ、病院だ――ププッ」
「おい、ど――ブフォっ」
いつの間にか目を覚ましたウィオリナがヴァイオリンケースから放出した血糸の群れを躱して、吹き出した。さっきまで深刻な表情をしていた杏も目を
それほどまでに不意打ちに面白かったのだ。
「お、お前、なんてことをするんだっ、ププッ!」
「いや、だってちょうどいい顔があったから!」
「普通はあってもやらないぞ!」
「いや、そうだけど懐かしくて!」
「ッ、あなたたちっ!」
ヴァイオリンケースから無数の血の糸を放出するウィオリナは、吹き出しながら躱す大輔と杏に憤る。茶髪のサイドテールが荒ぶる。
更に大輔たちは笑う。その顔に描かれた落書きに。鬼のように怒る形相と間抜けすぎる落書きにのハーモニーが想像以上に面白かったのだ。
笑いながら大輔は
「クッ、出てくるですッ!」
「でてこいって言われて出てくる阿保はいないよ」
どんなに血糸で圧縮しても壊すことができない結界に、ウィオリナは歯噛みする。
と、そこに茶髪茶目で渋めの白人男性が近くのビルから跳んできて、ウィオリナの隣に着地した。
「遅いです。バーレン」
「申し訳ありません。血界ルートの組み立てに――ブフォッ!」
白のシャツにジーパン、幾つもの血の色のコインが付いたベルトをした男性――バーレンは、ウィオリナの顔を見て吹き出す。腹を抱えて笑ってしまう。
ウィオリナは怒鳴る。菫色のベルトに下がる血の色の繭が纏わりついたチェーンがカチャカチャと音を立てる。
「何ふざけているです! バーレン。高等
「い、いや、ふざけて、ウィオリナさんこそ、その顔っ!」
「か、顔?」
バーレンは懐からすかさず手鏡を取り出した。それをウィオリナの顔の前に持ってくる。
「ププッ――って、なんなんですっ!? これはっ!」
自分の顔に描かれた落書きを見て、思わず吹き出してしまった自分に憤り、自分が繰り出した血糸で閉じ込めている大輔たちを睨む。
「お前たち、もう容赦しないですっ。デジールに関しての情報を得ようと思いましたが、ここで封印してやるですッ!」
「ごめん、封印は嫌だよ」
「んなっ」
「いつの間にっ!」
ウィオリナとバーレンは驚く。大輔と杏がいつの間にか後ろにいたからだ。血糸で閉じ込めているし、動けないはずなのにっ!
そんなことに動揺している間に、灰色の手袋を嵌めた大輔はウィオリナとバーレンの首根っこを掴み、地面に叩きつける。
「カッ」
「クッ」
「大人しくしてくれると嬉しいよ。こっちは一応理性的で善良的な一般人だからあまり怪我をさせたくないし」
展開していた
大輔はにこやかにウィオリナたちに微笑み、杏は大剣を召喚して突き付ける。
「さて、幾つか聞きたいことがあるんだけど」
「クソ蝙蝠に話すことはねぇです!」
ウィオリナは怒鳴る。血飛沫を上げ、血糸を創り出し鋼糸と結界を壊そうとするが、魔力で強化しているのでそれは叶わない。何度か試して無理だと分かると、ウィオリナは血糸を消す。
バーレンは大輔たちを睨みながらも、ウィオリナに向かって少しだけ首を傾げている。
そんな様子を尻目に大輔は尋ねる。
「そう、それ。さっきから言ってる
「はぁ? 今更とぼけるんですか、
「とぼけるも何も僕も彼女も
「……はい?」
ウィオリナは間抜けな声を出す。隣にいたバーレンがウィオリナに戸惑いながらに言う。
「ウィオリナさん。コイツ、顔とか認識できませんが、
「……え」
「もしかして、この国の幻想機関の方々じゃないんすか」
「……え」
ウィオリナの目が点となる。ギギギっと首を動かし、大輔を見た。
「え、あ、あのもしか――」
しどろもどろにウィオリナが口を開こうとした時。
『
『ッ。分かった。今行く』
けど、その前に大輔がウィオリナたちに鋭い声音を向ける。
「
「え、あ、はいです」
「そう。じゃあ」
そう言って大輔は鋼糸で拘束されているウィオリナとバーレンの下に転移門を創り出す。転移先は
「え、きゃあっ!」
「うぉっ」
「いくよ」
「え」
二人が落ちたのを確認した後、大輔は杏の手を掴んで飛び込んだ。