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第39話 湯煙エチュード

 満点に開けた空に、さわやかな青空が広がる。分厚い積乱雲がいつもより近く感じるのは、ここが旅館の上階であるせいだろう。

 ゴロゴロとした岩作りのゆったりとした露店湯舟に浸りながら、眼下に古くは宿場町としても栄えた城下町の景色が広がる。

 夏の暑さも湯船に溶けてしまいそうなそこは、まさしく湯煙の桃源郷であった。


「はぁ……幸せ過ぎる」


 蓮美は、暑さどころか身体まで溶けてしまいそうな様子で、ずるずると首元まで湯に沈む。

 栗花落の提案で決まった日帰り温泉旅行は、蓮美が口を滑らせた企画そのままに、涼夏の実家である温泉旅館で執り行われることになった。

 もちろん、涼夏はこのうえなく渋った。渋ったが、結果的には数の圧力というか、文明の利器というか。スマホの予約サイトからタップ数回で、否応なしに予約が取れてしまったわけである。


 世間は夏休みとはいえ、家族で訪れるような温泉宿は、それほど込み合っていなかった。平日に身軽に動けるのは、大学生の良いところだ。


「涼夏さん、こんないいとこに住んでたんだね。やっぱり、毎日温泉入れたりするのかな」

「入れるけど、別に気が向いた時にしか入らねーよ」

「そりゃ勿体ない。私なら、毎日入るのに」


 吐き捨てるように言う涼夏に、千春が縁の岩場にもたれて笑う。長い髪をヘアクリップで無造作にまとめた涼夏の姿は、いつもの伸ばしっぱなし降ろしっぱなしの状態からすると新鮮だ。

 同じく髪の長い蓮美は頭頂部でおだんごにまとめ、緋音はタオルでしっかりターバンにまとめている。入浴スタイルは、それぞれとても個性が出る。


「緋音さん、なんでそんな端っこに居るんですか?」


 蓮美の投げかけた声は、遠く湯船の隅で縮こまる緋音の背中にぶつかり、跳ね返る。緋音は背中越しに振り返って、恥ずかしさかのぼせたのか、赤くなった顔で答えた。


「思えば……家族以外とお風呂に入るのも初めてでした」

「はじめてって、温泉とか行ったこと無いんですか?」

「貸切風呂とか、部屋風呂とかあるとこばかりで……」

「高校まで修学旅行とかあったろ」

「誰にも誘って貰えなくて……ひとりで行くのも恥ずかしくて、部屋のシャワーで済ませました」

「ああ」


 誰もが、察したようなため息をつく。

 もちろん誘われなかったのではなく、恐れ多くて誘えなかったのであり、実際に大浴場へ行こうものなら先客たちの方がのぼせて『モーゼの海割り』並みに湯船から這い出していくことだろう。

 平日の真昼間。実質貸し切り状態の現状に感謝すべきである。


「栗花落さん、サウナなくて残念でしたね」


 先ほどから静かに微笑みを浮かべているだけの栗花落に、千春が気をつかって声をかける。


「良いんですよ。あくまで私がハマっているというだけですし。こんないいお風呂に入れるなら、些細なことです」

「栗花落さんって……失礼ですが、今、おいくつですか? 私たちとそんなに変わらないと思ってましたが」

「ふふふ、いくつに見えるでしょう……なーんて、案外この言い回し、お相手のストレスになるからしない方が良いんですよね。今年で二十一になりました」

「ってことは、涼夏さんの一個上ですね。大学は? それともお仕事?」

「市内にある、ルクシアというクラブで生計を立てています」

「クラブ……って、ミュージックホール的な?」

「いえ、キャバレークラブの方です」

「キャバクラ」


 流石の千春も思わず言葉を飲んだ。

 酒も飲めない田舎の大学生にとっては、全くと言って良いほど縁のないというか、耐性のない世界だ。そもそも涼夏以外の人間にとっては、キャバ嬢という存在に出会うこと自体が初めてである。


「こいつがアフターでウチのバーに来たんだよ。そん時にバンドのこととか話して……まあ、あとは流れでこうだ」


 涼夏が、途中を思いっきり端折ったざっくりな説明で経緯を語る。他のメンバーは、アフターだのなんだの理解できない単語がまだまだ飛び交っていたが、なんとなくの雰囲気で察して頷き返す。


「そういうお仕事って……その……どう、なんですか?」


 いつの間にか、近くに寄っていた緋音が恐る恐る尋ねる。あまりに夜の店への解像度が低すぎて、実にふわふわした質問だったが、栗花落は柔らかな笑みを浮かべて振り向く。


「私は楽しいですよ。いろいろな方とお話できますし。立場も、地位も、家庭も、経済状況も、考え方も、何もかもが違う人たちと、お酒を酌み交わすお仕事ですから」

「ゆ、有名人とか、誰か会ったり……?」

「流石に地方のお店でそうそうは。地元や、遠征で来たスポーツ選手くらいなら、年に何度かお相手しますが」

「そ……そういうのから、こ、恋に発展しちゃったりは……?」

「ふふふ、どうでしょうねぇ。私も恋の多い女ですから」

「はわわぁ」


 緋音が、さらに真っ赤になってぶくぶくと湯船に沈んでいった。

 傍から聞いていたメンバーも、そんな話を聞かされたら余計に大人のオーラで栗花落が眩しい。すっかり飲まれてしまいそうになったのを堪えるように、蓮美が声をあげる。


「あの……音楽は、どこで? お世辞じゃなく、すごく上手でしたので」

「両親が音楽関係の職についていたもので、物心ついた時から傍にありました」

「バイオリンは……?」

「小学校のころからだったでしょうか。他にもいろいろ触ってみましたが、一番手に馴染んだのがバイオリンで」

「へぇ」


 いわゆる英才教育なのだろうと、みんなが理解した。そうでなければ、この若さでプロでもないのに、これだけの実力を持つのに説明がつかないが。


「ご両親と同じように、プロは目指さなかったんですか?」


 何ともなしに尋ねた質問。

 しかし、他のどの質問とも違って、栗花落が答えるのに少し間を必要とした。


「どうでしょう……思ったこともあったかもしれませんが。音大に行ったりもしましたが、結局は一年少々で辞めてしまいましたし」

「音大……!」


 その響きに、思わず声が上ずった。蓮美でなくても、みな驚いて目を丸くしながら栗花落を見つめる。


「私、進路の選択肢にすら入って無かった……千春ちゃんは?」

「私も同じく。気合を入れて音楽と向き合うのは、高校で終わりにしようと思っていたし」

「わたしは……そもそも音楽やるなんて考えてもいなかったので」


 蓮美、千春、緋音の三者三様の感想を目の当たりにしながら、栗花落の視線は涼夏へと向く。


「涼夏さんは考えなかったんですか、音大。プロとして認められる演奏ができるあなたなら、学べることも多いはず」

「考えたこともねーよ。それに〝学ぶ〟んでなく、〝教わる〟んは、何かちげーし」

「ふふ、なるほど」


 一蹴されたにもかかわらず、栗花落はどこか嬉しそうに頷く。


「私も、似たようなものです。あそこに、私の愛する音楽はなかった。だから辞めました」

「栗花落さんの愛する音楽……?」


 心に引っかかったワードに、蓮美が恐る恐る尋ねる。

 栗花落は、少しばかり勝ち誇った笑みを浮かべて、口角をかすかに吊り上げ笑う。


「私の生を――命の灯火を実感させてくれる音楽です」


 彼女が唱えた言葉の意味を、推し量ることができる人間は、その場にひとりも居なかった。

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