翌日、緋音は蓮美のアパートを訪ねていた。大学近くの高級住宅街に住む緋音と、学生向けアパートに住む蓮美は、他のメンバーに比べれば互いに近いところに住んでいる。
次に近いのが、市街地のマンションに住む栗花落。その次が原付で小一時間のところに住む涼夏。最後に電車で一時間以上は掛る千春だ。
「ごめんね、狭いところで……」
呼びつけておいてなんだが、緋音はお嬢様なんだよな……と言うことを思い出して、比べてウサギ小屋のように小さく散らかった自分の部屋を、蓮美は申し訳なさそうに見渡す。
「いえ……友達の家って初めてなので、なんだか新鮮です」
「昨日、栗花落さんの家に行ったでしょ?」
「RAiNさんの家は! なんか……遊びに行ったというよりは、聖地巡礼的な」
「ああ、そういう……」
蓮美は、床に散らばった本や取り込んだ洗濯物を乱雑に部屋の隅に避けて、緋音の座るスペースを作ってあげる。それから部屋の隅にある小ぢんまりとしたキッチンでお茶を淹れた。
「どうぞ」
お気に入りの猫柄おマグカップを差し出すと、緋音は目を丸くしてそれをじっと見つめる。蓮美は、昨日のことを思い出して「あ!」と小さな悲鳴をあげた。
「……百均で二百円のマグカップでごめんなさい」
「え? い、いえ、可愛いマグだなと思って……ありがとうございます」
受け取った緋音が、ひと口紅茶を飲んで、遠慮がちな笑みを浮かべる。
輸入食料店チェーンで五〇包八〇〇円のティーバッグでも、それなりに満足はしたようだった。
「蓮美さん、ひとり暮らし……なんですね?」
「うん。前にも言ったような気はするけど」
「その、改めて家にお邪魔したら、ほんとにひとり暮らししてるんだなぁって思って……」
「そうは見えないかな?」
蓮美の問いに、緋音は首を横に振る。
「何ていうか、わたし、家から出る自分が想像できなくて……だから、すごいなぁって」
「すごいことは無いと思うけど……家ではお母さんがたまに掃除してくれてたから綺麗だけど、今では半年でこんなだし」
蓮美が、改めて部屋の惨状を見渡す。
自分に生活力があるとは思ったことが無いが、ここまでとは思っていなかった。
「で、でも、とりあえず自炊は当たり前にできるようになったよ。生活費とか計算するようになったら、ファミレスとかコンビニって思ったより高いなって分かったし。奨学金も限界があるし。まずは命に係わる食べ物から節約……って言うと、すごく切羽詰まったように聞こえるけど。掃除とか片付けは、その後に覚えればいいかなって」
もっとも、その機会がいつ来るかは蓮美自身も分からない。気が向けば、とは思っているが。
「一歩ずつ……なんですね」
「そう、そういうこと……!」
緋音がそれっぽいまとめを口にしてくれたので、蓮美も乗っかって盛大に頷く。
「それで、本題なんだけど……昨日のレコーディング」
「……はい」
「一応の確認なんだけど……わざとではないんだよね?」
「そ、そんなことしません!」
「わ、分かってるよ! 一応、念のための確認だから!」
食い気味に否定されて、蓮美は慌てて緋音をなだめる。
「じゃあ、歌えなかったんだね。ちなみに、何か心当たりは……?」
「ありません……」
「……そっか」
緋音の答えを聞いて、蓮美は考え込むように自分のお茶に口をつける。
いや、考えるというよりは、彼女なりの踏ん切りをつけるためにひと呼吸必要だったという方が正しい。
「今日、力になれるかも……って呼んだのはね、私もそうだったからなんだ」
「……え?」
思ってもみない発言に、緋音が驚いて顔を上げる。
蓮美は、カップの中の紅茶を見つめて寂しそうに笑った。
「高校の時、ちょと……嫌なことがあってね。人と演奏するのができなかった。合奏しようとするとに、嫌な記憶がわーって思い出しちゃって、上手く吹けないの」
「でも……蓮美さん、いつもあんなに上手に」
「涼夏さんのおかげ……ううん、涼夏さんのせい! 知るか。うるせえ。吹けコノヤロウ――って、吹かされちゃった」
「ああ……」
様子が手に取るようにイメージできたのか、緋音も縮こまりながら自分の紅茶を見つめる。
「でも、一回吹いてみたら意外と大丈夫だった。だから、とりあえずこの人となら演奏できるのかな……って、今はバンドで頑張ってるつもり。もともと、演奏も合奏も好きだったから」
「そう……なんですね」
「同じ境遇って言うと違うと思うけど……だから、何か力になれるかもって、そう思ったんだ」
蓮美の真っすぐな優しさと、わざわざ語ってくれた過去の話とを、緋音はしんみりと受け止める。そして、自分の境遇とを照らし合わせてみた。
「わたしは……蓮美さんとは全然違う気がします。取り戻したい成功体験も、抱え込むような失敗体験も、何もない。わたしは、何もしてこなかった人間だから」
「聖歌隊に入りたかったっていうのは?」
「それは……小さい頃の夢ではありましたが、叶わなかった夢です。わたしなりに頑張ってみたつもりでしたけど……風邪を引いて、挑戦する前に終わってしまったので」
「それでも、頑張った記憶はあるんだよね?」
「頑張った……なんて、他の人から見たら言えない程度です。今と同じで声も出なくて、何度も何度も『もっと声出して』って怒られたり。かと言って、精一杯声を出したら、今度は音が外れるからもっと押さえてって言われたり」
「ああ……」
蓮美は、昨日の最後のレコーディングを思い出す。声は出ているのに音程もテンポもトンチンカンな歌声。あれは、緋音なりの空回った〝精一杯〟の証だったのだ。
その卑屈な性格のせいか、緋音には〝挑戦〟と〝成功体験〟が著しく欠如していた。蓮美も具体的に言語化できるわけではないか、なんとなく緋音の置かれた状況と環境を感じ取っていた。
それは、涼夏に迫られるまで自発的に動こうとしなかった、春までの自分によく似ているのだ。
「緋音さん、歌、好き?」
尋ねると、緋音は戸惑ったように首をかしげる。
「好き……だと思います。少なくとも嫌いではないです」
「じゃあ、今、歌うことでやりたいこととか……夢でも良い。あったりする?」
「ええと……」
さらなる問いに、今度は天井を見上げて唸る。
長い長い思案の末、カップのお茶が温くなってき始めたころに、ようやく緋音は蓮美を見つめ返した。
「打ち上げ……したいです」
「うちあげ? ……花火?」
「ち、違います! 何か、こう、成し遂げた後に……みんなでぱーっとご飯を」
「ああ、その打ち上げ!」
「部活動の大会のあととか……学園祭のあととか……そういうの、参加したこと無かったから、憧れで」
「そっか……じゃあ、無事にレコーディングが終わったら、やらなきゃね、打ち上げ」
「……はい」
その時、ようやく緋音は、少しだけ嬉しそうに笑った。
「それで、具体的にどうするかだけど……うーん」
蓮美は、唸りながら緋音の様子を伺う。正直なところ、どうしたら良いのか全く目星はついていない。
「緋音さん、カラオケはちゃんと……と言うには怪しいけど、とりあえず歌えてはいたよね?」
「はい……言われて見れば、レコーディングはカラオケと何も変わりませんよね……できてたことができなくなるなんて」
「ストップ! そこでさらに落ち込まれると、もう先に進めなくなる!」
慌てて緋音を宥めて、ひと息つくようお茶を勧める。
「レコーディングとカラオケ……何が違うのかな。場所? 音源? それよりも普段のライブや練習と、レコーディングとの違いを考えた方が……?」
「そう言えば……レコーディングの時の音源、すごかったです。本当に、みなさんが傍で演奏しているような気がして」
「そう言って貰えるのは嬉しい……でも、それって良いことだよね。たぶん、原因ではなさそう」
「そう、ですよね……あ……ただ」
緋音が、思い出したように顔を上げる。
「いつもと変わらない音が響いているのに、みなさんがお客さんの位置でわたしのことを見ているというのが……不思議な感じがしました。と言うより、少し、寂しかった……です」
「寂しい?」
「いつもなら、後ろに皆さんが居て……なんというか、背中を支えて、押して貰っているような気になっていたので」
「それだ!」
蓮美が弾かれたように声をあげ、緋音はびくりと驚いて飛び上がる。
「あ、いや、間違いなくそれってわけではないかもしれないけど……」
改めて考えてみれば、蓮美にも「そうだ」という自信は無かった。
でも、そもそも「歌うこと」に慣れていない緋音が「今まで歌えていた環境」との違いが何かを考えると、たどり着くのはそこだった。
「私の時と逆。もしかしたら緋音さんは、合奏――セッションでしか歌えないのかもしれない」
「なる……ほど?」
緋音は、納得したようなしないような、微妙な表情で首をかしげる。
ただ、無意識に何か腑に落ちるものがあった。みんなの支えなしに、たったひとりで音楽と向き合う――それは、とても恐ろしいことだ。普段の自分なら、絶対に足がすくんで動けなくなってしまうだろう。
仲間が支えてくれていたから、今までどうにか歌えていた。
そのことは、緋音自身にとっても目から鱗の事実だった。
「つまり……わたしは、どうすれば良いんでしょう?」
「ようは、ライブとできるだけ同じ状況でレコーディングが出来ればいいわけで……うーん」
できることはあるはずだと、蓮美は頭の中で「あーでもない、こーでもない」と絶えず考えを巡らせる。まだ答えは纏まっていなかったが、一歩前に進めそうな光明が見えた心地だった。
「とにかく、次集まった時にやってみよう。ダメだったら、また考えるってことで」
「……はいっ」
緋音もまた、少しだけ前に進めるような気配を感じ取り、精一杯に力を込めて頷く。一歩一歩。姉から言われた「最初の一歩」を踏みしめるつもりで。