絞り出すように叫んだその時、不意に気が付いた。数メートル先に転がるもの。人間。何故今まで気付かなかったのか。こんな見通しのいい場所で。
身構えながらゆっくり近付く。どんな人間だか判らない。死んでるのか生きてるのかも判らない。なんにせよ、余計なものに関わっている余裕などないし、関わらないに越したことはないのだが……。
倒れているのは少年のようだった。砂にまみれた顔は生気がなく、唇は乾いてひび割れているが、よく見ると息はしている。荷物らしいものは何も持っていない。盗賊などではなさそうで、盗賊に襲われて行き倒れた者のように見えた。
「大丈夫?」
警戒は緩めずにそっと声をかけてみた。無視して通り過ぎても構わないのだが、今は後味の悪いことはしたくない。自分の運命とは全く無関係のことを考える機会が出来た事に少しほっとしてもいた。
少年は声に反応してうっすらと目を開けた。
「ん……みず……」
霖が水筒を差し出すと、やおら起きあがり、少年は貪るように水を飲んだ。
「ちょっと……」
止めようとした時には、水は殆ど無くなっていた。時刻は昼前くらいで、日暮れまでには村に着く予定とはいえ、この乾燥した土地を水なしではきついものがある。だが少年は気にする様子もなく、次の要求を口にする。
「姉さん、な、なんか食べ物持ってない?」
保存食を半分出すと、あっという間に飲み下してしまった。物足りなさそうな顔を見て、ついつい残りも与えてしまう。これで昼食はなしだ。しっかり体力を残しておかないと、それだけ進める距離が短くなるのに。自分の人の良さに霖は苛立った。
少年は口の周りを拭うと、ほっと息を付いて霖を見た。
「ありがとう、お姉さん、いい人だね」
年の頃は14くらいといったところか。痩せて顔色も悪いが、顔立ちはなかなか整っている。盗賊にやられてよく売り飛ばされなかったものだ、と内心霖は思った。
「気が済んだ? じゃあね」
ぶすっとした口調で言い捨てて、歩き出そうとした時、少年が彼女を呼び止めた。
「待って、お姉さん。僕、ラファエルっていうんだ」
「そう」
「お姉さんは?」
「名乗る必要なんかないでしょ? あんた、ついて来ないでよ! あたしはあんたの面倒見る暇なんかないんだからね」
霖が早足で歩くと、少年もついて来ていた。足元は少しふらついている。だが、さっきまで死んだように倒れていた割には、しっかりしていた。
「お姉さん、恩返しをさせてよ。何をすればいいかな」
「あるだけの食料と水を分けてやったのに、これ以上どうしたいって言うの? あたしは迷惑なの! さっさとどっかへ行っちゃってよ」
「……ごめん。でも僕、どっちへ行けばいいのかわからないんだ」
「……なら、離れて歩いて。話しかけないで」
きっぱりと言って振り向きもせずに歩き出す。背後の少年の気配が鬱陶しい。貴重な時間をこんな見ず知らずの子どもに邪魔されるなんて。水と食料の事で苛立ち、足を止めた事を後悔しつつ、何とかラファエルと名乗る少年を念頭から追いだして自分と向かい合おうとした。
だが、数分歩いたところでたまらず振り向いてしまう。ラファエルは数メートル後方で、荒い息を吐いてしゃがみ込んでいる。溜息をついて仕方なく足を止めた。
「こんな所でまた倒れたら、今度こそ助からないよ?」
「ね、姉さん歩くの早いんだもん……」
「あたしは急いでるの。あんたは自分のペースで歩きなよ」
「いやだ……お姉さんと一緒に行きたい。一人は不安だ」
「甘えないで。帰るところがあるんでしょ」
「わからない……思い出せないんだ」
「え?」
すぐには意味が呑みこめなかった。
「気がついたら、砂漠の真ん中に放り出されてて、自分の名前以外何も覚えてないんだ」
記憶喪失、というものだろうか。聞いた事はあるけれどそうした者に会うのは初めてだ。
「……でも、この道をまっすぐ行けばいつか村に辿り着くわよ。あたしに無理して付いて来なくてもいいでしょ」
「お姉さんに会ってなかったら、僕はここで死んでた。お姉さんと一緒に行けば、何か思い出せそうな気がする」
恥ずかしそうにラファエルは笑う。笑うと急にあどけない感じがして、霖は故郷の弟のことを思い出す。
弟妹と両親は、西の故郷に健在だ。会いに行ける距離ではないので、昨夜手紙だけを家族皆にしたためて、基地に預けてきた。運が良ければ除隊通知と共に家族の元に届くだろう。
老いた両親は泣くだろうが、彼女を手放した日からある程度覚悟は出来ていた筈だ。家族のことはもう考えないようにしていた。自分が遠くで生きていても死んでいても、彼らは結局生きていけるのだから。自分の悲しみ、竜に逢えない悲しみで手一杯で、これ以上どうにもならない悲しみを抱える勇気がない。
だがラファエルの中に弟の面影を見た時、急に少女時代の思い出が猛然と襲ってきて、不覚にも涙が溢れてしまった。
「お、お姉さんが泣くことじゃないだろ」
同情されたと思ったらしく、ラファエルは逆に慰めるように言う。この子の方が余程大人だな、と霖は思う。彼に八つ当たりしていたのに。
「悪い……」
涙を拭って小さく呟く。
「一緒に行こう。テンプルシティに」
「え?」
「あたしも……あんたと行けば、竜に逢えそうな気がする……」
それから暫くの間、霖と少年は、ぽつりぽつりと身の上話をしながら、変化のない街道を並んで歩き続けた。と言っても少年の方には、語る程の記憶が殆どない。ただ、霖が不治の病だと聞いて少年はショックを受けたようだった。
「気の毒がらなくていいよ。人間、みんないつか死ぬんだから」
自嘲気味に霖が言うと、ラファエルは俯き加減に首を振って、何かをなぞるように繰り返した。
「みんないつか死ぬ……?」
霖は思う。
今ここで考えて歩いている自分は、死んだら何処に行ってしまうんだろう。今まで生きてきた自分は? もうすぐ歩くことも、話すことも、食べることもできなくなる。子どもを産むこともなく、何かを成し遂げる事もなく、いなくなってしまう。自分で生み出したものを何も残してない。人々の記憶はいつか消えてしまう。霖が生まれて生きた証拠……からだが土に還り、持ち物や部屋が無くなって、みんなが彼女を忘れてしまえば、死は無に変わり、自分が生まれたこと自体、何の意味もなくなってしまうのではないだろうか。
……それとも、竜は覚えていてくれるだろうか。
「お姉さん、なんか……来るよ!」
ラファエルの緊張した声で、霖の思いは遮られた。少年の指さす遥か前方に、ぐんぐん近付いてくる黒い影がある。それは、人間の脚とは思えない速度だった。
「あれは……馬?」
霖の声も上ずる。馬は大変貴重なものだ。個人で所有する者は殆どなく、豊かな町や村だけが共有財産として僅かな頭数を飼育している。そしてその一部が、伝令の為、軍に徴収されている。
騎馬で、単独で行動することは普通あり得ない。盗賊に襲われるのが目に見えているからだ。それが今、たった一騎、猛スピードで街道を駆けてくる。何か、異常な事態が起こっている?テンプルシティの方で!
「お姉さん……どうする?」
不安げにラファエルが言う。相手は盗賊という可能性もあるのだ。
「どうしようもない……馬から逃げられるわけないでしょ」
騎馬の男が近付いてきて、二人の側に止まった。
「旅人か、盗賊か? なんにしろ、この先は危ないぞ」
男は大剣を背におい、鎖帷子を身に着けている。軍の隊長格かそれに準じる位の肩章を着けているが、肩に傷を負い、肩章には黒く固まった血がこびり付いていた。日焼けしたややきつめのその顔に霖は見覚えがあることに気付いた。
「あなた、アクセル・オーウェン……?」
「おまえ……秋野? 秋野霖か!」
驚いたことに男は霖の知人だった。アクセル・オーウェン、彼は竜の副官で親友なのだ。
「何でこんなとこを歩いてる?」
「ねえ、それよりあなたは何してるの? テンプルシティで何か……あったの?」
「俺はチャイナス北の基地に伝令に行くところだ。極めて悪い知らせだ。テンプルシティが陥ちた」
「まさか。北部の奴等にそんな武力が?」
霖の言葉に彼は首を振った。
「もっと……悪いものだ」
「もっと、って……」
アクセルは僅かに口ごもったが、努めて平静な口調で告げた。
「“滅びの獣”が生まれた」
「……!!」
霖は言葉を失った。ラファエルは微かに息を呑んだ。
誰もが知ってはいるが、普段は決して口にしない禁忌……それが滅びの獣だ。それが生まれたという事は、人類の滅亡を意味していた。
「北も南も関係ない。……終末が来る。だが、それでも、闘わないとな。たとえ、無駄な足掻きに過ぎなくても」
「アクセル……」
「とにかくテンプルシティでは殺戮の嵐だ。戻った方がいい」
ラファエルの足元で砂がじゃりじゃり音を立てた。無意識に靴の底を地面に擦りつけている。
霖は唇を咬んだ。なぜ彼は、最も聞きたいことを教えてくれない? なぜ言ってくれない、竜は無事だ、心配するな、と。
「りゅ……竜は?」
目眩がするほどの勇気を振り絞って尋ねた。アクセルは眼を逸らした。
「竜は……死んだ」
―――
何故、気を失ってしまったのか。意識を取り戻した霖は激しく自分を責めた。寝不足も祟って随分長く意識を失ってしまっていたようだ。気がつくと日は傾きかけており、アクセルはとうの昔に役目を果たす為立ち去っていた。まだ聞きたいことが山のようにあったのに。
心配そうにラファエルが覗き込む。少年はずっと彼女の側にいたらしい。
「あの人、基地に戻れって言ってたよ」
「……」
「お姉さん、戻ろうよ」
「やだ」
霖がきっぱりと言ったので、ラファエルは驚いて俯いていた顔を上げた。
「やだって、お姉さん……」
「あたし、どうせ死ぬんだもん。だったら、自分の目で確かめたい。何が起こったのか……行けるところまで行って。」
「で、でも」
ラファエルは必死に反論する。
「滅びの獣……だよ?」
口にするのも恐ろしい、と言わんばかりに声をひそめて言う。
「神様の使いなんだよ。それが、人間を殺して世界を浄化するために生まれた……そういうことだよね。人間であるってだけで、赤ん坊でも踏み潰すって……そんな奴に殺されて死にたくないだろ?」
「嫌ならあんたとはここで別れるだけよ。あたしは行かなきゃ」
「でも、行ったって、テンプルシティまで行ける訳じゃないんだよ!」
思い出させようというようにラファエルが叫んだ。
「行ったからって会える訳じゃないんだ。お姉さんの恋人だって殺されてる!」
「やめてよ!」
思わず少年を突き飛ばす。軽い身体は無様に土の上に転がった。だが少年は子犬のように起きあがり、悲痛な眼で訴え続ける。
「落ち着いて考えてよ、お姉さん」
「嫌……」
「……どうせ、すぐあの世で会えるよ」
「……」
涙の溜まった眼で霖は年下の少年を睨み付けた。ラファエルも泣いている。泣きじゃくり、震えながら彼女を必死で説得しようとしているのだ。不意に体中の力が抜けていった。
「なんでそんなにあたしにこだわるの。ひとりで逃げればいいじゃん」
「お姉さんについて行くって決めたから……お姉さんを一人で死なせたりしたくないんだよ。もしどうしてもお姉さんが行くなら、僕も行くよ」
「なんで? あたしとあんたはさっき会ったばっかりじゃないの。そんな義理立てしなくていいんだよ」
ラファエルは少し口ごもる。
「それは……」
「自分の命でしょ。人の言うなりになるなんて変じゃない。あたしは行きたいから行くし、あんたは好きにしなよ」
言いながら霖は振り切るように立ち上がる。
だが本当は、ラファエルと別れるのは嫌だった。一人になりたくない。ラファエルの姿が見えなくなったら、泣いてしまうのは確実だ。
たった数時間一緒にいただけなのに情が湧いている。記憶をなくして独りぼっちの縋るような少年の目は、隠している自分のものとおんなじだ。優しい哀れみじゃなく、言葉の通じる相手。本当は、今最も必要な相手。
でも、“必要なもの”と“欲しいもの”は違ってしまっている。竜に逢いたい。それが叶わないなら、竜に少しでも近いところで死にたい。それが今欲しい全てだった。
「さよなら」
「お姉さん……」
霖は歩き出した。振り返りたくない。少年は追って来ない。霖は小走りに走り出す。足が地面に付く度、涙が弾け飛んだ。
何分も走って、息が切れたところで遂に振り向いた。乾いた陽光に染まったでこぼこの道の上に、小さな小さな少年の影が、寄る辺なく立ち尽くしていた。