夏でも朝夕は過ごしやすいというのは、もう過去の話だ。まとわりつくような湿気のせいで、朝から晩までミストサウナにいるような気分になる。しかも、音が漏れないほど密閉された地下のスタジオともなれば、なおさらだ。
汗だくでリードから口を離した蓮美が、あごに伝った大粒の汗を拭う。
「涼夏さん、クーラーの温度もう少し下げない……?」
「馬鹿野郎。音は空気の波だ。エアコンで引っ掻き回すんじゃねぇよ」
「そんなに変わらないと思うけど……」
「違うんだよ。なんか、微妙に。涼みたい時は店に上がっとけ。ぶっ倒れられんのは困るしな」
そう言う涼夏も、大量の汗がシャツに沁み込んで、絞れそうなほどにずぶぬれになっている。特に、高い技巧を要求されるフレーズが好きな彼女の演奏はハードで、ダイナミックで、見ているだけでも立ち上る熱気を感じる。
栗花落が作った新曲はバラードで、サマバケ時代や『FIREWORK』に比べれば随分と大人しい。しかし、弦一本一本に魂が籠っているように力強く響く。
「涼夏さん、今回はもうちょっとしっとり行った方がいいような気がするんだけど、どうかな」
首元の汗をタオルで拭う千春に、涼夏はげんなりした顔でため息を吐く。
「しっとりだぁ? 湿っぽいの苦手なんだよ」
「サマバケの時もバラードはあったと思うけど?」
「やってても苦手は苦手だ」
言われて、彼女は当てつけのように情感たっぷりに演奏してみせる。
しかし、しっとりというよりは、なんだか重い。過ぎ去った恋を偲ぶどころか、後を追って海にでも飛び込んでしまいそうな高ぶりを感じる。
「涼夏さん……それは何か違う。重力を感じる」
「重力って何だよ」
「なんか……ウラミハラサデオクベキカって感じ」
「あら、そういう解釈でも良いわねぇ。納涼って感じで」
話を聞いていた栗花落が、嬉しそうにしながらしなやかな指をキーボードに走らせた。なめらかで優雅な身のこなしから、ホラー映画で流れそうな戦慄のメロディが奏でられる。
「どっちかと言うの火サスとかの方が良いんじゃないかな」
「あはは、確かに鬼気迫る感はあるかも」
「テメーら、ケンカ売ってんなら買うぞ?」
いつも通り仲のいい蓮美と千春に、涼夏は喧嘩ごしでガンを飛ばすも、すぐにスゴみを解いて呆れたように鼻を鳴らす。
(つっても……あいつらの話も一理ある)
ネックを握りしめて、ムスタングのボディを見下ろすと、いつもと変わらない輝きがそこにある。ベースも、自分も、何も変わらない。
だと言うのに何かしっくりこない。
バラードが苦手だとか、そういう次元の話ではない何かが。
「ところで、そろそろ撮影スケジュールを考えたいのだけど」
呼吸の間を縫うように、みんなの意識がふっと途切れた瞬間に栗花落の声が響いた。
すると、「ひゃっ!」と別の悲鳴があがる。
「RAiNさんのスタジオ……!」
「スタジオというか、ただの自宅ですが」
「尚更感激です……!」
「緋音、メンバーにミーハーすんなよ。それに撮影っつっても、まだ曲が完成してねーだろ」
「一度、試し撮りをしてみたいなと。みなさんも、ぶっつけ本番より、慣れておいた方がいいでしょう?」
「撮影かぁ……ちゃんとしたのは初めてだから、緊張しちゃうかも」
「コンクールとかで録音はされたことはあるけど、ついでみたいなものだから意識するどころじゃないしね」
録音と収録は、彼女たちのバンドが新曲の発表手段として選んだ方法だ。
自分たちの演奏を動画にして配信サイトにアップする。
ライブや路上で演奏することばかりが音楽活動の場ではなく、昨今では重要な発表手段のひとつだ。
現に栗花落も『RAiN』名義で名の知れた音楽配信者だ。そんな彼女が居たからこそ、今回の計画も持ち上がったのだ。
「準備するのはいいが、まだ肝心なモンが決まってねーんだぞ」
そんな中で、大きな問題がふたつあった。
ひとつは、新曲が無いこと。これは栗花落の加入によりクリアされた。
そしてもうひとつ――
「バンド名の案は出ささせたけどよ、何だありゃ」
「それは……涼夏さんが、無理矢理捻りだせって言うから、捻ったんだけど」
「だからと言って何でも言い訳がねーだろ」
「そういう涼夏さんのは、どうなの?」
責められてムッとする蓮美が恨めしそうに見つめるので、涼夏はバツが悪そうに視線を外す。
「……あたしは元々、向いてねーんだよ」
「すぐそれだー! 私だって向いてないのに!」
「お前最近、あたしに当たり強くないか?」
「涼夏さんは、それくらいでちょうどいいって分かったんです!」
「ったく……とりあえず罰金な」
「どーぞ!」
バチンと貯金箱に叩きつけるように百円玉を投入する。
罰金箱のヘビーユーザーである蓮美は、最近は悪い意味で慣れて来たようで、練習の際は常に百円がぎっしり入ったコインケースを持ち歩いている。どうやら敬語を強制するより、罰金を払っても言いたいことを言う方がいいと吹っ切れたようだった。
「なら〝サマーバケーション〟はどうやって決めたんですか? いいバンド名だと思いますけど」
「確かに、単純な言葉なのに青春のフレッシュさとパワーが溢れてるよね」
千春も同意しながら涼夏を見るが、涼夏は尚も顔を逸らせたままだ。
その態度に、蓮美は余計にムスッとした顔でため息を吐く。
「どうせ向日葵さんなんでしょ」
「いや、ヤツじゃねぇよ」
「ホントかなぁ。後で聞いてみよ」
「後でって、そんな日常的に繋がってんのか、あいつと」
「別にー」
今度は蓮美の方がそっぽを向いたので、涼夏も観念したように頭を掻いた。
「海月って――スリーピースのもう一人だよ。得意だったんだこういうの」
「こういうのって、名前考えるのですか?」
「ああ。バンドの名前考えんのも、曲の名前考えんのも、あいつがやってた」
「そう言えば、『FIREWORK』ってサマバケの曲だったにしては、なんか固い曲名だね」
言われて、千春が「なるほど」と頷く。
サマーバケーションというフレッシュな名前そのままに、曲名も若々しくエネルギッシュなきらめきに溢れたものが多かった。そこから放たれるハードロック気質のアグレッシブな演奏が、当時のバンドの持ち味だったと言っても過言ではない。
「向日葵は、今のイクイノクスもそうだが、典型的なアメリカンハードロック気質なんだよ。ソトヅラの良い部分は、だいたい海月のヤツが整えてたな」
「サマバケのドラマーかぁ。ぜひ話を聞いてみたいね」
千春が爽やかな笑みを浮かべると、涼夏は「うげっ」と顔をしかめる。
「やめとけ、やめとけ。ありゃ、頭の中はお花畑な女だ」
「なるほど、涼夏さんが苦手なタイプと」
「そんなんじゃねーが……まあ、ドラムの腕は確かだ」
「じゃあ、向日葵さんが曲を作って、その海月さんが名前を決めて、涼夏さんは何をしてたの?」
意地悪な蓮美の質問に、涼夏はまたバツが悪そうに顔を背けた。
「……あたしは、ベース一筋だからよ」
「向日葵さんもギターとボーカルやって、海月さんだってドラムやってるじゃないですか。うすうす思ってたけど、涼夏さんって音楽のこと以外無能――」
「あ?」
涼夏の鋭い眼光に、蓮美も流石に軽口を止めて肩をすくめる。
「ふふ。蓮美ちゃんは、涼夏さんに構って欲しいのよね」
栗花落が意味深に笑んで、今度は慌てて首を振った。
「ち、違います! てか、いつの間にちゃん」
「どちらかと言えば、さんよりはちゃんかなと」
「まあ、いいですけど……でも、構って欲しいとかは違いますからっ! 私は、事実を言ってるわけで」
「とりあえず……バンド名はまた宿題にして、今はできることをひとつずつやっていきましょう」
「RAiNさんのご自宅ですね……!」
「緋音も、栗花落の話時だけ元気になるんじゃねぇよ。普段からそんぐらいで来いよ」
「す……すみません」
興奮気味の緋音を窘めてから、涼夏は不機嫌そうに弦を弾いた。
ムシャクシャしていても、音だけは実直に響いていた。