その日、空が茜色に染まるころになって、緋音は自宅へと帰って来た。肩を落としてすっかり意気消沈した様子である。
(結局、歌えなかった……みなさんに迷惑をかけちゃいました)
思い出すと、思わず涙もこみ上げる。
いろいろ気を遣って貰ったのに、いざ本番となると喉がふさがれたように声が出ない。どうして。考えたところで分からない。こんなことは始めてだった。
もっとも、人前で歌うと言うこと自体が、バンドに入ってから初めてのことだったが。
「ただいま帰りました……」
「あら、お帰りなさい」
リビングから艶っぽい声が聞こえて、緋音は弾かれたように顔を上げた。心なしか、影の差した表情が晴れやかに華やぐ。
ローファーを脱いで部屋へと駆けこむと、ソファーに足を伸ばしてくつろぐ女性の姿がある。緋音をそのまま大人の色気を持たせて成長させたような姿は、東京でアパレルブランドの仕事につく彼女の姉だった。
「姉さん……! この間、東京に帰ったんじゃ……?」
「帰って残りの仕事を片付けて、今日からお盆休み。内勤になって、おかげさまで休みも取りやすくなってありがたいわ」
「内勤って……あれ、六本木のお店は……?」
「あら、言ってなかったっけ? この夏から晴れてデザイン部署配属になったって」
その言葉に、緋音はいの一番に駆け寄って、座る彼女の手を取りぶんぶんと振る。
「おめでとう……! 夢……でしたもんね!」
「ありがとう。ここからが本当に実力主義の世界だけれど」
「でも、姉さんならきっと大丈夫です……姉さんなら」
東京で輝かしい躍進を遂げる姉を前にして、緋音の表情に再び影が差す。引き換え自分は、仲間の期待に何ひとつ応えることができないのに……と。
「どうした緋音。二年生になって、ずいぶん遊び歩いてるって話だけど、浮かない顔して」
「あ、遊び歩いてません……! その、バンドを始めたので」
「そうそう、それ。この間、渋谷でライブやったんだって? 仕事さえなければ見に行ったのに」
「ええ……!? それは……見られるのは、ちょっと恥ずかしいです……」
「どうしてよ。見られるためにバンドやってるんでしょう?」
姉は、緋音の手を優しく解くと、アイランド型のキッチンへ向かいポットでお湯を沸かし始める。
「ハーブティーで良い? ちょうどお隣から、いつものオーガニックのを貰ったの」
「はい、いただきます」
緋音は、手を洗って食器棚からティーセットをふたり分取り出す。母親が趣味で集めているワンダーラストを目にすると、今日のマンションでの出来事が、さらに鮮明にフラッシュバックする。
耐えきれず、目じりに涙が浮かぶ。
「……バンドのみんなとうまく行ってないの?」
寄り添った姉が、緋音の頭を肩に抱き寄せて優しく撫でる。緋音は、サラサラの髪を振り乱して首を横に振った。
「違うんです……わたしが、迷惑をかけてばっかりで。今日もレコーディングなのに……わたしだけ録れず仕舞いで」
「レコーディング! へえ、最近は個人でもそういうのするのね」
「はい。動画をアップするのが、この夏の最終目標みたいです」
「じゃあ、今度こそ緋音の歌が聴けるのね」
微笑む姉に、緋音は申し訳なさそうに眉を下げる。
「今のままだと……それもどうなるか」
すっかり気落ちしてしまった妹を前に、姉は撫でていた頭をわしゃわしゃと乱暴にこねくり回す。
「クリスマスキャロルに出られなくて泣いてた緋音が、またこうして歌いたいってバンドに入ったんだもの。それだけで大きな前進じゃない」
「それは……そうかもしれませんが」
「周り、すごい人ばかりなんだっけ。だったら緋音は今、周りに手を引かれて階段を数段抜かしで駆け上がろうとしてるんじゃない? 緋音は緋音で、一段ずつ自分のペースで登ればいいの」
「わたしのペース……って、どんな……?」
「それは、緋音にしか分からない。でも、お姉ちゃんもお姉ちゃんのペースで夢を叶えた。周りと比べるなんて野暮よ野暮」
縋るように見つめる緋音に、姉はもう一度、安心させるように微笑む。
「何が必要なのかはいっしょに考えてあげる。私は、音楽のことはよく分からないけど、ヒントくらいは見つけられるかも」
「姉さん……」
緋音にとっては、大好きで尊敬できる姉。
小さいころからよく「人生に必要なものは全部姉にあげて、残った出がらし」なんて思って生きてきた。それで幸せだった。姉の活躍を自分のことのように喜んで、応援する日々で満足だと。
やりたいこともなければ、将来の展望もない。大学を出て、家の仕事の手伝いをして、両親の勧めで結婚して、家庭を築いて――それが、緋音が描いていた自分の人生の展望だ。姉も言った通り、何も成せない人間なのは、あれだけあこがれていた聖歌隊のクリスマスキャロルを歌えなかった時から変わらない。
あの時確かに、緋音は、自分に期待することをやめたのだ。期待すれば、失敗したときにショックを受ける。成功の喜びよりも、失敗の悲しみを防ぐ方が、小さな緋音には大事なことだった。だって、成功は姉の人生が与えてくれるから――
その時、ダイニングテーブルに置いていた緋音のスマホが震えた。
「ごめんなさい……ちょっと」
名残惜しい姉の温もりから離れて、緋音はスマホを手に取る。待ち受け画面に、蓮美からのメッセージ通知が残っていた。
――緋音さん、大丈夫ですか?
――明日、会えませんか。
もしかしたら、力になれるかも。
――でも、そこまで期待しないでください!
力になれることがあるかも、なくらいの気持ちでお願いします!
「お友達から?」
「……え? あ、はい」
「ふふ、嬉しそうな顔をしていたから」
そう言われて、緋音は頬に手を当てて、画面に反射した自分の顔を見た。
泣き出しそうだった顔が、いつの間にかむず痒いような控えめな笑みを湛えていた。
「緋音、前に進めそう?」
「進めるかはわかりませんが……進めそうな気はします」
「……良かった」
頷く緋音に、姉はちょっぴり寂しそうに笑む。
「緋音に友達ができて、本当に」
「姉さんが、大学デビューを手伝ってくれたからです……効果が出るのに、一年かかっちゃいましたけど」
「いいえ、緋音が一歩踏み出そうと思ったからよ」
そう言って、いつも後ろをついて歩くばかりだった、大事な妹の頭をぽんぽんと撫でるように叩く。
「頑張れ緋音。今度はお姉ちゃんが応援してるゾ」
「はい……!」
「だから、曲がアップされたら私にも教えること」
「う……はい」
見せるのは、いまだに恥ずかしいというか、自信がない。
けれど、これが自分の頑張った成果だと胸を張って見せられるぐらいのものを作りたい。
そう思えるようになっただけ、彼女は確かに前に進んでいるのだ。