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3・危地

 数週間の後。


 街外れで起こった一家惨殺強盗事件を調べていた竜は、深追いしすぎて、決して単身踏み込むべきでない裏小路に足を踏み入れてしまった。

 いささか荒っぽくても基本的には明るい喧噪に覆われた表通りと異なり、街の裏側は陰惨で血生臭い事件が当たり前のように繰り返される世界である。

 大小の組織が暗がりに根を張るように身を潜め、一旦その世界に絡め取られれば、明るい所へ帰れる望みは非常に少ない。独自の規律に則ったその場所は、警護隊にも滅多に手を出せない云わば闇の聖域である。下部の者が暴走して表沙汰になる事件を起こすことも時々あるが、普段は街なかの一般人に無闇と恐怖を与える事はないので、警護隊も全面的に事を構えることはなく過ごしてきた。全面戦争ともなれば、街の機能そのものが破壊されてしまう恐れが多分にあり、おまけに隊が勝つという見込みも残念ながら少ないという事情もあった。

 だが竜のように正義感の強い者にはこの現状がかなり苛立たしいものであるのは、云うまでもないことである。

 一般人に手出しをしないと云っても、それはあくまで街の中……城壁の内側だけのことである。外で小さな村や旅人を容赦なく襲う夜盗のグループと裏街は、密接に繋がっているのだ。上部からいつも、不用意に手を出さぬよう厳しく通達を受けてはいるが、彼らが少しでも表に現れれば、竜は率先してその事件を引き受けた。その結果、竜の名が裏街に知れ、特に下部の輩から恨みを多くかうようになったのも当然の成りゆきであった。


 酒場で得た胡散臭い情報を元に踏み込んだ娼館が、裏街の中ファミリーの首領の持ち家であると気付いた時には、数人の用心棒に囲まれていた。剣を突きつけられ、奥の部屋に連れ込まれた。家具も何もない板張りの広い部屋で、窓もない。すえた臭いが漂い、元は白いのが手垢などで汚くなった壁やろくに拭き掃除もしていない床には、所々血痕と思われる染みがこびりついている。娼館の表の華やかさにはおよそ似つかわしくない、裏の仕置き部屋だった。


「三下を追ってこんなとこまで、のこのことお一人でお出ましとは、御苦労なこった。……てめえの運も終にここで尽きたってことだなあ、隊長さんよお」


 ボス格の男が嘲るように言うと、別の男が、


「いやあ、兄貴、存外こいつ、ただの客として来たのかも知れませんや。凛々しい隊長さんもよぉ、根は俺らと同じ、ただの助平野郎なんですぜ」

「ばーか、くだらねえ事ぬかすな。警護隊なんぞ、一物も役立たずの腑抜けしかいねえに決まってら」

「そうかあ、男かと思ってよく見たら、タマ無しかあ!」


 男たちは下卑た笑い声をあげた。


「ば……莫迦にするなっ!」

「ほお、違うってえのか? ならよ、客としてここに来たってんなら、ここに女連れて来るから俺達の前でイカしてみろよ。そしたらまあ半殺しぐらいで勘弁してやってもいいぜ」

「そりゃあいいや!」


 男たちは笑い転げた。竜の顔は屈辱に赤く染まった。


「ふざけるなっ!」


 そう言っているうちに、調子に乗った男の一人が、娼婦の腕を引っ張ってきた。


「やめてぇ……痛いよ、乱暴しないでったら!」


 腕を掴まれ引きずられて女は悲鳴をあげている。それを見て男たちはにやにや笑っている。見れば、女と言うより少女と言った方がいいような、十四、五くらいの娘だ。どうせどこかの村から浚ってきたか、売り飛ばされてきたかに決まっている。竜の怒りは頂点に達した。


「止めろ、女に乱暴するな!」


 竜は怒鳴った。男たちが一斉に竜を見た。


「随分な度胸だなあ、おい。この期に及んで王子さま気取りかい。こんな女より、てめえの心配した方がいいんじゃねえのか?」

「心配したって無駄だがよ。こいつ死にてえみてえだからなあ。」


 男たちは剣を抜いた。数は十対一。場所は彼らのねぐらである裏街の、彼らの首領の持ち家の一室だ。男たちは憎い仇敵を確実にじっくり嬲り殺しにできる期待に目をぎらつかせていた。

 竜は大きく息を吸い込んだ。名うての剣士といえども、余りに不利な状況だ。生きて帰れる見込みは皆無に近い。奇跡でも起こらない限り。

 ……そう、例えば、かつて子どもの頃に彼の命を救ってくれた天使でも現れない限り。だが、今この命がけの場で、そんな夢のような事をあてにする気はさすがに起こらない。


(こんな所で俺は死ぬのか。親父、お袋、……霖!)

(マリア……!!)


 出会って間もない娘の顔が何故か家族の誰よりも鮮明に浮かんでくることに、こんな場合でも気付かずにはいられなかった。


(俺は惚れていたのか。今更無駄な事に気付いたもんだ)


 男たちの最初の三撃を受け返し、竜の意識はひたすら出口へ向かった。不用意に突っ込んできた一番若そうな男の剣を跳ね返し、腹から胸へ斬りあげた。


「ぎゃあああっ!」

「ジャック! てめええっ!」


 逆上した一人が力任せに打ち込んできた剣を間一髪で受けとめた。だが、無傷なのはそこまでだった。背後から斜めに斬りつけられ、経験のある熱感と共に身体の力が抜けそうになる。


「うおおおおお!」


 竜は吼え、残った力で受けとめた剣をなぎ払い、霞む目でなおも出口を探した。その間にも繰り出された切っ先が左肩を裂き、反射的に返した剣が相手の喉を裂いた。


「……!!」


 いたぶるだけの相手と舐めてかかっていたのが仲間を二人も失い、男たちは一瞬怯んだ様子だった。

 竜は荒い息で出口を見た。すると、先程連れてこられた少女が戸口の前に、飛び散った血を浴びてうずくまっているのが目に入った。逃げようとして腰を抜かしたようだ。竜がそちらの方に向かえば、彼女は巻き込まれて下手をすれば命を落とすかも知れない。しかし、逃げ道はそこしかなかった。


「莫迦野郎、タマ無し相手になにびびってやがる。図体揃えて、てめえらもタマ無しかよ?」


 リーダー格の男が怒鳴り、男たちは依然自分たちがずっと有利であることを思い出した。竜に考えている暇はなかった。ともかく、自分も助かり、少女にも怪我させないよう、最善を尽くすしかない。

 部屋の真ん中に二人の男が倒れている為、それが邪魔で八人の男は一斉に竜に斬りかかることが出来ない。二人の攻撃を受けとめたが、左肩の負傷の為、力が入りにくい。それでもなんとか出口の方へ数歩近付く。その時、それを見て出口を塞ごうとした男が、しゃがみ込んだ少女に足を取られそうになった。


「邪魔だ、このスベタ!」


叫ぶなり、血が上っている男は手にした剣先で少女を払いのけた。


「ああーっ!」


上半身を自らの血に染めた少女がか細い悲鳴を上げて倒れるのを、男は無造作に部屋の隅に蹴り飛ばす。


「莫迦野郎、品物を無駄にすんな!」

「るせえ、この程度のアマぐれえいくらでも浚ってきてやらあ!」

「き、貴様ら……!」


 竜は喘いだ。怒りと痛みに霞む目に映ったのは、喉元を狙って突き出されたにぶい銀色の煌めき。


「貴様ら、全員殺してやる……!」


 それが頭の中で叫んだのか、実際に声に出たのか、判らぬまま、竜の意識は途切れていった。


―――


 同時刻、南方の基地で演習を終え、自室に戻っていた霖は、胸元が急に熱くなるのを感じた。


(この石……?)


 守り袋に入れて首から下げている、竜に貰った石が不思議に熱を帯びている。取り出すと、灰色がかっていたその石がほんの一瞬、漆黒に染まったように見えた。


(え?)


 慌てて光にかざしてよく見たが、その時にはもう、石は元通りの僅かな濁りを含んだ灰白色に戻っていた。触れても、先程の熱さが嘘のように硬質な冷たさを取り戻している。霖は不安に駆られた。さして迷信深くはないが、恋人に貰った守り石に異変があれば、恋人の身に何かあったのでは、と不安になるのも無理はない。


(不思議な石とは言ってたけど……竜……)


 今すぐに竜の元へ飛んで行きたい。そんな想いに駆られたのは初めてではないが、これ程強く感じたことはなかった。愛する人と離れてまで自分の意地を貫くことに、本当にそれほど意味があるのだろうか? いくら頑張っても暴力はなくならない。悪党を捕らえても捕らえても、悪がなくなることはない。犠牲になった人々が救われる訳でもない。何もかもを奪われた人の中には、生きる為に今度は自分が奪う側に回る者が出てくる。終わることのない、輪廻。断ち切るための力なんて何処にもない。いつか全ての人が奪う者になったらどうなるのだろう? 奪い合い、殺しあって最後の一人になったら、それは終わるのだろう。そして今、世界はそこに向かって加速的に墜ちていっているみたいだ。末期的な世界。決して逃れられない牢獄。

 こんな救い難い人間の世界なんて、なくなった方がいいのかも知れない……ふと霖がそう思った時、石はまた微かに黒く光ったようだった。だが彼女はそれに気付かず、その晩は竜に手紙をしたためた後、心配で殆ど眠れなかった。

 しかし数日が経過しても特に知らせもない為、どうやら竜が死んだというような事はなさそうだと思った。更に数日後、竜から、負傷して休んでいるがもうすぐ復帰できそうだという便りが届き、心配したり安心したりしているうちに、絶望的な気持ちは紛れて消えていったようだった。

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