――『カプリッツィオ』北西部から約300キロメートル地点。
ここまで来ると、明確に精神への影響を感じるようになる。
具体的には、犯せ、壊せ、殺せ、蹂躙しろ、といった攻撃的な幻聴が聞こえるのだ。
幻聴は単純に無視すればいいという問題ではなく、精神や感情を直接蝕むような不快さを
精神の
経口摂取では間に合わない可能性もあるため、袖をまくり、軽くアルコール消毒を行って、静脈注射で薬液を流し込んだ。
(ふぅ……、気休め程度だが、少しはマシになったな)
静脈注射は、およそ1分程で効果が出始める。
その即効性は緊急時において非常に効果的なのだが、素人が行うのは少々危険だ。
俺はこの日のために、医療研修を受けて技術を学習しているが、それでも多少の不安は残る。
こんなところで神経に障害を発生させては、目も当てられない。
(……よし、神経の方も問題無さそうだ)
暫し手を開いたり閉じたりして問題無いことを確認してから、機体の操作を再開する。
現在いくつかの機器に異常が発生しているため、操作にはより繊細さが要求されていた。
もし手足に何か異常があれば機体制御が困難となるため、機体だけでなく自分の体の状態についてもしっかりチェックを行う。
"殺せ……"
相変わらず幻聴は続いているが、先程までよりも余裕をもって受け流すことができている。
精神安定剤は基本的に興奮を抑えリラックスさせる効果があるが、俺が使った薬にはさらに覚醒効果も含まれていた。
本来精神安定剤には、催眠作用や筋弛緩作用といった効果もあるため、運転や運動の際には使用できない。
しかし、それでは『カプリッツィオ』の攻略には使えないため、専用の薬を用意したのだ。
当然だが、普通には流通していない。
麻薬に類する成分も含まれているので、流通などしてたら大問題だ。
依存性もあるため、使用量については十分に注意する必要があるだろう。
『400キロメートル地点に到達しました』
「……機体の状態はどうだ?」
『通信機器以外では、自動操縦に関係するシステム部分にエラーが発生しています。また、搭載しているドローンについても一部使用不可能になっています』
この機体には色々な用途のドローンが複数搭載されているが、重要な役割を持つものには「狂乱」の対策を施していた。
具体的には対電波、対魔素などの対策で、金属膜などの特殊なコーティングがされているのである。
使用不可能になったのは、そういった対策が施せなかったドローンだろう。
これはつまり、「狂乱」が電波的、あるいは魔素的な要素を含んだ現象であるということを示している。
検証することが困難(計測機器や人間が狂うため)で、長らく推論とされてきたことだが、この情報を持ち帰れば一つの証明にはなるだろう(正確なデータは取れないため、あくまで経験則としてだが)。
この推論の元となる情報を持ち帰ったのが、過去400キロメートル地点まで到達した開拓者――ソロンの残したドローンだ。
ソロンのドローンは、特殊コーティングを施したうえで、通信を必要としない完全自立型だった。
つまり、ソロンは「狂乱」の秘密に一人で近づいていたということになる。
本当に偉大で、尊敬に値する素晴らしい開拓者だ。
その偉大な開拓者の記録に、俺は今追いついたワケだ。
何とも言えない実感が俺を襲うが、それで気を緩めている場合ではない。
ソロンはこの先に進むと音声データを残し、消息を絶ったのだ。
ここからは、さらに警戒を強める必要がある。
(ソロンは恐らく、今の俺と同じくらいの対策は講じていたハズだ……)
デウスマキナ自体への特殊コーティングに、強力な精神安定剤。
それは勿論のこと、気付薬や予備のAIなども用意していただろう。
それでも、ソロンは帰ってこれなかった。
(しかし当時と比べれば、装備の質、そして環境が違う)
ソロンが『カプリッツィオ』に挑戦したのは、今から10年以上前の話だ。
当時と今とではデウスマキナ自体の性能も違えば、対策装備の質も向上している。
用意した薬についても、当時より研究が進んでいる分、効果は増している。
そして何より、今は「狂乱」の効果が低下しているのだ。
これだけの好条件が揃っている以上、弱音は吐いていられない。
「【フローガ】、バランス制御以外の機能を全てマニュアルに切り替えろ」
『……切り替えが完了しました』
姿勢を制御する機能は、デウスマキナを操作する上で必須の機能となるため、基本的に切ることはできない。
それ以外の自動処理、カメラ操作といった機能は全てマニュアル操作で行う。
落石などの突発的な事故は全て自分で対処する必要が出てくるが、自動機能に頼りきっていると、いざ使えなくなったときに何もできないということもあり得る。
正常に動作せず惑わされる可能性もあるため、ここから先は可能な限りマニュアルで操作すべきだろう。
当然と言えば当然だが、マニュアル操作についてはこの日に備えて長年訓練しており、制御について不安はない。
単純な操作技術だけであれば、俺は帝国の開拓者の中ではトップを取れる自信がある。
かなりの集中力が必要となるが、それについても精神安定剤に含まれた覚醒効果のお陰で問題ないだろう。
『レーダーに感あり』
「っ!?」
機体の制御に集中していると、【フローガ】から音声による通知が入る。
レーダーを確認すると、確かに索敵範囲ギリギリの所に黒い点が映っている。
このレーダーは軍で過去に使用されていた物で、感度は良いが少し性能が低い。
識別能力もないため、一体何に反応したか見た目では判断できなかった。
ただ、そのお陰でアナログな部分が多く「狂乱」の影響を受けにくいという利点がある。
「【フローガ】、対象が何か確認できるか?」
『現在、確認中』
このレーダーに生物は映りこまない。
そのため、反応したのは何か機械的な存在であることが予想される。
もしここが普通の場所であれば、車などの車両という可能性もなくはないが、ここは全てを狂わせる「狂乱領域」だ。
となれば、反応したのは恐らく――
『探知結果を報告します。対象はデウスマキナ。モデル名称は【フォティア】、型番は弐式、登録名称は【レオニダス】です』
「……そうか」
驚きはしない。予想はしていた。
もしかしたら、出会うことがあるかもしれないと。
「【フローガ】、戦闘準備だ」
間違いなく、あの機体の搭乗者――ソロンは生きていない。
今動いているのは、「狂乱」により狂った、デウスマキナのなれの果てだ。
偉大なる開拓者、ソロンよ……
――ここで俺が、弔ってやる。