収録が始まって二時間ほど。
何度かテストを行いながら、楽器演奏者の分の初録がひと通り終わった。
収録というものを初体験の面々は、四分程度の曲をガイド+四パート分収録するのに、掛かっても一時間程度だろうと思っていたのでおよそ倍の時間がかかっている。
ミステイクの撮り直しもあったが、収録を初めてからも細かい機材のセッティングやソフトの方の調整が行われ、楽器と演奏者ごとの最適解が決まるまでがとにかく長かった。
「本録りの時は、今日のセッティングをベースに微調整で済むだろうから、今日ほど大変ではないので安心してね」
すっかり疲弊した様子の蓮美と千春相手に、栗花落がフォローするように声をかける。ふたりは返事をする気力もないようで、手を上げ頷くだけで「わかった」と意思表示をした。
「しかし、涼夏さんは流石に慣れていらっしゃる。私のほうが助かってしまったぐらい」
「そりゃまあな。だが、個人にしちゃ随分本格的な収録だったな。サマバケの初期の動画とかスマホで一発撮りだったぞ」
「それもそれで、いい意味での素人感と青春の味が出るもの。ただ個人でも、良いものを突き詰めようと思ったら、最終的にはプロに迫らずとも遠からずな準備をするものよ」
「ごもっともで」
特に媒体が音楽の場合、機材や知識の充実さは作品に如実に出るものだ。楽器やマイクひとつとっても、必ずしも高いものが良いわけではないが、安いものは安いなりの音になる。
予算内でどこまでを突き詰め、どこまでを妥協できるのかは、常に付きまとう問題である。
「それじゃあ、最後にボーカルね。緋音さん、おまたせ」
「は……ひゃい!」
部屋の隅から素っ頓狂な返事が響く。
思った以上の時間待たされ、すっかり焦らされたところにようやく回って来た出番だ。誰が見ても解るほどに緊張している。
「緋音、もう一杯やっとくか」
涼夏が、口元でグラスを傾ける仕草をするので、緋音は慌てて手をぶるぶる振る。
「大丈夫です……! そもそも、ライブじゃないので……」
「なら良いけどよ」
他のメンバーが壁際に除け、部屋の中央には緋音とノイズカバー付きのスタンドマイクだけが勇み立つ。
軽く声を出して、音量のなんとなくの調整を済ませると、パソコンの傍に立った栗花落が手を上げる。
「それじゃあ、スタート」
「お……ねがいします!」
掛け声とともに、頭につけた重いヘッドホンから先ほどまで収録していた音源を重ねたバックバンドが流れ始める。機材が良いからか、本当に間近で演奏しているような錯覚を緋音は覚えた。
目を閉じれば、そこはライブのステージの上のような――
「――緋音さん?」
突然、ヘッドホンから流れる音声がブツンと途切れた。
はっとして目を開けると、栗花落が注意を引くように手を振っていた。
「入り、忘れちゃったかしら?」
「え……あっ! すみません……ぼーっとしてました」
「何だよそりゃ」
「うう、すみません……!」
気が付いたら、歌の出だしをすっ飛ばしてしまっていたようだった。
涼夏になじられて平謝りしながら、テイクツーが始まる。
(今度は、ちゃんと入らなくっちゃ……)
頭から再開した演奏に耳を集中して曲のリズムに身を委ねる。
大きく息を吸って、歌い出しに備えようとしたところで――不意に喉が詰まった。
「ゲホッ……ゲホッ……!」
「ちょっと、大丈夫?」
緋音が突然咳き込むと、栗花落はすぐさま曲を止めて彼女に駆け寄る。
水の入ったグラスを手渡された緋音は、咳が収まるのを待って、ひと口飲み込んだ。
「す、すみません……急に咽ちゃって……」
「大丈夫。落ち着いて。ベストな状態になるまで録り直しは何度でもできるから」
「はい……ありがとうございます」
何度か咳ばらいをして、喉自体に問題がないことを確かめる。
風邪はひいていないし、今ひいたような感覚もない。
もう一度だけ、喉を潤すように水を含んで、緋音はもう一度マイクの前に立った。
「すみません……お願いします」
栗花落が頷き、曲の再生ボタンを押す。
三度目のイントロ。流石にもう失敗するわけにはいかない。
緋音は、持てる全霊をかけて歌い出しに望む。みんなを待たせている手前、いつになく真剣な表情だった。
歌い出しは、家で何度も練習している。大事なところだから、スタジオで集まって練習する時も、何度も、何度でも。
いつも通りやれば大丈夫。何も問題ない……はずだったのに。
いざ入りの瞬間になると、喉が詰まったように声が出なくなってしまった。
「あれ……何で……?」
戸惑いが口からこぼれる。
普通に話す声は出る。なのに、歌声だけがどうしても喉を通ってこない。
流石に異変を察知した他のメンバーが、心配そうに緋音に駆け寄るか、駆け寄るまいか、踏ん切りがつかずに二の足を踏んでいる。
それを肌で感じ取ってしまったのか、歌声の代わりに、申し訳なさの涙がこぼれた。
「休憩にしましょう。長時間のレコーディングで疲れたでしょう?」
すぐさま、栗花落がメンバーを振り返って提案する。
特に反対する者はなく、代わりに、蓮美と千春が弾かれたように緋音へ駆け寄った。
「緋音さん、大丈夫? アメ舐める?」
「それより喉を暖めた方が良い。栗花落さん、お茶……いや白湯の方が良いかな?」
「ええ、もちろん」
千春に促されて、栗花落が部屋を出ていく。
その間際に、ドアのところで涼夏が彼女に何か耳打ちしたが、中央の三人は目もくれていなかった。
「すみません……なんだか、喉が変な感じで」
「風邪かな? 熱あったり……?」
「いえ、そういうのでは……」
「慣れない環境で緊張したか、疲れが出てしまったのかも。一端、深呼吸しておこう」
「……はい」
言われるがまま、緋音は大きく何度か深呼吸をする。
そうしている間に、栗花落がトレンチに湯気の立つカップを持って部屋へと戻って来る。
そこには、小さなショットグラスもひとつ添えられていた。
「ええと……RAiNさん、それは?」
「涼夏さんからって」
栗花落が振り返ると、壁際の涼夏があごでグラスを指し示す。
「やっとけ。二時間も経ってアルコールが切れたんだろ」
「そう……かもしれません。ありがとうございます」
緋音は、受け取った琥珀色の液体をじっと見つめてから、覚悟を決めて一息で煽る。飲み下してすぐに「ぽ!」っと熱い吐息を吐くと、添えられた白湯でちびちびと喉を潤した。
「なんか……あったかくて余計にお酒が回る気がしましゅ!」
「よーし、今のうちに行け!」
「ひゃい!」
緋音が力強く頷き返すので、収録は再会した。
出だしすら取れていないのだから、また同じくイントロからのスタート。
(お酒に背中を押して貰ったんだから……次はいける……はず)
アルコールで気が大きくなったせいか、先ほどよりも強い意志でマイクへと向かう。次こそはイケる。漠然とだか、自分なりの確信があった。
……はずなのに、結果は酷い有様だった。
気合で声は出しているのだろうが、力が入りすぎてほとんど怒鳴るよう。テンポも音程も取れて無ければ、元気だけが取り柄の幼稚園のお遊戯会か、野球の応援歌みたいだ。
聴いている一同は、居た堪れない様子で四者四様に頭を抱えた。
蓮美が、呆れつつもトゲのある視線を涼夏に向ける。
「涼夏さん……お酒、飲ませ過ぎたんじゃない?」
「はあ? 渋谷の方が飲んでたぞ、アイツ」
「じゃあ、お湯と一緒ってのが良くなかったのかな」
「おそらく、そう言うのでは無いかと」
栗花落が録音停止のボタンを押して口を挟む。
「おそらくだけれど、彼女、歌う環境に拘りがあるようね」
「拘りだぁ?」
「もっと言えば歌える環境に、でしょうけど」
栗花落もいくらか困ったような顔で、緋音を見やる。
ヘッドホンの音楽はまだ止めていないのか、緋音は録音されていないとも知らずに、顔を赤くして一生懸命に歌い続けていた。