アクセルが部屋に入っていくと、竜はふと目を開けた。
「……よう」
アクセルは低く挨拶する。マリアが触れても目覚めなかったのに、彼の気配で反射的に目が覚めたようだ。複雑な気分で彼は親友の病床に近づいた。
「やあ……迷惑かけたみたいだな」
掠れ声で、それでも常と変わらぬ笑みを浮かべ、竜が応えた。
「まったくだ。月末〆切の書類に目を通すだけで徹夜だぜ。それに、火事が1件と殺しが2件……片方は捕まえた。サープルの酒場で3日間くらいはおまえもちで飲ませてもらわねーとな」
「いいよ。その後、俺の全快祝いでおまえもちで3日間」
「なんだそりゃ」
傍の椅子にどすんと腰を下ろし、アクセルはわざと眉をしかめてみせた。
「おまえ、一体何やらかしたんだ?」
「それが……」
竜は当惑した表情になった。一家惨殺事件を追って裏町へ行った事、娼館の仕置き部屋に連れこまれた事、そこまではよく覚えている。
「……で、囲まれて、二人を倒したけど、出口の前に女の子がいて、その娘が斬られて……その後の記憶がとんでるんだ」
考え考え、竜は思い出せる限りの事をアクセルに話して聞かせた。
「なんだそりゃ」
もう一度、今度は本当に眉をしかめてアクセルは呟いた。
「だいたい、おまえ、なんだって俺に一言もなくそんなとこに乗り込むんだよ?」
「そんなに危険とは思わなかったんだ。反省してるよ」
悪びれもせずに竜は言う。
裏町に調べに単身で出向いた事は、今回が初めてではない。誰もが逃げ腰になるような危険な任務が、竜は好きなのだ。闘いを好むアクセルもそれは同じだが、竜の場合は理由が違う。自分が行く事で他の隊員を危険な目に合わさずに済むという事が彼を心地よくさせるのだ。芯から嫌味な男だ、とアクセルに言われる所以である。
「ま、それはともかく、一体どうやっておまえ、ここまで帰ってきたんだ?」
「だから、わからないんだ」
「わからないっておまえ……奇跡でも起きたってんじゃない限り、一人で空飛んで帰って来れるって訳ないだろ」
竜は軽く頷いた。
「まあ、誰かが俺が気を失ったところで助けてくれたんだろうな」
「そんな酔狂な奴がいるかね?」
「でも、現に俺は生きてるよ。有り難い事にね。……今、おまえの、空飛んで、って話聞いて、俺、ふと思ったんだけど、もしかしたら」
「なんだ?」
「おまえ、天使っていると思う?」
「はあ?」
アクセルは呆れ返ったような声をあげたが、竜は真面目な面持ちで続けた。
「あまり突拍子もない話だから、霖以外誰にも言った事ないんだけど、俺、昔、天使に命を助けられた事があるんだ」
「……おまえ、頭もやられちまったのか?」
半分真剣な顔つきでアクセルは親友の顔を覗きこんだ。竜は笑い出した。
「まあ、俺も心から信じてる訳じゃないよ。あれは夢だったんだろうってずっと思ってたしな。まあ聞けよ。子供の頃、山に入って一人ではぐれた挙句に崖から落ちて身動きが取れなくなった事があったんだ。冬だったから、日が暮れて息もつけないくらい寒くなって、折れた足が段々感覚がなくなってきて、子供心にも、ああ、ここで死ぬのかなあ、って思ったんだ。そして意識が薄らいでいった時さ。急に辺りが明るくなって、空から人が降りてきた。よく覚えてないけど、綺麗な、温かい腕の女の人に抱かれて、俺はそのまま眠りこんだ。そして、次に気がついたら、家の自分の寝台に寝かされてた。朝、俺は家の前に倒れているところを見つけられたってオチさ。今回の状況と似てると思わないか?」
「夢でも見たんだろ」
にべもなくアクセルは言った。
「誰か村人が見つけて連れ帰ってくれた、ってだけの事を、子供の妄想が大きく膨らんで……」
「おまえはそう言うだろうと思ったよ。まったくロマンのない奴だ」
竜は溜息をついた。
「ロマンって……おまえなあ、俺は真面目に事情聴収を……」
「だから、覚えてないんだってば」
ノックと同時に扉が開いてハリストック医師が入ってきた。後ろには、薬やら包帯やらをごちゃごちゃに載せた盆をかかえた看護師がついている。
「何を言い合っとる。アクセル、こいつは昨日まで死にかけておったんじゃぞ。少しは控えんかい」
「ホントかよ。元気にべらべら喋ってるぜ。何やらガキの頃のロマンの話までもよ」
「本当に気分いいんだ。先生、俺、もう起きられそうだよ」
「阿呆。今朝ようやく意識が戻ったばかりの奴が何をほざいとるか」
医師は厳しく叱りつけた。
「ほれ、傷の具合をみせてみい。」
アクセルは立ちあがって医師に場所を譲った。
「じゃあな」
「ああ、ありがとう、アクセル」
診察の邪魔をする訳にもいかないので、アクセルは部屋を立ち去ろうと背を向けたが、扉に手をかけた時、医師の驚きの声を聞いて振り返った。
「お、おおっ……どうしたもんじゃ!」
「な、なんだよ、先生」
外した包帯を手にしたまま、医師は唖然とした表情で患者を眺めている。医師の背後から覗きこんだ看護婦も、息をのんでいる。
「先生?」
元気を主張していた患者も不安げな顔つきで医師の顔を見上げた。
「傷が……よくなっとる」
竜は思わず吐息を洩らした。
「な、なんだよ、先生、人が悪いなあ」
「なんだじゃない、あんなに深かった傷が……治りかけとる。信じられん……おまえさん、いったいなにもんじゃ?」
「え……なにもんじゃ、って言われてもなあ……」
竜は不思議そうに、興奮気味の医師を見つめた。
「先生、今まで何度も竜の怪我診てるだろ」
アクセルが冷静に言う。
「こいつ、意外と体力あるからな。いいじゃないか、治ってきたんなら」
「しかし……む、まあそうじゃの」
渋々医師は頷いた。
「先生、起きてもいいかい?」
「今週一杯は駄目じゃ!」
ハリストックは叫ぶように言った。悪戯っ子のように頬を膨らませた竜と目が合い、アクセルは肩を軽くすくめて見せてそのまま部屋を出ていった。