栗花落が奏でたのは、先ほどのピアノソロと同じ『シング』だった。
弓を引く奏法による印象のせいか、ピアノの時よりも躍動感と情熱溢れる音にスタジオが包まれる。
あえて同じ曲を選んだのは、ピアノとの違いを強調するためだろう。かといって、ピアノでの演奏の手を抜いたわけではなく、どちらがより得意なのかを明示するための選曲と思われた。
だが、そんな奏者の思惑と関係なく、そこに居る全員が、ただただ彼女の演奏に聞きほれていた。
「……おや、思いのほかのリアクション。もっと分かりやすい曲の方が良かったですか? 『情熱大陸』とか」
「いや、十分だ」
再び弓を番えたところで、涼夏がストップをかける。
栗花落がゆっくりと楽器を降ろしたのを横目に、彼女は奥歯に何か詰まったように表情をゆがめた。
「いけ好かねぇ音だな」
「あら、それは残念」
「だがそれでいい」
「ちょっ……涼夏さん、本気!?」
蓮美が慌てて詰め寄るが、涼夏は頑なに頷く。
「確かにインパクトはあるけど……これ、音まとまるの?」
「それは今から考える。無理でもキーボードなら行けんだろ」
「それはそうだけど……」
もっともらしいことを言ってはいるが、蓮美の心中としては、単純に目の前のうさん臭い女がバンドに加入することに忌避感があるだけだ。
しかし、栗花落の演奏はぐうの音が出ないほどに素晴らしかった。確かに彼女の音が加われば、バンドの新しい可能性が開けるだろう。それがどういう曲になるのか、今は見当もつかなかったが。
「あの……!」
突然、緋音が声をあげた。
得意の人見知りを発揮してか、すっかり部屋の隅の方で固まっていた彼女だった。しかし今はどういうわけか、興奮した様子でわなわなと身を震わせながら、栗花落の方へと歩み寄る。
ただし、へっぴり腰で。
「も……もしかして……〝RAiN〟さんでは?」
「れいん?」
首をかしげる涼夏に、緋音は千切れんばかりに首を縦に振る。
「動画投稿サイトで演奏をあげてて……すごく、有名なんです。百万フォロワー! カバーだけじゃなくって、オリジナルも多くって……わたし、それが好きで好きで」
「ありがとう。覆面でやっていたのによく分かりましたね」
「それこそ、音を聞けばわかります! 毎日のように聴いてるので!」
スマホの動画アプリを立ち上げ力説する彼女の肩を、栗花落が優しく叩いた。
「でも今は、せっかくだから時任栗花落を見て欲しいな」
「は……はい」
微笑む栗花落に、緋音は顔を赤らめながら縮こまる。
その笑顔には、性別問わず人を虜にする魔性の魅力があった。
「曲、作れんのか?」
「ご期待に沿えるかは分かりませんけど、下手の横好き程度には」
「そりゃ好都合」
涼夏がニッと笑みを浮かべて、他のメンバーを振り返る。
「こいつ、入れるぞ」
「私は反対です!」
「何がそんなに気に入らねぇんだよ、蓮美は」
「でも、だって……」
悩めば悩むだけ断る理由が見当たらず、蓮美は結局黙り込んでしまう。千春が、宥めるように背中をぽんぽんと叩いた。
そんな心中を知ってか知らずか。いや、おそらくは知ったうえで、握手を求めるように手を差し出した。
「よろしくね。蓮美ちゃん」
「うぐぅ」
蓮美は、これ以上なく不満げな顔で、栗花落のなめらかな手をじっと見つめていた。
「――という顛末なんですが、どう思いますか!?」
「どうって言われても」
帰宅後、蓮美はスマホの受話口越しに声を荒げた。
スピーカー越しに不満をぶつけられた向日葵は、これまた東京の自室で、ハンズフリーにしたスマホを傍らにギターの弦を張り替えていた。
「作曲家が手に入って良かったじゃない」
「良かったって、向日葵さんはそれで良いんですか?」
「良いも悪いも、そっちのバンドの話なんだから、好きにすればって感じ」
「得体の知れない女の曲を、涼夏さんが演奏するんですよ?」
「〝RAiN〟でしょ? クラシック畑だから好んで追ってはなかったけど、その道の有名人じゃない。地元に居たのと、ロックに興味があったのは驚きだけど」
「反応が軽い……」
共感してくれる仲間が欲しかった蓮美だったが、見当が外れて肩を落とす。
「むしろ、アンタは何がそんなにイヤなの」
「それは……」
あの夜、セクシーなランジェリーに身を包む栗花落のマンションに、涼夏を迎えに行ったことは、流石に口にできなかった。蓮美の中の無意識のストッパーが、向日葵には告げるべきではないと警鐘を鳴らす。
「なんか……音が苦手です」
「……ふぅん?」
苦し紛れの返事だったが、向日葵はどこか納得した様子で頷く。
「その感覚は、大事にした方がいいかもね」
弦を張り終えた彼女は、一本一本調律を始めた。チューナーは使わない、自分の耳に頼ったソラの音合わせである。
「どうせ演奏するなら、向日葵さんの曲の方がマシです」
「マシってねぇ……プロ相手に酷い言い分。言っとくけど、アタシはもうアンタらに曲書くつもりは無いわよ」
「え、どうして?」
「これからメジャーで忙しくなる時に、他のバンドの面倒まで見てられますかっての。自分達でなんとかなさい」
「そんな……」
蓮美が向日葵に電話したのは、半分は愚痴を聞いてもらうためだったが、もう半分は新しい曲の提供をお願いできないかという相談でもあった。曲の提供があれば、栗花落に作曲をお願いする必要もない……と。
目論見は、すっかり外れてしまったが。
「まずは、RAiNがどんな曲を書いてくるのかじゃないの? 案外、良い曲書いてくるかもよ」
「どうでしょうね……」
蓮美の脳裏には、狐みたいな顔で笑う栗花落の姿がすっかりこびりついていた。
彼女が一体どんな曲を書いてくるのか、全く想像ができなかった。
次のスタジオ練習の日。
メンバーが集まったところで、栗花落が手をあげて注目を集める。
「改めまして、時任栗花落です。よろしくお願いします」
ステージ上のバイオリニストのように恭しく頭を下げる彼女に、涼夏以外のメンバーも思わず釣られて頭を下げた。
「さて……涼夏さんから曲作りをお願いされたのですが、あいにく私はまだ皆さんとそれほど仲良くなったとは言えないかなと思っています」
一同の顔を見渡し、栗花落が微笑む。
「それで、もっとみなさんのことを教えて貰いたいなと思うのですが……ああ、もちろん、私のことも知って頂きたいですし」
「それは構わねぇけど、どうすんだよ」
「そうですね……せっかくメンバー全員が女なわけですし」
うーんと、考え込むように唸った彼女が、ふと何か思いついたかのように顔を上げる。
「ここはひとつ、裸のお付き合いでも」
「は、はだか!?」
「あら、どうしました?」
思わず声を荒げた蓮美に、栗花落がクスクスと堪えたような笑みを湛える。
「私、最近サウナに凝ってまして。よかったらみなさんいかがかなと」
「サウナ!? ああ……そう、ですか」
ドキッとした胸を押さえつけて、蓮美は大きく深呼吸をする。
(びっくりした……また、あの夜のことが)
ほとんどトラウマだ。このままではいけないと、悪夢を振り払うように大きく頭を振る。
「サウナってことは、温泉か。いいね。しばらく入れてなかったし」
「わ、わたしも……家族以外と行くのは初めてです」
「どこか良いとこあるかな?」
千春がスマホで近くの温泉施設を調べ始めたころに、蓮美の意識がようやく現実に戻って来た。それから「温泉」と言う断片的なワードを耳にして、振り払った悪夢の代わりに、つい最近の記憶が思い起こされる。
「……涼夏さんち?」
「は?」
涼夏がこれ以上ないくらい、眉間に皺を寄せたのは言うまでもない。