次の練習日。蓮美と緋音の願いで、もう一度だけ栗花落の自宅でレコーディングをすることになった。
「大丈夫なんだろうな」
怪訝な態度を取るのは涼夏だ。前回からそう日を置かない状態で、今度こそ歌えるのかどうか。前回以上に不安そうな顔をしている緋音の姿を見て、不安になるのは仕方ない。
「大丈夫……です、たぶん」
発起人の蓮美も、百パーセントの確証があるわけじゃない。いいとこ五〇パーセント。どちらかと言えば、ダメでもともと。
しかし、「歌いたいのに歌えない」という状況の辛さはよく分かるから、一刻も早く何とかしてあげたかった。
「音源は、前回録ったやつでいいのかしら?」
「はい。ただその、みなさんにお願いがあって――」
やがて機材の準備が整い、前回と同じようにスタンドマイクの前に緋音が立つ。それだけなら何も変わらないが、今回はほかのメンバーたちもバックにそれぞれの楽器を持って立ち並んでいた。
「本当にこれで良いんだろうな?」
「大丈夫……です!」
余計に半信半疑な涼夏に、蓮美は目を反らしながら頷いた。
「立つのは構わねぇけど、音出せねぇぞ」
「それでいいんです。むしろ、それが良いんです。ドラムとキーボードは電子で、ベースもアンプに繋がなきゃ収録の邪魔にはならないと思うから。その状態で、練習のように思いっきり演奏してください」
「お前はどうすんだよ」
「私は……頑張ってエア・サクソフォンします!」
ほとんど思い付きの蓮美の策は「緋音の後ろでエアバンドをする」というものだった。
収録の関係上、他の楽器の音は出せない。だがフリだけでも「そこに居る」ことで、練習やライブの時と同じパフォーマンスを緋音が発揮できるのではないかと、そう考えたのだ。
「とりあえずやってみるのは良いけど、私も効果があるのかは疑問かな」
涼夏だけでなく、千春が珍しく難色を示す。効果があるかどうかというよりも、エアドラムで本番通りの熱を再現できるのかという方が、何よりの不安の種だ。
蓮美は、すがるように千春を見る。
「緋音さん、たぶん私と違って、合奏じゃないと力を出せないタイプ……だと思うの。だから、少しでもいつも通りに近い形にしてみたくって」
「うん。意図は分かるよ。だから、疑問はあるけど、やってみる価値はあると思う」
「うん、お願い……ね?」
念を押すように尋ねた蓮美に、千春は微笑みとともに頷いた。
「音の出ない演奏は……なんか、ノらねぇな」
「涼夏さん、そこを何とか……とりあえず一回だけ。これなら歌えるかどうかの確認だけでも」
コードが繋がれていないベースの、蚊かアブが鳴くような弦の音に、涼夏はすっかりボヤキモードに入っている。それもどうにか宥めて、運命のテストプレイが始まる。
流石に人数分のヘッドフォンの用意はなかったので、装着するのは緋音と、録音の状態をチェックする必要がある栗花落のふたりだけ。栗花落は、デモ音源の中で響くドラムスティックの音を頼りに、バンドの指揮を執るように「ワン、ツー、スリー、フォー」と音頭を取った。
静かな室内に、エアバンドのカッスカスの演奏が響く。いや、響くと表現するのも野暮だ。
カッスカスのベースに、マットを叩くようなドラムとキーボード、サクソフォンなんか、本当にフリだけだ。傍から見れば、お遊戯会か何かにも見える光景だが、ヘッドフォンをつけるふたりの耳には、肌に迫る音の波が確かに聞こえる。
(みなさんが、ここまでしてくれたんだから……今度こそ頑張るんだ)
前奏の間中、緋音は繰り返し心の中で唱え続ける。頑張れ。頑張れ。これまで何をするにも、家族以外に応援してくれるような誰かは居なかった。けれども今は、失敗を自分のことのように考えてくれて、一緒に前に進もうとしてくれる仲間がいる。
それだけで、バンドに加入して本当に良かったと、緋音は心からそう思う。
初めてのライブの日に、逃げなくてよかった。
勇気を出して、バンドに入って良かった。
(そっか……これも、一歩一歩だったんだ)
これまでの自分からしたら大きな変化過ぎて、考えもしなかった。しかし確かに、緋音は今日までを自分のペースで一歩ずつ歩んで来たのだ。
カラオケで歌う練習をした。
声が出ないのを克服するために、お酒の力を頼ったりもした。
ライブに出た。
友達と東京にも行った。
すべてが新鮮で、すべてが彼女の糧になっている。
(わたしは、ひとりじゃない――)
ヘッドフォンの音源に、背中越しに感じる仲間たちの熱が重なる。
締め切られた防音室の八畳間が、頭の中でぱっと弾けて、ライブ会場のステージの上に変わる。
自分は、ここに居て良いんだ――確かな勇気を胸に、緋音はマイクを握りしめて大きく息を吸った。
(歌えた……!)
緋音が最初のワンフレーズを口にできた時、誰よりも嬉しそうに表情をほころばせたのは蓮美だった。間違って無かったと胸を撫で下ろす一方で、それ以上に「緋音が歌えた」という喜びが全身を駆け巡った。
他のメンバーも、一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに演奏に意識を戻してエアバンドに集中する。少しでも乱れたら、また歌えなくなってしまうのではないかという心配が全く無かったわけではないが、それを吹き飛ばしてしまうくらいに優しく、暖かい、愛に満ちた歌声だった。
最後まで無事に歌い切ると、メンバー全員が安堵して胸を撫でおろした。
「栗花落が言ってた、環境どうこうってこういうことか」
涼夏に視線を向けられると、栗花落は肯定とも否定とも取れない微妙な角度で首を捻る。
「具体的なことは私も分からなかったけど……数日で仕上げて来たのは素晴らしいわね」
「ありがとう……ございます」
「ただ……非常に申し上げにくいけど、収録自体は撮り直しね」
「……え?」
憧れの人からの賛辞に顔をほころばせていた緋音が、一転して目を丸くする。何か、別の粗相をしてしまったのかと焦りが滲むが、他のメンバーの非難、または仕方ないなぁという目線が、一斉に蓮美を向いていた。
「え、わ、私ですか?」
「蓮美ちゃん、気づいてなかったんだね。テンション上がっちゃったのか、音、出てたよ」
「嘘っ!?」
千春の指摘に蓮美は演奏中のことを思い出すが、緋音の歌う姿に見とれて全く覚えていない。覚えていない……なら有りうる、と羞恥心で顔を一杯に覆った。
「ご……ごめんなさい」
「まー録れるって分かったんなら、あとは本撮りの時で良いだろ。あと蓮美、罰金な」
「うう……はい」
頼み込んだ策だっただけに、自分のポカのせいで失敗したという状況は、何よりも恥ずかしいものだ。蓮美はふたつ返事で貯金箱に硬貨を投入すると、その足で緋音の傍に歩み寄る。
「ごめんねぇ、緋音さん。せっかく歌えたのに」
「い、いえ……でも、一回歌えたなら、次も大丈夫だと思います」
「うん、そうだよね……とにかく、声が出て良かったよ」
「……はい!」
一度笑い合ってしまえば、失敗の空気なんて帳消しだ。その日は結局もう一度だけ撮り直しを行い、正式にメンバー全員の「試し撮り」とそれに栗花落が簡単なミキシングをかけて合成した「お試しデモテープ」が完成した。
「それじゃあ、流すわね」
栗花落のパソコンの周りにみんな集まり、デモテープが再生される。
カチリと、マウスのクリック音と共に高まる緊張で蓮美たちは固唾を飲んだが、すぐに曲のイントロが始まり、やがてボーカルの歌い出しへと差し掛かったころには歓喜と興奮で声が上ずった。
「すご、プロの曲みたい!」
「ミキシングがいかに偉大か解るね」
手を取り合って喜ぶ蓮美と千春の隣で、緋音も目を輝かせている。はじめのころは、マイクに乗った自分の声を聴くのも恥ずかしがっていた彼女だったが、今はむしろ自分の歌声に聞き惚れているかのようだ。
「これ……本当にわたしの声なんですか?」
「ピッチの調整とかはしているけど、フィルターなんかは一切通していないあなたの歌声よ。素晴らしいわ」
「嬉しいです……本当に」
デモテープに耳を傾けながら、この曲が正真正銘の「自分とみんなでなし得たもの」という実感がふつふつと湧き上がる。思わず涙腺が緩みそうになったが、そこはぐっと顎に力を込めて堪えた。これはまだテストだ。やり切って泣くのは、本撮りを行って、サイトにアップしてからだと、そう心に言い聞かせて。
対して、唯一神妙な顔つきで曲を聞いていた涼夏は、曲の途中で画面上の音声波形に指をさす。
「ここの間奏、もう少し情感もたせてーな。蓮美のソロでも入れるか」
「確かに、全体的にしっとりした曲だから、間奏で強めに遊ぶのはアリね。うん……私も少し、イメージが湧いたかも」
涼夏と栗花落は、さっそく曲の仕上げの方向性を話し合い始める。蓮美がその姿を横目で見て、興奮していた心を落ち着けた。
(そっか、これで満足してちゃダメだよね。私たちメジャーを目指してるんだから……大学生バンドのレベルで満足してちゃいけないんだ)
気持ちを入れ替えるようにひと呼吸入れると、自分もふたりの輪に果敢に飛び込んでいく。
「あの、わたしもいくつか、こうしたら良いかなーって言うのがあるので、意見しても良いですか……?」
その申し出に、栗花落は少しだけ驚いたように目を見開いたが、すぐに笑みを浮かべて頷く。
「もちろん。取り入れるかどうかは、相談してからになると思うけれど」
「ありがとうございます!」
「意見するのは良いけど、お前、今日、罰金多いな」
「曲が良くなるなら良いんです!」
差し出された罰金箱に、やや乱暴に追加の硬貨を投じる。
おかげで財布の中身は寂しくなったが、代わりに気持ちの方は前向きに上向いていく心地だった。