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2・曖昧

 少女を診察したハリストックという老医師の診たては、アクセルの想像通り、恐怖の為に重度の記憶喪失に罹っているという事だった。特に怪我もなかった。警護隊に連れてこられた少女は、抵抗する気力もないかのように、女性隊員が身体を洗って着替えさせる間も大人しく従っていた。

 質素だがさっぱりした服に着替えた彼女は、意外に大人びた印象に変わった。パニックが過ぎると、浮かんだのはただ哀しみの表情だった。痩せている為稚く見えるが、実際の年齢は18歳くらいではないか、とハリストック医師は言った。


「どうするんだ、あの女」


 アクセルが言った。記憶と言葉を失った娘……連れもなく、一人で放り出して無事に生きていけるとは思えない。公的な施設などなく、警護隊で週に一度、親も身寄りもない路上生活の子供たちの為に炊き出しを行っているものの限界があり、都市でさえ餓死、凍死する子供もいるのが現状である。自活できない大人の面倒など、誰も見てやる筈もない。

 ただ、幸か不幸か、彼女には際だった美貌がある。庇護者もなく自己防衛も出来ない今の状態で街に出れば、いずれ悪党に弄ばれ、売り飛ばされるのは間違いないところだろう。野たれ死にをする危険に関しては、少ないと言える。

 アクセルがその可能性を口にすると、竜は落ちつかない表情になった。


「取り合えず、暫くはここで面倒見よう。もしかしたら他にも連れがあるかも知れないし、言葉も戻るかも知れない」

「竜、この都市には一人で生きられないのに誰にも顧みられない奴が山のようにいるんだぜ。それはお前が一番よく判ってるだろ」

「判ってるよ」

「あの女だけ特別扱いする訳にはいかん。それも、判るだろう」

「特別扱いって……お前、大袈裟に言うなよ」


 竜は曖昧に笑って流してしまおうとした。


「彼女は事件の被害者なんだ。今までだって、負傷者の面倒を見たことはあったじゃないか。お前の方こそ、特別扱いしてるよ」

「……」

「とにかく、少しの間だ。記憶さえ戻れば、家に帰れるだろ」

「……判った」


 不承不承、アクセルは頷いた。実際、何故彼女に関して自分がこんなに拘るのか、彼自身にもよく把握できていなかった。

 竜はアクセルの肩を軽く叩き、何事もなかったかのように、さあ飲みに行こうぜ、と言った。


―――


 娘が自分について覚えていたのは、名前だけだった。彼女はマリアと名乗った。出身地の手がかりになる姓はわからなかった。

 彼女は、その儚げな美貌ばかりでなく、内面的にも人の心を捉えるものを持っていた。

 寝床と温かな食事、手助けしてくれる人々のおかげで徐々に体力と気力が戻った彼女は、助けてもらった感謝を常に表し、誰もが振り返る程の美しさを持ちながらも驕る様子はまったくなかった。謙虚でしかもそれが自然体のように見えるのだ。不安を抱えているであろうに、明るく振る舞い、ただ皆の役に立ちたいと言い、いかにも健気な様子だった。

 医師や隊員たちの指導で少しずつ言葉を取り戻したものの、何週間経っても記憶が戻る気配はなかった。そして、何週間経っても出ていく気配もなかった。

 厨房や、掃除洗濯などを進んで手伝い、最初は慣れずに手間取ったものの数日の内にかなりの仕事をこなせるようになり、隊員の間からも彼女を雇って欲しいという嘆願書が出て、アクセルでさえも出ていけとは言い辛い雰囲気が出来てしまったのだ。

 マリアは歌が上手く、毎晩夕食が片づくと、中庭に出て歌った。

 狭くて何の手入れもされておらず、雑草がそこここで生い茂っているだけの中庭は、これまで単なる通路としての役割しか果たしていなかったが、今や隊員たちの夕べの憩いの場となっていた。出身地も性格もばらばらで、仕事上それなりの団結はあったものの、個人的にはある程度距離を置きあっていた隊員たちが、親しみを見せ始め、マリアを中心に疑似家族のようにまとまりつつあった。

 ハリストックや竜はこの変化を喜んだが、アクセルだけは渋い顔をしていた。だが彼が素直でないのは常のことなので、それを気にする者はなかった。


―――


 マリアが現れて約2ヶ月がたったある晩の事だった。

 前庭に作られた粗末な、しかし街の北方の外壁を一望に見渡せる、この界隈ではもっとも高い場所である見張り台に竜は立っていた。普通は隊長、副隊長にもなれば、見張り番などしなくていいのだが、彼は一般の隊員の負担を少しでも減らしてやろうと、可能な限りはこの当直も自らに課すようにしていたのだ。

 特に何事もなく2時間ばかりが過ぎた頃、梯子の下に人の気配がした。無論、神経を研ぎ澄ませている竜はすぐに気づいた。


「誰だ?」

「隊長さん……」


 澄んだ声が闇を割って届いてきた。見張り台には月明かりと小さなランプがあるが、梯子の下は暗い。


「マリア?」

「私も……そこに上がっていいですか?」

「ここに? 危ないよ」

「平気です」


 言葉と共に、梯子が小さく軋みだした。軽い体重の者が上ってくる。竜は少し逡巡した。正規の隊員でない者を見張り台に上げるのは規則違反だからだ。

 だがそうして珍しく竜が迷っている間に、驚くほど軽い足どりでマリアは上がって来てしまった。薄明かりの中に、小さな白い顔が浮かび、にっこり微笑った。


「嬉しい……一度高い所から周りを見たかったんです。でも、副隊長さんに駄目だって言われちゃって。隊長さんなら優しいから、意地悪言わないと思って」


 聞きようによっては、舐められている、と感じられなくもないが、悪意はないのだろうと思い竜は曖昧に笑った。


「夜は景色なんてあまり見えないよ。街の外壁の傍までしか」

「いいの。だって、お昼だったら人に見つかっちゃうし」

「それはそうだね」


 見張り台は狭く、大人が二人身を寄せ合ってようやく立っていられる位の場所しかない。マリアが身を寄せてくると、柑橘系の香りが竜の鼻腔をついた。香水など勿論ない。彼女の体臭が果実の香りを含んでいるのだ。竜は不思議な気持ちに満たされた。

 ふと、霖のことを思いだした。幼馴染みの恋人。もう4ヶ月も逢っていない。軍の戦闘員である彼女からはこんな香りはしない。ただ彼女からは、故郷の香りがするのだ。土と汗と血、緑、懐かしくも厭わしい、貧しい故郷……。


「隊長さん……」

「え?」


 呼びかけられてはっとすると、間近にマリアの顔があった。潤んだような大きな黒い瞳が月明かりに白く映えている。


「何を考えているんですか?」

「え……いや、そう、故郷のこととかね……」

「故郷……?」


 微かにマリアの声のトーンが変わった気がした。


「隊長さんの故郷って?」

「東の方の日本って小さな村だよ。山間の、寒くて何にもない所だ。13で入隊するまではそこで畑を手伝って暮らしてた」

「日本……」

「マリアの故郷はどこだろうな。何も思い出せそうにない?」


 マリアは悲しげに首を振った。


「一緒にいた男性についても、全く思い出せないの?」

「ごめんなさい……」

「あ、いや、その……こっちこそごめん」


 マリアが顔を伏せてしまったので竜は慌てた。


「あんなショックな事があったばかりだからな。無理に思い出さなくてもいいさ。ずっとここにいたっていいんだから」

「本当ですか?」

「勿論。君をよく思わない奴なんていやしないんだから」

「でも、副隊長さんは……」

「あいつは拗ねてるだけなんだ。君が心配することないから」

「ありがとう……やっぱり、優しいんですね、隊長さん」


 マリアは嬉しそうに笑った。竜もつられて笑みをこぼす。心なし、二人の身体の距離が縮まった感じがした。


「隊長さん……故郷には、約束した方がいらっしゃるの?」 


 唐突にはっきりした質問が出て、竜は少しがっかりした。もう少しこの雰囲気を楽しみたかったのだが、しかしここで言葉を濁す気にはなれなかった。


「ああ、故郷じゃないけどね。軍に入ってるんだ。チャイナス北の基地で勤務してる」

「そうですか……」


 マリアは目を伏せ、そのまま黙ってしまう。重い沈黙にすぐ竜は耐えられなくなる。


「マリア? どうした、疲れたのかい?」


 白々しく話しかけると、彼女は顔を上げた。その瞳が潤んでいるのを見て、竜は困惑と微かな満足感を覚えた。


「そのひとは……そのひとは、どんなひとなんですか?」

「えっ……別に、そうだな、気が強くて女らしいとこなんてないな。でもまあ、幼馴染みで気がつけばいつも一緒にいたって言うか……」

「でも、今はここにはいないわ」


 竜の目を見つめながらマリアは言った。


「今は隊長さんの側にいるのは私です。私は隊長さんの側で、お世話をしていたい……疲れたら、癒してあげたい。他にはなんにも望みなんてありません」

「マリア、気持ちは嬉しいけど、君は記憶をなくして混乱してるんだよ」

「違うわ」


 溜まった涙が大きく見開かれた双眸から溢れ出た。


「忘れているのは、あなたの方よ」

「えっ?」


 いきなりマリアは竜の胸に縋り、強引にその唇を奪った。狭い見張り台の上で相手を押し退けることもできずに、竜は意識の何処かが麻痺したような感覚を味わいながら彼女に身を委ねた。雲に隠れた月がまた貌を見せるまでの間、二人は身動きもできずに抱き合っていた。

 唇を離し竜が眼を開くと、マリアの瞳がすぐの所にあった。深く、冷たい夜の色の瞳。噎せるような柑橘系の香りの支配のもと、その瞳に吸い込まれるかのような錯覚を起こした。訳が判らなくなる。いま、起こった事が思い出せない。彼女はどうしてここにいるんだったか……?


「……思い出さないのね」

「何を……言ってるんだ?」

「何でも……ありません」


 吐息をついてマリアは身を離した。


「ごめんなさい……私を嫌いにならないで。追い出さないでください」

「マリア?」

「隊長さんが優しいから、私……」

「泣かないで。嫌いになったりしないから……マリア」

「本当に? 私、出ていかなくてもいいの?」

「勿論……さっきもそう言ったじゃないか」

「嬉しい……その言葉だけで今の私には充分です」


 涙ぐんだまま彼女は小さく笑った。


「本当にご免なさい。どうか忘れてください」


 彼女は梯子を下りていった。薄らいだ彼女の香りだけが呆けた気持ちの竜を包んで残った。

 マリアが涙を零した前後の事が靄がかかったように思い出せない。だが、彼女は彼に好意を寄せているような素振りだった。思いも寄らない展開に、自分の対処は果たしてあれで良かったのか、反芻してみようとした。

 自分は霖を裏切るつもりなどない。だが、美しくひたむきなマリアに心惹かれるのも事実だった。彼はそれほど女好きというわけでもないし、他の隊員達のように娼館に行ったりした事もない。だが霖が思っているような聖人のような男である訳もなく、よく女性にもてる男にありがちなように、大した罪悪感もなく言い寄ってくる女性隊員や村娘と軽い遊びを楽しんだことはあった。

 だが、マリアはそうした娘たちとは何か違うように思われた。


(何が違う……?)


 判らない。判らなさが彼の興味を惹きつける。解明したくなる。


(こんな感覚……前にもあったような?)


 だが、その想いを打ち消すように、下方で騒がしい物音がする。


「竜! 交代の時間だぜ!」


 アクセルが梯子を蹴る振動が伝わってきた。ひとつ、溜息を付いて竜は梯子を下りた。

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