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6・異端

 その夜、アクセルはハリストック医師の私室を訪れた。


「珍しいな。まあ入って一杯やらんかね」


 床に就こうとしていた老医師は、滅多に訪れない来客に相好を崩し、早速焼酎の壜を棚から取り出した。


「これは有り難いな、先生」


 肘掛けの片方が取れたバランスの悪い椅子にどっかりと腰を下ろし、アクセルは遠慮なく盃を重ねる。彼はザルで、酒の味に拘らず呑むのが好きだ。普段は、そんな奴に高い酒を呑ませるのは勿体ないと云うハリストックだが、この日はたまたま街の患者から貰ったばかりの高価な焼酎しかなかったので、アクセルは相伴にあずかる事ができた。


「おまえさん、竜が一体何をやらかしてあんな大怪我を負ったのか、調べは大体ついとるのか?」

「ああ……それも頭痛の種だ。まだ上には報告していない。詳しいところは本人に聞いてみないと解らんと思っていたが……」


 彼は竜が一家惨殺事件を追っている事、裏町が関わっているらしい事は聞いていたが、直接その事件には関係していなかった。

 凄腕の竜が一体誰からこんな傷を受けたのかを調べようとしていた折りに、裏町の娼館で十人もの男が惨殺されたという情報が入った。手足や首がばらばらの死体が多く、仕方なくそれを適当につなげて埋葬したという無惨な話である。単なる内輪もめにしても陰惨な事だと思ったが、場所が場所だけに、特に届けが出された訳でもないのに手を出す事は出来ない。

 そのまま記録だけ残してこの件は終わりと思った時、信じられない情報が舞い込んだ。

 その十人をたった一人で殺したのが竜だと云うのだ。竜が彼らに仕置き部屋に連れて行かれるのを館の者が目撃している。そして、現場にいて重傷を負ったが辛うじて一命を取り留めた娼婦の話では、竜が十人を返り討ちにして逃げたと云うのだ。裏町では、報復の為、血眼になって竜を探しているという。娼婦の話で竜も相当手傷を負っていた事が明らかになっているので、裏町の者たちも、彼が街の反対側の警護隊までたどり着いたとは思わず、近くに潜んでいると思われているのだ。

 事の真偽はともかく、これを聞いたアクセルはすぐに隊の者たちに箝口令を敷き、外部の者には竜が負傷して帰ってきた事は一切口にしないよう念を押したのだった。


「そうか、裏町で……あいつも無茶をする……」

「だが、妙じゃないか?」


 アクセルはぐっと杯を干す。


「え?」

「一体、奴はどうやってここに戻ってきたんだ? 奴に聞いてみたが、何も覚えてないって云うんだ。いくらなんでも、敵のアジトで十人もの手練れに囲まれて、一人で切り抜けられるわけがない。誰か手を貸した奴でもいるんだろうか。まあ、それしか考えられんが、一体誰が? そんな危険を冒してまで竜を助けてここに連れてきた? 正気の人間とは思えん……」

「ううむ……」


 ハリストックも首をひねった。勿論、アクセルも、老医師から何か回答を得ようと思っていた訳ではない。ごく僅かな、彼が信用できる人間の一人である、この小柄な老人に、ちょっと愚痴をこぼしてみたのに過ぎない。彼はまた、ぐっと杯を干した。


「あの莫迦、天使が助けてくれただの、くだらんことばかりで、肝心なところを何も覚えてねーんだから、まいったもんだ」

「天使?」


 その言葉に老人は反応した。


「人が頭抱えてんのに、ガキの頃、天使に命を救われただの、今回も状況が似てるだの……」

「天使か……ふむ……」

「なんだよ。先生、まさかあんた真に受けるんじゃないだろうな、あんなよた話」

「しかし、あの竜の怪我の治りの異様な早さは、常識じゃとても考えられんものじゃ」

「体質が変わったんだろ」


 アクセルはその話には大して興味がなかった。竜の帰った時の様子を見ていない彼には、医師の話が大袈裟なのだとしか思えない。

 ハリストックは無言で立ち上がり、机に手をついて窓を閉めた。机の上に不安定に積まれていた書類がばさばさと床に落ちたが、医師は気にする様子もない。アクセルの杯に酒を注ぐ。彼自身の顔は真っ赤だったが、口調はしっかりしていた。


「アクセル、人の世は、儚く虚ろなもの……どんなに足掻こうと、裁きの日が来て神の鉄槌が下れば、儂らは皆刈り取られ、街は砂に呑まれる運命じゃ」

「なんだよ、終末思想か? あんたがそんなものを気にしてるとは知らなかったな。第一、今の話となんの関係があるんだよ」

「黙って聞け。神は儂ら人間をお試しなされておる。人間に、生き残る権利が、価値があるのかを。神の許しが得られなければ、裁きの日に忌み森から滅びが解き放たれる。何度も何度も歴史はこれを繰り返しておる……終わりのない輪廻じゃ。儂らの踏む大地の砂の下には、かつて栄えた都市が、幾重にも埋もれているという」

「そりゃあ子供でも知ってる聖典の一部だろ。だがよ、この街はもう数百年も前から今の形で栄えてたって云うぜ。一部の狂信者を除いて、神職者だってそんな伝承は信じてないだろ」


 醒めた口調でアクセルは云う。ハリストックは強くかぶりを振った。


「儂だって、ほんの最近まで、そんなものが自分に関わりあるなどとは夢にも思うておらんだった。この街の片隅で、当たり前に生きて、当たり前に死んでいくのじゃろうと。だが、そうじゃなかった。裁きの日は遠くない。恐らく、あと数年、早ければ今年のうちに……」


 アクセルは頭を掻いた。


「先生、だいぶ酒が回っちまったようだな」

「うるさい、莫迦にしよって。おまえさんほど呑めんがの、これでも自分の喋ってることが判らなくなるほど酒に呑まれたことはないわ!」


 老医師はアクセルを睨みつけた。アクセルは老人の気に障らない程度に溜息をついた。


「いいか、話を聞けばおまえさんだって目の色変わる。前の神官長オリストを知っておるじゃろう?」

「ああ、確か半年前くらいに病死したんだっけか」

「そう、儂は彼の主治医で友人じゃった。あれは清廉潔白な徳の高い男じゃった。その男が、死を前にして、一生抱え込んできた秘密を儂に託したんじゃ」

「秘密?」


 胡散臭そうにアクセルは問い返す。


「彼は、禁書を集めておった。神の裁きについて、聖殿の許可を得ずに書かれた書物じゃ。儂はそれを全部譲り受けた。彼には子供もなく、心から信頼できる弟子もおらんかったようじゃ」

「ったく、危ねーな。そんなもんしょいこんで、聖殿にタレコミでもあったらあんた、このテンプルシティから追放されちまうぜ?」

「判っておる。おまえさん以外、誰にも話した事はない。儂とて最初はいやだった。じゃが、彼の話を聞いて、誰かが彼の遺志を継いでやらねばいかんと思うたんじゃ」

「まったく、神官長ともあろう御方が異端に走るなんて、世も末だよなあ」

「真面目に聞け。いいか……」

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