およそ三〇分後。ふたりは見慣れた楽器店の三号スタジオに立っていた。いつもなら四人――いや、今は五人集まるこの場所も、ふたりだけでは少々広く感じる。
「ブラックバード……ふん、悪くねぇな」
「展示用の私物だよ。壊すんじゃないよ」
店員のタツミに押された念を聞いてるのか聞いてないのか、見慣れないベースをアンプに繋いだ涼夏が、先ほどから音の調子を確かめている。
真っ黒なボディに長いネックが特徴的なブラックバードは、いつも彼女が愛用しているフェンダーのムスタングに比べて随分と攻撃的なフォルムと音をしていた。
「涼夏さん、ほんとにやるの?」
「なら、何のために来たんだよ」
「そうは言っても、何をどうしたら良いのか、私」
とりあえずドラムセットの前に座ってみるが、千春には何をすれば答えにたどり着くのかよく分かっていなかった。
「とりあえず、自分が一番気持ちがいい演奏すれば良いんじゃね?」
「毎回、気持ちがいい事には気持ちがいいですけど」
「足りてねーんだよ。もっと来いよ。精魂尽き果てるまでさ」
「はあ」
来てしまったし、言われたからにはやるしかない。ついでに新曲の練習と思って、千春はドラムを叩き始める。
ベースとドラム。
バンドの中では「リズム隊」とも呼ばれる、曲の屋台骨を支えるふたり。ゆったりとしたバラードの曲調に身を委ねると、なんだか穏やかな心持になってくる。
(気持ちが良いんだよ。ドラムを叩くこと自体は)
音楽が嫌いなわけじゃない。
ドラムが嫌いなわけじゃない。
それでも、どこか満たされない想いがあるのは、千春にとって音楽とは、自分のためにあるものではなかったからだ。
――千春がどうしてそこまで、後輩のケアに力を入れてたのか。
――何にそんなに気を遣ってたのか、分からなかった。
言わなかった。
いや、言えなかった。
同級生である彼女に言ったところで理解されるとも、最悪、怒りを逆撫ですることにもなりえた。
だから相談もできず、人知れず、千春は千春なりに高校三年間を過ごして来たのだ。
「ダメだな」
曲の途中で、涼夏がおもむろに演奏を止める。
釣られて千春も手を止めると、涼夏は軽快なリフを準備運動のように奏でてから、改めて弦に指を走らせる。
重厚なボディブローのようなハードリフ。
渋谷のライブで披露した『FIREWORK』のひと幕だ。
「やっぱこっちのが指に馴染む」
「涼夏さんの趣味的にはそうだろうね」
「栗花落の新曲も悪くねーけどよ。スカッとしたいときはこういう曲だよな」
「私はわりと、どんな曲でも楽しく叩けるかな」
「だったらバシッと決まるヤツ、叩いてくれよ」
「そうだねえ」
涼夏のリフに、千春も途中からストロークを合わせて叩き始める。
確かにハードロック気味の局長が激しい『FIREWORK』は、涼夏の気性にピッタリだろう。
(後から聞いたことだけど、この曲が涼夏さんのための曲だってのも頷ける)
ほとんど無意識のレベルで叩けるくらい身体に馴染んだストロークだったが、不意に涼夏が曲のテンポを上げた。BPMばかりではない、細部に細かいアレンジが施され始める。
(わっ、ちょっと……!)
千春は、慌てて順応すべくストロークのスピードを上げる。テンポが上がったくらいで叩き損じることはないが、急かされるようなリズムで前のめりな演奏になる。
何事かと涼夏のことを伺ったら彼女は挑発するように鼻で笑い、さらにしっちゃかめっちゃかな――しかし、パフォーマンスとして完成されたスラップ奏法を放つ。ドラムを喰うような細かな音の粒の嵐に、アンサンブルはほとんど涼夏の独壇場だ。
(やっぱり、この人の演奏凄いや……蓮美ちゃんが惹かれるのも分かるよ)
いいや、そんな事、改めて考えるでもなく分かっていた。
自分に無い物。ある種の情熱――バンドの一番になってやるという覚悟が、彼女の演奏にはまざまざと表れている。
千春が忘れた物。
中学時代に置いてきたもの。
(涼夏さんの背中を追いかけたら、少しは取り戻せるのかな)
ドラムは、常にメンバーの背中を見て演奏する。
このバンドで叩いていれば、嫌でも涼夏と蓮美という、ふたりのトッププレイヤーの演奏を目の当たりにする。
こちらを振り返ることなく、そのまま置いていかれてしまうような錯覚。
それを振り払うように、千春はスティックに力を込めた。
涼夏のタッピングに対抗するように、右手はアップダウンで音の粒を増やす。ワンストロークで二度ドラムを打つというチートじみた奏法だが、この辺りは中学時代にしっかりと習得している。
しかし、数だけでは涼夏には敵わない。さらに腕の回転を加えたモーラーで、音の強弱をもって彼女の存在感にギリギリまで迫ろうと試みた。
しかし、その程度で良いようにされる涼夏ではない。スラップを、両手でネックの弦を叩くタッピングに切り替え、さらに細かな音の波状攻撃を仕掛けた。
ここまでくると、多少、両者の額に汗が滲む。特にほとんど全身運動と言って良い千春は、息も弾み始めていた。
(もう一歩、食らいつけ……ってことだよね)
千春は、スティックを口にくわえると、足元のバズドラムで場を繋ぎながらいそいそとジャケットを脱ぎ捨てる。それから改めてスティックを、ジャズやマーチングバンドなどでよく使われるペンを持つような握り――トラディショナルグリップに持ち替え、さらに一打の回転数を上げた。
不敵な笑みで余裕を見せる涼夏に対して、千春は出せるものを全て出し切ってのいっぱいいっぱいだ。それでも喰らいついて見せているのは、万年B編成だったとしても、自分の練習を欠かさなかった積み重ねによるところに他ならない。
音楽が嫌いなわけじゃない。
ドラムが嫌いなわけじゃない。
ただ、彼女の〝吹奏楽〟にとって、何が大事かが周りの仲間たちと違っただけ。
いつの間にか涼夏が演奏を止め、千春だけが一心不乱にドラムソロを叩いていた。長身の彼女から放たれる躍動感あるドラムストロークは、相応の迫力と存在感で、聴く物を目と耳の双方で未了する。
やがて力強い一打で演奏を締め、汗だくの顔をシャツの袖で拭いながら、千春は天を仰いだ。マラソンを走った後のように、肺がぎゅっと締め付けられ、喉を熱い吐息が吹き抜ける。
喉もからからに乾いていたが、それが少しだけ気持ちよかった。
「――誰も欠けて欲しくなかったんです」
絶え絶えの息で、彼女はぽつりと溢した。
「蓮美ちゃんみたいに……環境のせいで音楽が嫌いになる人が、出て欲しくなかったんです」
「あいつは、別に音楽は嫌いになってなかっただろ」
「結果的にですよ。誰もが、涼夏さんたちのように強いわけじゃない。吹奏楽部って居場所が必要な子達も大勢いるんです。実力主義の強豪校だったからこそ、そういう場所を大事にしたかった。結果として、私の成果が残せなくても――」
そこまで言って、千春は上を向いていた視線を涼夏の方へ戻す。泣き出しそうな顔をしていたが、その実、大粒の汗に紛れてとっくに涙は流れていたのかもしれない。
「でも、それ以上に悔しいのは、涼夏さんが蓮美ちゃんにまた吹かせたことです。私はただ、誰でも与えられる〝優しさ〟で、彼女に寄りそうことしかできなかった。彼女は本当は吹きたかったのに、吹かない方がいいって。苦しむくらいならと勝手に決めつけて」
「……まあ」
千春の言葉をかみ砕くように頷いて、涼夏はツンと澄ました顔で答える。
「テメーには無理だったろうよ」
「……でしょうね」
「だが、蓮美はてめーの腕を信用してバンドに引き入れた。あいつは、てめーの音楽が必要だと思った。あとは、それに応えりゃ良いだけだろ」
「あ……」
与えることに精一杯で、これまでずっと見ないふりをしていた「必要とされる」こと。他の誰でもない「自分の音が欲しい」と言われること。千春が、元部長たちの言葉を受け入れられなかったのは、その部分が大きく欠落していたからだ。
しかし、吹奏楽部を引退して、改めてひとりの演奏家としてバンドに必要とされて、ようやくそのことがどれだけ嬉しくて、ありがたいことであったかを思い出す。
強豪の中学で毎日泣きながら練習をして、蓮美と一緒にようやくA編成という承認を得た時の喜びを――
「さっきの演奏なら文句なしだ。ウチのバンドでドラムを叩くべきヤツは、テメーしか居ねぇ」
――今、ようやく思い出した。
「私が叩きます。私に叩かせてください」
そう言って笑う千春の目じりには、今度こそ汗とは見まがわない、本物の涙が滲む。喜びで溢れる涙は、悲しみで溢れるそれよりも、陽だまりの温もりのようにあたたかい。
「つっても、今のところはだからな。腕磨けよ」
「はい。もちろん、分かってますよ」
涙を拭って、千春は改めて苦笑する。握りしめたドラムスティックは、これまでに比べて随分と軽くなったような気がした。
その夜、クラブで指名待ちをしていた栗花落のスマホに、一通のメッセージが入った。すぐさま通知タブをタップしながら、彼女は愉快そうに微笑む。
「ふふ、喜んで」
改めて視線を送るメッセージ本文は、短い言葉で綴られていた。
――新曲の譜面、ランクアップしたものでお願いします。
たったそれだけの文章に、吹っ切れた千春の想いが存分に込められていた。