翌日、バンド一向の姿は、栗花落が住む市内マンションの一室にあった。
かつて蓮美が涼夏を迎えに来たド深夜には、そびえたつタワーが魔王の城か何かのようにすら思えたが、日の高いうちに訪れてみればホスピタリティの高い高級ホテルのような佇まいに思えた。
涼夏が散々飲み散らかした後だった薄暗いムーディーなリビングも、すっかり掃除が行き届いているうえに、大きなグランドピアノの向こうには、壁一面に備え付けられた巨大な窓ガラスを通して、夏の豊かな日差しを受ける市街の様子が一望できる。
「改めて見ると、すごいお部屋……家賃高そう」
「うふふ、それなりに稼いでるので。特に防音性を最大限に重視すると、どうしても高いお部屋になってしまうから」
つい零れ落ちた蓮美の感想に、栗花落がにこやかに答える。
本業のフロアレディの収入に加えて、動画投稿チャンネルのインセンティブも得ているであろう彼女は、二十代に足を踏み入れたばかりと言う齢でありながらどれだけの収入を得ているのか、蓮美たちには想像もつかない。
ただ、普段の身なりや部屋の調度品のセンスを見るに、ここ数年突然小金持ちになった成り上がりというよりは、昔からそれなりに裕福な環境で育ったのであろう様子が伺える。
「まずはお茶でも……と言っても、こんな暑い時に飲めるのはぬるく入れたお茶かお酒くらいしかありませんが」
と口にしつつ、栗花落はさっそくカップを並べてお茶の準備を始める。
すると、緋音がわっと色めき立った。
「ティーセット、ワンダーラストなんですね……!」
「ええ。見てるだけで、華やかな気分になれるから。その日の気分で柄を変えたりして」
「そうなんです……! 我が家でも、特に母がお気に入りで、ほとんど趣味で全シリーズ集めてて……家と同じもの使ってくださってるの、なんか感激です……!」
(ワンダーラスト……?)
聞きなれない単語を横耳に、蓮美はスマホで検索をかけてみる。
おそらくは食器のことだろうなと思って、何気なく販売サイトらしきものを開いてみるが、そこに並んでいた値段を見て仰天した。
「い……いちまんごせんえん!? カップとソーサーだけで!?」
「わっ……ここに並んでるもの全部合わせると、ざっと十万くらいするね」
千春が横から画面をのぞき込んで、机の上の商品とカタログとを見比べて指折り皮算用する。
「比較的リーズナブルな方だから、そこまで驚かなくても……ねぇ?」
「は、はい……マグカップとかならお小遣いでも買えますし」
「それでもマグカップ五千円……」
さらりと言ってのける美女ふたりをよそに、蓮美はアパートで使っている百均で買った猫柄のマグカップのことを思い浮かべる。あれもあれで、春先に新居のものを買いそろえる際に「かわいい~♪」なんて喜んで購入したものだったが、当たり前に染みついた庶民感覚に凹んでしまう。
そんな蓮美をよそに、断りもなく部屋の中をぶらぶら闊歩していた涼夏は、リビングに置かれたガラス張りのリカーラックを見つけて小さく笑む。
「良いモンあんじゃねーの。これブランデーだろ?」
「ええ、涼夏さんはお酒の方が良いかしら?」
「いや、緋音のやつを〝ロワイヤル〟にしてやれ。ブランデーしみしみでな」
「え……!? いえ……すき、ですけど……しみしみは……」
「今からレコーディングだろ。
ティーロワイヤルは、ざっくり言えば紅茶にブランデーを混ぜる飲み方だ。
厳密には角砂糖にブランデーをしみこませて、火をつけてアルコールを飛ばした後に混ぜるわけだが、涼夏の言う「しみしみ」は、アルコールが残るくらいという意味だ。
そのアルコールの力が、ボーカルである緋音には必要なのである。人目を気にせず声を張るには、酒の力を借りて気が大きくならねばならない。
「うう……いただきます」
緋音もそれを理解しているので、ソファーの端で縮こまりながら頷く。
その後すぐにお茶が振舞われて、飲みながら今日の進行についての確認となった。収録に関しては、機材を持っている栗花落がほとんど主導権を握る形となる。
「バンドの場合、収録方法は大きく『いつも通り演奏しているところをそのまま収録してしまう』か『個別に収録したものをPC上で合成するか』の二パターンがあるの。今回は、動画サイトにアップするのが目的なので、後者の方がパートごと個別にミキシングできてオススメかしら」
「プロのレコーディングと同じだな。だいたい、ドラムやベースのリズム楽器を先に録って、それをヘッドホンで聞きながらメロディー楽器やボーカルを重ねていく」
「つまり、ひとりで演奏するの?」
「そうなる」
涼夏が当たり前のように頷くので、質問した蓮美は急に緊張しはじめた。
蓮美や千春、そしてもちろん緋音にとっては、初めてのレコーディングだ。個別に練習することはあっても、本番をひとりで演るというのは、それこそ大編成の吹奏楽に慣れ親しんだ者たちにとっては、いつもと違ったプレッシャーを感じる。
「まあ、心配よね。だから、今回は先にガイド音源を撮るのはどうかと」
「ガイド音源?」
「もうひとつの『いつも通りみんなで演奏してるところ』を収録して、それを聞きながら個別の収録をやって貰うの。そうしたら、いくらか、いつもと変わらない気分で演奏できるでしょう?」
「それなら……確かに」
ひとつひとつ重ねるのではなく、全体の音が乗ったガイドがあるなら、まだマシなのだろうか。未だイメージがつかない収録の全容を前にして、不安が全く取り除けたかと言うと嘘になる。
そんな内心を読み取ったように、栗花落が笑みを湛えた。
「今日は、お試しのつもりで良いですよ。録音した音源がどのようになるのか、みなさんに聞いてもらうのが目的ですから」
それから、メンバーは栗花落の家にある防音ルームへと通された。普段の動画投稿活動でも使用してあるであろうその部屋は、八畳程度の間取りにマイクやエフェクター、アンプ、主に電子式をメインとした各種の楽器、そして作業用と思われるPCが所狭しと押し込められていた。
「電子ドラムもあるんですね」
千春が、真っ先に目に付いた電子ドラムセットに歩み寄る。普段使っているリアルのドラムと違い、音を電子データとして出力するそれは、見た目だけならゲームセンターにあるドラム型リズムゲームの筐体によく似ている。
「それは、必要かと思って買っておいたものよ」
「え、わざわざ?」
「私も、自分の作業用にそろそろ欲しいなと思っていたので。良ければ今度、叩き方、教えてくださいます?」
「ええ、それはもちろん」
「サックスは、自前ので演奏して良いんですよね?」
「ちゃんと防音してあるので大丈夫。音はマイクで拾うので、できれば立ち位置だけ動かないで貰えれば。座った方が良ければそれでも」
言いながら、栗花落は壁際に並べてあったスタンドを引っ張り出して、マイクやコードのセッティングを始める。慣れた手つきは、レコーディング会社のスタッフか、ライブハウスの店員のようだ。
「涼夏さんは、本番は直接インターフェースで取り込みにしますけど、今はスピーカーから出しますね」
「おう」
「ドラムもスピーカーを通さなければならないので、音の聞こえ勝手が変わると思うので気を付けてください」
「分かりました」
「あ、あの、わたしは……?」
着々とメンバーの準備が進む中で、緋音が身を乗り出して尋ねる。憧れのシンガーの作業部屋だからか、それとも先ほど飲んだ『ひたひたティーロワイヤル』のおかげか、赤ら顔で興奮する姿にはやる気が満ち溢れている。
栗花落は、もひとつにこりと笑みを浮かべて、彼女の肩に優しく触れた。
「緋音さんは、一旦お休みよ」
「え?」
「ごめんなさいね。今の形式だと、実際のあなたの声と、スピーカーから出る声とで二重に録音されてしまうから。かと言って、スピーカー通さないと声量が足りないし」
「ああ……そう、ですよね」
珍しく気合が入っていた分、「最初はいらない」と言われた気分で緋音はすっかり落ち込んでしまう。
「バックバンドを録り終わったら、それを聞きながらボーカルを撮ってはめ込むから。その方が、綺麗にミックスできるから、任せて」
「RAiNさんがそう言うなら……はい」
任せて、の言葉で緋音も納得が言ったのか、寂し気な笑みで頷いて、壁際に置かれたスローンに腰かけた。
こうしていると、はじめてバンドのスタジオを訪れた時のことを思い出すようだった。あの時も、まだ入るかどうか決めかねていた緋音は、部屋の隅の椅子に座って、涼夏たちの演奏をただ聞くばかりだった。
「それじゃあ、一度録ってみましょうか」
収録ソフトの準備なども終えた栗花落が、持ち場であるキーボードの前に立って千春を振り返る。準備が整ったのを見計らって、千春のスティックが打ち鳴らされた。