「本日は、当旅館をご利用いただき誠にありがとうございます」
座敷のテーブルを囲むバンドメンバーを前にして、和装に身を包んだ女将――涼夏の母親が、凛とした佇まいで頭を下げる。
「当館の女将であり、涼夏の母です。いつも娘がお世話になっております」
「余計なこと言うんじゃねーよ」
涼夏が気だるげに野次を飛ばすと、女将は鋭い目つきで彼女のことを睨む。
「普通なら、涼夏には配膳やら手伝って頂くところですが」
「あいにく、ちゃんと金払ってる客だからテコでも働く気はねーぞ」
「せめて、ご友人に粗相のないよう、たっぷりとくつろいで頂きなさい」
「おう」
ひとしきりの挨拶を済ませて女将が部屋を出ていくと、入れ違いに食事の配膳が進む。部屋食つきの日帰り入浴コースは、高級宿であろう涼夏の実家においても学生の懐に優しいリーズナブルな価格であったが、食事の方は宿泊客と謙遜のない手の込んだ鉢が並んでいた。
旬の食材を使った突き出しのプレートから始まり、茶わん蒸し、お刺身、てんぷら、椀物、小鍋の牛しゃぶ、〆のご飯にみそ汁と続く。
女所帯で少々量が多いかと思われたが、みな思いのほかするすると胃袋に収めていき、全部たいらげたころにはお腹も心もすっかりと満たされていた。
「はあ……幸せだねえ」
少しだけぽっこりとしたお腹を撫でて、千春が至福のため息を吐く。
「お前、図体のわりに意外と小食だよな」
「ええ、まあ、昔からあまり食べる方ではなかったので」
「の割に、それだけ育った栄養はどっから来てるんだ」
「まあ、沢山寝ることとか? いつも十時にはベッドに入ってるよ」
「十時!?」
信じられないものを見る目つきの涼夏に、千春は乾いた笑みを浮かべる。
「そうは言っても、寝付くのに一時間くらい掛かるけどね」
「それでも十一時か……道理で、バスで爆睡するわけだ」
「それはお見苦しいところを」
涼夏がグラスのビールをひと息で飲み干すと、すかさず向かいの席の栗花落がビール瓶を差し出して、おかわりを注ぐ。
その様子を、蓮美が隣でじっとりと見つめる。
「この間も、そうやって飲ませたんですか?」
「これでも相手のペースを見極めている方ですよ。仮にもプロですから」
栗花落は、のらりくらりと交すような笑みを浮かべて、自分の日本酒のおちょこを傾ける。
「その日本酒……どんなお味ですか?」
「緋音さんも飲んでみます? おちょこ余ってますし」
「い、良いんですか?」
おずおずと差し出された猪口を受け取った緋音は、ごくりと生唾を飲み込んでから、ひと息に中身を煽る。涼夏が、面白がって囃し立てるように手を叩いた。
「そうそう。酒ってのはそうやって飲まなきゃ」
「涼夏さん。ライブハウスの時もそうだし、あんまり緋音さんに変な飲み方教えないでよ」
「変じゃねーよ。礼儀作法ってやつだろーがよ」
蓮美のお小言は、ほろ酔い状態の彼女にさらりと流されてしまった。
まだひどい有様にはなっていないしいいかと、蓮美も諦めて暖かいお茶の湯飲みに手を付ける。
一連のやり取りを見て、栗花落はクスクスと笑みを湛える。
「渋谷でのライブの話、もっと聞きたいですね。他にも、みなさんの普段の話とか。今日はそのために用立てて頂いた会ですし」
「あ? つっても改めて何を話したもんかね」
「何でもいいですよ? 勉強してること、趣味、ご家族のこと、ああコイバナでも構いませんよ」
蓮美が、飲み込みかけた熱いお茶でむせ返った。
千春が慌てて布巾を差し出す。
「お前、何やってんだよ」
「蓮美ちゃん、大丈夫?」
「ごめん、ちょっと咽た……」
浴衣にこぼれたお茶の染みを付近で叩き落としながら、蓮美は大きく咳ばらいをした。
「恋……してみたいれすけど、相手はいないし、怖いし」
赤ら顔の緋音が、ぽわぽわした様子で呟く。
「あら、美人さんなのに勿体ない。てっきり毎日のように告白でもされているのかと」
「とんでもないれす! 友達すら、みなしゃんしかいないのに……ともだち、えへへ」
自分で口走った言葉に、自分で照れる緋音。微笑ましそうに見つめていた栗花落は、彼女の頬に手を差し伸べ、そっと撫でる。
「じゃあ、私としてみます?」
「ひゃい?」
「してみたいだけの恋ならば、お相手は誰でも良いのではないですか?」
「え? え?」
「それとも、私じゃ物足りないでしょうか?」
「ちょ、ちょ、ちょ、すとーっぷ!」
慌てて蓮美が間に割って入り、栗花落と緋音を引きはがす。
「なななな、何やってるんですか!?」
「何って、口説いていたんですが」
「くど……」
大真面目な顔で返されて、蓮美は面食らって固まってしまう。
栗花落は不敵に笑んで、風呂上りの熟れた唇を指先でなぞる。
「渋谷のライブ、見させていただきました。とても素晴らしい演奏でした。ただ、物足りないところもいくつかありました」
「ほう?」
それまでどうでも良さそうに天井を見上げていた涼夏が、興味を持って半身を乗り出す。
「うちのひとつは、やはりボーカルの表現力ですね。花火に乗せて散る恋なのに、あなたの歌には恋を感じない。有体に言えば、キュンキュンしないのです」
「きゅんきゅん……?」
緋音が、いっそう赤らめた顔で首をかしげる。
「ならば、手っ取り早く恋のひとつでもしてみてはどうかと」
「その……そういうのって、誰でもいいからするものではないと思いますけど」
「あら、どうしてでしょう?」
口ごもりながらも意見する蓮美に、栗花落は目を丸くした。
「誰でも良いから恋をしたいは、至極普通の考えだと思いますよ。最近は、アプリで気軽に恋人を作れる時代ですし。一目惚れもあれば、ゼロ日婚なんて言葉もあります」
「そういうんではなくって」
仮に一目惚れだとしても、そこに「惚れた」という強い感情があるものだと、そういうことを口にしたかったが、上手いこと言葉が出てこない。黙ってしまった蓮美を諭すように、栗花落が優しく声をかける。
「むしろ、こうしなければならないと縛られる必要なんてないんじゃないですか? それがロックンロールというものでは?」
「たしかに」
今日一番力強く涼夏が頷いた。ほろ酔い気分の彼女は「それがロックンロール」の辺りしかちゃんと聞いてなかったが、それでも蓮美にとっては納得せざるを得ないだけの後押しをされた気分だった。
「まあ……別に、私である必要はありませんが。もし興味があるなら、いつでもお相手いたしますよ」
「ふあ……考えておきまふ」
緋音は俯いて、そのまま動かなくなってしまった。おそらく恥ずかしさが極みに至ったのだろう。
そんな彼女を捨て置いて、栗花落は今度は千春に視線を向ける。
「あなたも、中高では人気があったのではないですか?」
「慕ってくれる友達は、まあ多かったですけどね」
千春は、やや自虐的に苦笑する。
「そういう関係はありませんでしたよ。というか、そういうのは疲れてしまいまして」
「ああ……千春ちゃん、女の子に大人気だったけど、千春ちゃんのファン、結構厄介な子が多かったもんね」
中学時代の彼女を思い出した蓮美が、思わず口を溢す。
「独占欲が強いって言うか、同担拒否みたいな子ばっかりだった気がする」
「あはは……根は良い子達なんだけどね。邪険にするものでもないし、ほどよい距離感を掴むのは苦労したよ」
「ふふ、なかなか愉快な思春期を過ごされたようで。それで――」
栗花落の海のように深い色の瞳が、蓮美の表情を捉える。
「蓮美さんは?」
真っすぐに見つめたその瞳に、自分の内側を丸裸にされたような気分になって、蓮美は思わず視線を逸らしてしまった。
「ない。ないですよ。中学は部活漬けだったし、高校は友達いなかったし」
「今は? 大学なんて、出会いが沢山ありそうじゃないですか」
「大学入ってすぐに涼夏さんに出会っちゃったから、そんな暇ありませんよ」
「あたしのせいかよ」
「そうは言ってませんけど」
蓮美は、バツが悪そうに口を尖らせる。
その様子を見て、栗花落は目を細めた。
「ふふ、ありがとうございます。みなさんのこと、少し分かった気がします」
「おいおいおい、待てよおい」
話が締まるかと思ったところで、涼夏が手を振り上げて話を遮る。
「あたしには聞かねぇのかよ」
「あら、てっきり四六時中ロックに恋をしているものかと」
「うーん……たしかに!」
先ほどよりも力強く頷いた涼夏へ、みな苦い笑みを浮かべるばかりだった。