(こ……これは……?)
深い夢から醒めるような覚束ない感触の後に、竜はゆっくりと両目を開けた。
意識と共に身体中に走る痛みも戻ってきた。だが、痛いのは、生きているからだ。倒れた身体の下にあるのは、草と土……頬がしっとり濡れているのは、自らの流した血のせいではなく、雨上がりの草が含む露に顔を押しつけているせいだった。血は、乾きかけている。
倒れたままの姿勢から見るこの場所は、何かよく知っている場所のようにも思える。だが、こんな風に地面に這い蹲って辺りを見たことがなかったので、ここがどこなのか、瞬時には判らなかった。……少なくとも、あの忌まわしい裏町ではない。ごみひとつ落ちていない石畳の通路、柵の向こうには、草花の植木鉢がひっそりと並べられた、手入れされたこじんまりした庭……。
「まさか……」
思わず声に出した。死んで、夢を見ているのか? 霊となって、馴染みの場所に彷徨い出ているのか? だが、死後の夢なら、もっと無感覚なものではないだろうか。この傷の痛みは、夢にしてはリアルすぎる。
その時、何処かで扉の開く音がした。驚きに息を呑む音。悲鳴に近い叫び。
「隊長さんっっ!!」
「マ……マリア?」
声の方に首を巡らす力はなかった。だが、そうする必要はなかった。彼女が駆け寄り、必死で竜を抱き起こした。
(そうか、やはり……夢じゃないのか)
(帰ってきたのか。警護隊に)
「隊長さん、隊長さん、しっかりしてっ! ああ、あんまりだわ!」
間近にマリアの白い顔が迫る。大きな瞳から滴り落ちる熱い涙が竜の目に入り、竜は軽く瞬きした。
「死んじゃいや! ……竜っ!」
「だいじょ……ぶだよ、マリア」
帰ってきたからには大丈夫、助かる、と彼は確信していた。
身体中に深手を負ってはいるが、闘いの時に感じていた死の気配は、跡形もなく消え去っている。激痛にも関わらず、何故か安堵感がある。きっとこの娘のおかげだな、と勝手に彼は考えていた。死の淵から生還したら、自分を想ってくれるひとが待っていてくれた。
(なんて暖かい腕なんだ……マリア……)
彼女の叫びを聞きつけた隊の者たちが駆けつける中、竜は再び意識を手放していった。
―――
三日三晩、熱に浮かされて夢現の状態で過ごした。そんな中で、ふっと目が覚めるような瞬間には、いつもマリアが側にいるようだった。竜は安心して、また深い眠りに沈んだ。
ようやく意識がはっきりした4日目の朝、隊医のハリストック老医師が枕元に立っていて、開口一番、何度ももう駄目だと思った、と言った。それだけで致命傷となってもおかしくない傷が三つもあり、それ以外にも深い傷がいくつも刻まれていた。だが、驚異的な回復力で竜はそれを乗り越えた。
「もう大丈夫じゃろう。まったく、呆れた体力だわい」
苦笑してハリストックは言った。
「だが、完治するには1ヶ月は安静じゃぞ。その後も、急には身体は戻らんからな。わかっとるか」
竜は不承不承頷いた。鎮痛剤の効果か痛みも強くなく、ぐっすり眠った後のように体力が漲るような心地さえするのに、と思ったが、取り合えず今医者に逆らっても仕方ないと考えたのだ。
「ほれ、お前さんが寝とった間にラブレターが来とるぞ。こいつをそのまま棺桶に入れんで済んでよかったの」
医師が差し出したのは霖からの便りだった。無言で受け取った竜の表情があまり嬉しそうではないことにハリストックは気付いた。
封筒をぼんやり眺めたまま、竜は思い切って何気なさを装い、尋ねてみた。
「先生……マリアはどうしてる? 俺、あの娘を驚かせちまったからね」
「あー……厨房にでもおるんではないかね」
老医師は竜の様子を見て、漠然と抱いていた、マリアが彼に付ききりで寝ずの看病をしていたことは伏せておいた方がよい、という思いを強めた。今朝、竜が意識を取り戻す直前に疲労で倒れ、自室で休んでいる事もだ。軽はずみにマリアを近づけた事を、今になってハリストックは軽く悔いていた。
竜には婚約者がいるのだ。秋野霖は良い娘だ。半年ほど前に休暇で彼女がこの街を訪れた際に、昼食をともにしただけだが、医師は彼女に対してかなり好印象を持っていた。やや愛嬌には欠けるが、誠実で賢い娘だ。だが、竜の生命がかなりの危険に晒されていた事を思えば、慢性的な人手不足の中で、マリアの申し出を断るような愚を犯すほどの理由にはならないのは無論の事だった。
竜はハリストックの返事に不満だったが、それ以上マリアについて口にするのも気がひける。医師が病室を去ってから、何となくうかない気分で霖の手紙を開封した。
『竜、どうしていますか。私は変わりありません。あなたから貰った護り石は、肌身離さず持っています。この石はいつもあなたと私を結びつけてくれているという気がします。私の思い過ごしならいいのですが、急になんだかあなたの身が案じられてならないのです。こんな時、あなたの側にすぐに行けたらいいのに、と思います。お便りを待っています。 霖』
簡単な文面に2、3度目を通してから、手紙をたたんで枕の下に入れた。霖は昔から文章を書くのが苦手だし、字も読みにくい。だが、自分が負傷したことを、離れていながら何故か感じているらしい事は判り、不思議な気持ちに包まれた。
(やっぱり俺にとっては、霖が運命の女って奴なのかな……。気心も知れてるし、一緒にいても疲れることもないもんなあ……)
霖の手紙は、マリアに向いていた竜の浮わついた心を、ひととき落ち着かせた。
なんと言っても、霖は親や親類の認める婚約者であり、幼なじみでその性格も知り尽くしている。頑固で自分の筋を曲げることがなく、他人から見て可愛げのないところもあるが、彼を一途に想ってくれているその気持ちはよく解っており、それを今まで疑ったことはない。
マリアは美しく可憐だが、記憶喪失という得体の知れない部分もあるし、そうでなくても知り合って日も浅い。惹かれているのは確かだが、どちらが大切かという点では、霖とは比べるまでもない。
早く霖を安心させてやろう。自分は大丈夫だと便りを書いてやって……そう思いつつも、緩んだ心に急に眠気が訪れてきた。安心し、満ち足りた気持ちで竜はゆるゆると微睡みに沈んでいった。
―――
小一時間ほどして、朝のパトロールから戻ったアクセルが、竜が意識を取り戻したと聞き、病室を訪れた。
竜が生死の境を彷徨っている間、彼は隊長代理として諸事に忙殺されていた。親友の竜の心配をしていたとしても、それがどれ程のものか他に窺わせることは全くなく、ただ普段に比べ余り他人と衝突することもなく、黙々と仕事をこなしていた。
病室の扉が薄く開いており、竜が眠っているかも知れないと思った彼は音を立てずに中を覗いた。
(……?)
寝台の傍らに誰か立っている。ほっそりした影、ブロンドの長い髪。マリアだ。
マリアが付ききりで竜の看病をしているという噂は彼も聞いていた。
大抵の者はマリアに好意的で、健気だと評判だ。隊のアイドルであるマリアだが、隊長なら似合いだと皆考えている。竜が婚約している事は周知だが、結婚している訳ではないし、マリアほどの美女がこんなに献身的に尽くしていれば隊長だって落ちない訳はない、などと無責任に噂し合っていた。
竜の怪我については、ハリストックは余り詳しいことを皆に知らせていなかったので、アクセルの他、トップの数人の者を除いては、特に深刻には受けとめていなかったのだ。
アクセルは、皆のそうした軽口を聞いても何も言わなかった。
彼は隊で唯一、マリアを快く思っていない人間、と云ってもよかった。彼女は見かけ通りの可憐で善良な娘なんかではない……根拠と云うほどのものはないが、何故か初めて会った時からそんな気がしてならない。彼は自分の直感を重んじる人間なので、出来るだけ彼女の動向に気を配っていた。だが、彼ひとりでは勿論限界がある。マリアが竜の側に付いていると知って嫌な気がしたが、寝る暇もなく仕事に追われている身ではどうしようもない。
だが、今、アクセルが扉の陰から見つめる中、彼女は一体何をしているのか? 枕元に立ち、身じろぎもせずに竜の寝顔を見下ろしている。その表情は陰になっていてアクセルからは見えない。
妙な真似をしたら、即叩き出してやろう、と思いながら見ていると、彼女はゆっくりと身を屈めて、眠っている竜の唇にくちづけた。流石のアクセルも拍子抜けし、急に、盗み見ている自分がひどく間が抜けているような気がしてきた。たまには勘も外れることはある。やはりただの小娘に過ぎないのか、と思い始め、取り合えずその場を離れようかとしかけたその時……。
カーテンの隙間から一筋の光が射し、俯いたマリアの顔を照らし出した。陰になっていた表情が露になる。
「……!」
アクセルは息を呑んだ。それは、恋する娘の表情などではない。見たこともない、凶々しい、妖艶な、笑み。
(こ……この女!)
ゆっくりした動作で彼女は竜の頬を何度も撫でる。まるで、すっかり手に入れてしまった愛玩動物にするかのように。
アクセルは金縛りにあったように動くことが出来なかった。こんな事は生まれて初めてだった。どんな過酷な状況でも、身体が反応しなかった事なんて一度もなかったのに。あの笑みを見た瞬間から急激に身体に突き刺さる、この、凄まじいまでの毒気を感じとりながら動く事が出来ない。それどころか、こんな小娘を相手に、恐怖さえ感じるなど……!
マリアは何か低く呟いた。歌うように、楽しげに。その呟きは小さく、アクセルの耳には届かなかった。
「神よ、間もなく……供物を捧げます」
竜の頬に触れ、安らかな寝息を立てるその寝顔を見据えながら、マリアはそう呟いていたのだ。その愛らしい瞳は、ただ憎悪と、憎悪するものを嬲る事を想像して生まれる酷薄な愉悦に溢れていた。
マリアが急に立ち上がったので、アクセルははっとし、思わず身構える。だが彼女は寝台から離れ、窓を開け、部屋に風を入れただけだった。その動作は自然で、気付いたときには先程の毒気は嘘のように消え去っていた。
扉を開けたマリアは、そこにアクセルがいるのを見て、あら副隊長さん、と軽い驚きを込めて挨拶した。
「隊長さんは、よくお休みになっています。本当に……よかった。私、隊長さんにもしもの事があったら、って……目を離せなくて。でも、もう大丈夫ですって。本当によかった」
柔らかく微笑みながらマリアは云う。アクセルを見上げる瞳は微かに涙ぐんでいる。その頬には、未だ寝ずの看病の為の疲労の色が濃い。一途な、いたいけな娘。それ以外のどんなものにも見えない。
「あ、ああ。よかったな」
ようやくそれだけ応えると、マリアは会釈して廊下を遠ざかっていった。
まるで白昼夢でも見たかのような気分だった。だが、あれが夢なら、この冷や汗は、全身の総毛立つような感触は、一体何なのだ?
(騙されんぞ……やはりあいつには何かある)
アクセルは拳を握りしめ、大きく息をついた。
だが、マリアが何かをした訳ではない。今回のことで、ますます竜は彼女に甘くなるだろうし、人望のないアクセルがいくら隊の者に訴えかけても、あの儚げな美少女に何か悪意が潜んでいるなどと云えば、一笑に付されるか、悪くすれば彼の方が排斥されかねない。
「くそ……阿呆ばかりだ、ここの奴等は!」
苛立たしく悪態をつき、中でも特に阿呆な隊長を見舞う為、アクセルはそれでも眠っている怪我人に気を使って足音は立てずに、部屋の中に入っていった。
―――
廊下を曲がった所でマリアは足を止めた。アクセルが覗いていた事など、彼女には初めから判っていた。最初から、あの副隊長だけが自分に懐疑的であった事も。
「少しは足掻いて貰わなくちゃ……」
楽しげに呟いた時、廊下の向こうから数人の隊員が歩いてきたので、にこっと笑いかけ、挨拶する。
「マリアちゃん、頑張ったんだって?」
「よかったな、また歌を聴かせてくれよ」
精悍な男たちも、可憐な美少女に微笑みかけられて相好を崩す。
「私で少しでもお役に立てるなら」
はにかむように応え、花のような笑顔で男たちの背中を見送る。その笑顔の下で、彼女が彼らの死に様を夢想していようとは、誰一人、気付きようもなかった。