都市の北のその森は、“忌み森”と呼ばれている。
森の奥には滅びをもたらす破壊獣が繭の中で眠っており、それに近付いただけでも災いが降り懸かり、もしも獣が目覚めれば、すべての者は死に至る、と古くから伝えられている。
栄えている都市では、それは口に出来ぬ禁忌として、暗黙のうちの不安と共に表面上は覆い隠されいる。だが、田舎の村では未だに年に一度、赤子を生け贄として捧げる祭りを行う場所もある、という噂さえ囁かれている。
伝承の獣が実在するのか確かめたいという命知らずの者が、ここ数十年のうちに数人、森の奥に入っていったが、帰ってきた者は一人もいない。忌み森に入れる人間は、鎮獣司という役に就いた神官とその世話人のみとされている。鎮獣司は1年の任期で、森の入り口に近い小さな社に篭り祈りを捧げ、そこから出ることは殆どない。
前神官長オリストは、若き時代の一年を鎮獣司として過ごした。その経験が、彼のそれ以降の人生を根本から変えてしまった。
病に倒れ、死期を悟った老神官は、親友であり主治医でもあるハリストックに、若き日に忌み森で目にしたもの、生涯自分一人の胸に秘め続けた禁忌について途切れがちに語った。
―――
老神官長が鎮獣司だった若き頃、一度だけ、自分が祈りを捧げている破壊獣を見てみたいという激しい欲求に駆られた。熱に浮かされたように彼は、世話人の目を盗んで、ある晩遂に、森の奥へと足を踏み入れた。
その夜は月夜だった。
呪われた場所にたった一人で踏み込んでいるという恐怖感は不思議になく、まるでよく知っている場所のように躊躇いなく彼は、月光の中に浮かび上がる道なき道を、草木をかき分け、出せる限りの速度で進んだ。一見、普通の森と何の変わりもない森のようだったが、奥に進むにつれ、生物の気配がどんどん弱まるのを彼は感じた。行く手を阻むように生い茂る草木を素手でなぎ倒し、顔も身体も掻き傷だらけになりながらも夢中で進むと、突然画面が切り替わったかのように開けた場所に出た。
生きているものの気配は絶えてなく、死の静寂の中に彼の荒い息遣いだけが響いた。
その時、突如彼の理性が呼び覚まされ、自分がどれ程、生の世界と異質な所に来てしまったのかを感じた。冷え冷えとした月光が広場を照らし出す。そこには石畳が広がっており、正面に、見たこともない風変わりな建物が建っていた。これらはこの森に在るはずもないもので、人間によって造られたものではないのではないか、と彼は思った。
その瞬間、彼の目前にそれは現れた。いくら彼が茫然自失の態だったとしても、今まで視界の中にいたのなら目に映らない筈がないのに、一瞬を境にそれが手を伸ばせば届くほど間近に立っていたので、彼は驚愕と恐怖の余り少し失禁してしまった。
それは、美しかった。月光を吸い上げたような銀の髪と、初雪で磨いたかのような白磁の肌と、生きていては到底保てない凍り付いた不動の美貌と、柔らかな純白の翼を持った少女だった。
「罪深き人のなかの愚かなる賢者よ、我の前にひれ伏して禁を犯した罪を悔い、命乞いをするがよい」
愛くるしい少女の声で、何の感情も交えずにそれは言った。
彼は言われるがままにするしかなかった。それは、圧倒的な力を放っていた。それが見かけ通りの少女などではないことは、正気さえあれば、人間のうちで最も愚かな者にでも、一瞬にして判ることだった。
「神よ、どうかお許しください」
彼は額を石畳に激しく擦りつけ、喘ぎながら懇願した。額が剥け血が滴るのも全く感じなかった。
「我は神にあらず」
それの面に初めて表情らしきものが浮かんだ。それは嘲笑するようにふっくらした唇を歪めた。
「我は滅びを告ぐる告死天使である。我には汝に、汝の哀れなる知能では思いもつかぬ激痛を汝に与え、永劫にそれを続けることも容易い」
「……おゆるし……、」
喉が恐怖に張り付いてそれ以上声が出なかった。彼は絶望した。何故に神の使いがこんな凶々しい台詞を吐くのか。人間は、それ程までに神の寵を失ってしまったのか。
天使は大して興味もなさそうに彼の様子を眺めた。
「だが、汝がごとき虫けらをそのように弄んでもつまらぬな。まあ良い。汝に面白い事を教えてつかわそう」
「……は……」
彼には残虐で気まぐれなこの天使が一体何を言い出すのか訝る余裕もない。
「よいか、裁きの日は近い。汝が愚かしくもここへ参ったのも汝ひとりの意志ではない。その流れが汝にそうさせたのだ。あと数十年のうちに滅びの月が満ち、人どもは裁かれ、魂は刈り取られるであろう」
混乱した彼の頭脳は、天使の言葉の意味を掴むのに数秒を要した。そして、あと数十年のうちに滅びが訪れる、という預言だけが耳に焼き付いた。
「恐れながら……恐れながら……滅びは最早……避けられぬのでしょうか?」
喘ぐように声を絞り出した。この局面で天使に質問できる胆力は、彼もまた選ばれた者だという証に他ならなかった。
「まあ、まず間違いのないところであろうな」
天使は嘲るように無情な事を言った。
「だが、裁きには一応、形が必要なのだ。故に、ある者を人どもの代表とし、我らはそれを裁くのだ。人どもの愚かなる業を逐一見届けるような暇はないからな。解るか、その者が、裁く者から許しを得られれば、滅びは回避されるということだ」
「つまり、その者一人に、我々全ての運命を委ねなければならない……という事でしょうか?」
「流石、愚者の中の賢者よ、サルより解りが早いではないか」
天使は馬鹿にしたように笑った。
「汝も神の言葉を聞き愚民を導く者のはしくれならば、その者を探し、正しき行いをするよう導いてみてはどうだ?」
「その者は……その者は、どのようにして選ばれるのでしょうか?」
必死で彼は質問を試みた。少しでも天使の機嫌が削がれれば、たちまち彼の命は消えうせてしまう事を彼は正しく理解していたが、それでも、聞かずにはいられなかった。幸い、天使は特に気を悪くした風はなく、からかうように答えた。
「その者はまだ生まれておらぬ。だが、生まれる前からさだめられておる。黒き髪と瞳を持ち、天使の守護を受けるであろう。裁きの日まで、命を落とさぬように」
「黒き髪と瞳……」
具体的な情報は、それだけだった。ありふれた容貌だ。
「さあ、せいぜい足掻いてみることだな。汝らごとき救い難き愚かな種でも、首を洗う時間が少しでも伸びることを望むのであろう?我らには、汝らの生息を許可することは全く空間の無駄としか思えぬがな」
そう言い捨てると、不意に、天使は現れたときと同じように唐突に姿を消した。
数時間にも思える数分間の後、彼はゆっくりと顔を上げた。
白い月光が照らし出す広場は、これまでと何の変わりもないようだが、息苦しい程に強い存在感を放っていたあの不吉な天使の気配だけがすっぽりと消えている。無ではなく静かに音が戻り始め、微かな風の音や虫の音が彼の耳に届き、遂にはそこは、風変わりな建物と広場があるものの、普通の森の奥と変わりのない空間になっていった。最初に足を踏み入れた時の締め付けるような恐怖感は拭われ、ただその感覚の残渣だけが言い得ぬ不快感としていつまでも彼の魂の奥底にこびりつくこととなった。