戒暦2999年8月。
その日、倉沢竜はいつものように、数人の部下と共に街の巡回を終え、基地に戻ってきた。
テンプルシティは、石造りの城壁に囲まれた堅固な大都市だ。
都市の外から盗賊団が攻撃してくるようなことは稀で、駐留部隊の役割は、街中で起こる様々なトラブルの解決が主だった。街中と言えど、他の全ての地域に共通して治安は悪く、強盗、放火など凶悪な事件も後を絶たない。
だが、城壁の一部に設置された基地の屋上から見渡す昼下がりの街は、活気があり、生活の息吹を十分に感じさせる。雑多に立ち並んだ市に、買い出しに来た近隣の村人が群がる。この近隣は竜が生まれ育った地方に比べ、かなり豊かだ。昼には見世物屋、夜には酒場、娼館が賑わう。勿論、ひったくりの類は日常茶飯事である。賑やかな表の顔でも危険があるのだから、裏通りにでも迷い込めば、旅人の命の保証はない。
けれど竜は、この都市が好きだった。北部との戦に疲れ、駄目で元々と志願した都市警護の任務が意外にあっさり認められてから一年、恋人の秋野霖とは離れてしまったが、その物足りなさを除けば、以前よりずっと安定した生活を送っていた。
都市には東西南北4方向にそれぞれ警護隊が置かれていたが、竜の束ねる北方警護隊は、都市の警護に加え、もう一つ重要な役割を担っていた。北方の『忌み森』の動向を見張ることである。テンプルシティ北方の城壁の外は深い森林となっており、北の見張り台に人を欠かさないことは、竜の重い使命だった。弱冠19歳の竜にそんな大任が任されているのは、竜が優秀であることもあるがそれ以上に、人材が不足しているからだ。竜自身、その役に任命されて、軍の内部事情に一層不安を感じたものだった。
「竜!」
屋上に続く狭い石段を、身を縮めるようにして上ってきたのは、竜の副官にして親友のアクセル・オーウェンだった。
真っ黒な髪と瞳、浅黒い肌に整った優しげな風貌を持つ竜に比べ、一つ年上のアクセルは、色褪せたぼさぼさの髪を持つ、ややきつい目つきの大男だった。彼と竜が長く息の合ったコンビを組んでいるからこそ、上層部も安心して竜に隊長の任務を与えたとも言える。 能力の点では竜と全く互角と言って良かったが、何しろ人当たりが悪く、口を開けば喧嘩になるので当然嫌われ者だった。人を束ねる器ではないという事で副官の位に甘んじさせられているが、元々出世欲などとは無縁の人格なので、本人も、竜の影となり表に出ずに済むことに満足している。
「隊長殿、出番だぜ」
「なんだよ、今巡回から戻ってきたばっかなのに」
竜は大仰に溜息を付く。アクセルは近付いて来て、ぼろぼろの革靴に包まれた足をどんと竜の脇の低い手すりに乗せた。
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねえの。下で聞いただろ、南小路の小火で皆出払ってんだよ。んで、今、コロネル通りでバカが剣振り回して暴れてやがるんだと」
「先週も似たようなことがなかったっけ」
「どうせ来週も似たようなことがあるぜ」
アクセルはにやりと笑って言った。笑うと欠けた前歯が強調されて、きつい印象がいっぺんに和らぐ感じがする。彼がこんな表情を見せるのは、竜に対してだけだ。3年前に竜に命を救われて以来、大の人嫌いのこの男が、竜に対してだけは不器用な好意を見せる。
何故彼が他人に対し常に、極端に身構えているのか竜は知らなかったが、彼を深く知るにつれ、彼が有能でかつ義理堅いという、この時代に珍しい人間であることがよく判ってきたので、彼の事情を詮索することもなく、全幅の信頼を置ける友人として3年間付き合ってきた。
「俺とおまえで行くなら、どうせ他の人間はいらないな」
「そーゆーこと。終わったら一杯やろうぜ」
「いいね」
竜は脇に立てかけた大剣を取り、肩に掛けた。アクセルは先に立って石段を駆け下りていく。これがやがて起こる大きな変革の前兆だとは、無論この時の二人には判る由もない。
―――
コロネル通りには人気が絶えていた。
家々は固く門扉を閉ざし、皆、息を殺して、誰かが災厄を追い払ってくれるのを待っている。土埃の舞う狭い通りには、いつもの生物の腐りかけた臭いに混じって血の臭いが立ちこめていた。荒らされた店の品々が潰れて道端に転がっており、その間に数人の人間が倒れている。
「こりゃひどいな」
アクセルが呟き、竜は黙って頷いた。血溜まりの中に俯せた少年の脇に跪き、息を確かめたが既にこと切れている。逃げようとして逃げ切れなかったらしく、背中を一太刀に斬り下げられていた。竜が半開きの瞳を閉じさせると、睫毛の間に溜まった涙が一筋滴った。他にも生存者を捜したが、まだ躯の暖かい者はあっても息のある者はなかった。苦悶を、恐怖を鮮明に湛えた5人分の亡骸を、清めてやる余裕はまだ二人にはない。
「ガキを後ろからか。ろくでなし中のろくでなしだな」
吐き捨てるようにアクセルが言い、竜は黙って頷いた。
この通りの何処かに潜んでいる。殺気を二人は感じていた。怒りを、二人に向けている。その怒りの理由を竜は知りたかった。
「出て来いよ……」
剣を抜かずに竜は言った。
「隠れててどうなる? もう気が済んだのか?」
「今更臆病風にでも吹かれたのかよ? てめえ……」
アクセルの台詞が終わらないうちに。
「うわあーっ!!」
引き裂かれた暖簾の陰から、男が突進した。
ほんの数メートル先から血濡れた剣を振りかざして猛然と襲いかかった男を、しかし竜とアクセルは軽くかわす。振り返りざまもう一度竜に斬りかかったが、その時にはもう、男はただ剛力なだけで何の剣技もないことを竜は見抜いていた。
「抜くこともない!」
「何だとおっ!」
一層逆上した男の右手を、身を沈めてかわした次の瞬間には竜はきつく捉えていた。
「ぐうっ!」
捻じあげられた男の手から呆気なく剣が落ちる。竜はそのまま男を壁に叩きつけた。
「なんだ……」
拍子抜けしてアクセルが呟く。争いを好まない竜と違い、彼は強者と剣を交えることを望む傾向にある。更に、この卑劣な仕業に対する怒りをぶつける暇すらなかった事に物足りなさを強く感じている様子だった。
「立つんだ」
男を見下ろして竜は静かに命じた。剣を抜かなくとも、気迫だけで充分だった。男はよろよろと起きあがり、蛙のように両手をついたまま竜を見上げた。
「立て、と言っている」
「ま、負けたよ。許してくれよ」
巨体に似合わず、幼稚な口調で男は哀願した。返り血を浴びたその顔は、意外に若いものだった。左右に離れ気味の茶色の眼から凶暴さは消え失せ、怯えと、諂いが浮かんでいる。竜は苛立った。
「許されると思うのか? これだけのことをしておいて」
「だってよお、こいつら、俺をバカにしやがったんだよ。俺の女が織った織物をよ、ただ同然の値え付けやがって……!」
「そんな理由? たったそれだけの事なのか?!」
「田舎くせえって言いやがったんだ! ムカついたんだよ!」
「だからって殺したのか?! こんな子供まで……」
「う、うるせえ! 俺の弟だってこんなガキの頃に、呑んだくれの親父に殴り殺されたんだ。関係あるか! 俺より弱い奴あ、死んで当然なんだよお!」
その言葉に、それまで黙っていたアクセルが静かな動作で剣を抜いた。
「なら、竜より弱いお前は、死んで当然だな……」
喉元に剣を突きつける。男の顔から血の気が失せる。
「死にたくねえよ、死にたくねえ……」
「アクセル!」
彼が本気なのは竜にはよく判っていた。隊長と副隊長の処断でこの場で男を殺しても何の問題もない。それだけの罪を犯している。だが……。
「竜、また悪い癖か? こんなクズに情けをかける気なら俺は納得できんぜ。殺された奴らや家族はどうなる?」
「そうじゃない……俺も、こいつは死んで当然だと思うさ。けど、こんなやり方じゃなく、なにか、公正な裁きを……」
「裁くのは俺らなんだよ!」
アクセルの剣が男の喉を突き通した。
「議論は終わりだ」
「アクセル……!」
男の口から鮮血が溢れ、もがく指が空を切った。誰かの名を呼ぶように唇が動いたが、言葉にならず、男は自分の流した血の上に倒れた。
「竜よ、お前は甘い。公正ってなんだ? 誰がそれを決める? もしそれを定めることが出来て、誰もがそれを守るなら、俺だってその方がいいと思う。けど、現実はそういう訳にはいかねえんだよ。だから俺らに出来ることは、誰にでも判る間違った事を見逃さないことだけなんだよ。そうでなきゃ、間違ってない奴が苦しむだけだ」
「それは判ってる。だが、こんな風に力ずくで話を終わらせるなよ。殺してしまったら話にならない」
「お前の言うような裁きを受けたとしても、こいつは死ぬことになっていたさ。余計な議論をしている間、徒に死の恐怖を長引かせるのがお前の望みなのか?」
「アクセル!」
険悪な雰囲気になりかけた時、それを止めたのは、二人の背後の微かな物音だった。
二人は口論を止め、注意を向ける。音は、男が飛び出してきた店の方から聞こえた。軽い物を引きずる様な音……危険な空気はない。黙ったまま二人は近付いた。
少女がうずくまっていた。男が潜んでいた暖簾の陰からほんの数歩の所、倒れたテーブルの裏側にもう一人犠牲者の屍が横たわっており、その側に奇跡的に男に見つかることなく隠れていたらしい。隠れ場所から這い出そうとした時、竜とアクセルが音もなく入ってきたので、少女は慌てて身を隠そうとした。
「大丈夫だ、俺たちは警護隊の者だ」
優しい声で竜が言ったが、少女は蒼白な顔のまま、よろめき、後ずさった。
「どうした? あいつは俺たちがやっつけた、もう大丈夫だぞ」
アクセルも言ったが、少女は涙ぐんだまま頭を振り、喘いだ。
「なんだ? 言葉が解らんのか?」
怪訝そうにアクセルが呟いた。竜は眉を顰め、少女の様子を観察した。
陽に当たったことがないのではないかと思える程、その肌は白く、きめ細やかで華奢だった。潤んだ瞳は黒目がちで大きく、驚く位睫毛が長い。血の気のない頬から浮き上がるように小さな唇だけが紅を差したように赤く、微かに開かれている。
粗末な白い長衣はきれいな部分がないくらいに血で汚れていた。だが、その凄絶ささえもが彼女の美しさを引き立てているようだった。簡単に言って竜は、こんな美しい娘を見たのは初めてだ、と思った。竜は彼女に歩み寄り、相手が怯えるのも構わずその細い腕を優しく捉えた。
「大丈夫だ」
馴れない獣を馴らそうとするように、穏やかな信頼できそうな笑みを浮かべ、懐から取り出したタオルで頬にこびり付いた血を拭ってやる。
「怪我はないか?」
「あ……あ……」
息を吸い込みながら少女はひきつったような声を出した。だが、もう逃げようとはしなかった。
「ショックで頭がいかれちまったのかな……このおっさんが連れだったのかな」
足元に倒れた気の毒な髭の男に目をやってアクセルが言う。
「とにかく医者に診て貰おう。連れて帰って……」
「……ああ、そうだな」
竜の言葉に、なんとなく不服な気がしたものの、特に反対する理由も見つからなかったのでアクセルは頷いた。
先刻の口論の続きをする気は失せていた。
罪人の処罰に関して意見が食い違うのはいつもの事だ。団員の前で険悪になった事もある。そんな時、わざとのようにアクセルは棘のある態度を取り、その結果、周囲の者は自然、竜の肩を持ち、アクセルの株は下がった。
だがそれでも、決して結論の出ない口論を繰り返しながらも、翌日までわだかまりが残ることはなかった。団員の中には、何故二人が衝突を繰り返しながらも親友でいられるのか不思議がる者もいたが、それは、互いに意見が違えどもこの世界を憂える気持ちは変わらない事を、二人がよく解っていたからだ。互いに不満を持ちながらも、信頼感が揺るぐ事は決してなかった……これまでは。