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第37話 五人目のガールズ

 深夜のひと騒動から数日。バンドは、毎週月金に定めた定期練習日に合わせて、いつもの三号スタジオに集まっていた。夏休みに入って時間が取れるようになったこともあり、これまでの曲の精度を高めていくのが主な練習内容だったが、ひとり、どうにも身に入らないメンバーがいた。


「やめやめ」


 曲の途中で、涼夏が手を振って演奏を止める。


「どうした、蓮美。気合が入ってないぞ」

「いや、だって」


 文字通り気合が入っていない……と言うより気が散った様子の蓮美は、恨めしそうな視線を壁際に向ける。

 かつて、緋音が見学していた時に座っていたそこに、今は別の女性が座っていた。


「私のことは気にせず、どうぞ続けてくださいな」

「気になります!」


 蓮美は、少々ムキになって答える。

 全く堪えた様子もなく、我が物顔で練習風景をニコニコと笑顔で眺めている女性は、あの日の夜、涼夏を迎えに行ったマンションの住人その人だった。


「まあ……蓮美ちゃんほどじゃないけど、どちら様か気になる気持ちはあるかな」


 蓮美の肩を持つように、千春が女性と涼夏とを見比べる。

 それまで静かだった緋音も、ぶんぶんと無言で首を縦に振ると、涼夏は耳の穴をほじりながら視線を外す。


「あー、ウチのバイト先の客だよ。興味あるって言うから連れてきた」

「興味って……そんな、練習の邪魔にしかならないのに」

「あら、お邪魔でした? それは失礼」


 言葉とは裏腹に、女性は全く悪びれる様子もなくケタケタと笑う。


「まあ、自己紹介もまだでしたしね。時任栗花落と申します。これでもう、顔見知りですね」

「いやあ、どうでしょう……」


 相変わらず、ぐいぐいと一方的に距離感を詰める彼女に、蓮美はいっそう引き気味に目を逸らす。ただでさえあの夜のことか気になっているのに、バンドの練習にまで顔を出されたらたまったものではない。


「実際、なんで来ることになったんだっけ?」


 もっとも、彼女を連れて来たはずの当の涼夏がこうである。

 彼女にとっては、酔っ払っていた時の約束であり、非常に曖昧な記憶の中での出来事だった。

 栗花落と名乗った女性は、涼夏の言葉に微笑みを湛えると、すくりと立ち上がる。頭の天辺から糸で吊るされたかのような、美しい所作だった。


「何かお手伝いできることがあれば……という話でしたけど、そうですね。ここはあいさつ代わりに」


 彼女はスタジオ内を見渡すと、壁際に設置してあった電子鍵盤に歩み寄り電源を入れる。いくつか打鍵を確かめるように音を出すと、なめらかな指先を鍵盤に走らせた。

 しっとりと、大人の色気と力強さを感じさせるジャズピアノのナンバーだった。


「わっ……シング、懐かし」


 蓮美が思わす息を飲む。

 『シング・シング・シング』――スウィング・ジャズの名曲で、ジャズバンドのみならずブラスバンドや吹奏楽でも人気のある定番曲だ。


「なんだか、中学のころを思い出すね」

「う……うん」


 蓮美と千春にとっては、とりわけ思い入れのある選曲でもある。彼女たちが中学三年の全国大会で金賞を取ったのが、まさしくこの『シング』だった。

 それを知ってか知らずか、鍵盤を叩く栗花落は挑戦的な笑みで、蓮美の表情を舐めるように伺う。それから曲の後半に進むにつれて、激しい超絶技巧のアレンジを加えていく。

 そんな当てつけのような演奏をされなくても、東京で少しばかり〝プロ〟の演奏に触れた蓮美たちにはよく分かった。目の前の彼女もまた、プロに近しい演奏技術を持つプレイヤーであると。


「ふぅ……このような感じですが」


 一曲を弾き終わるころには、メンバー全員が彼女の演奏に聞き入っていた。

 多少鼻につく演奏だとしても、上手いものは上手いのだ。

 聞きながら、蓮美は彼女のマンションの部屋にあった大きなピアノを思い出す。


(キーボードか……なるほど)


 蓮美とてバンドに加入してから数ヶ月、何も漫然と練習していたわけではない。彼女なりにロックバンドについて勉強をして、その中でひとつ、キーボードを有するバンドが昨今では定番のスタイルであることを知っている。


「つまり、彼女にキーボードで加入してもらうってこと?」

「あ? ああー……そういう話だったか?」


 確かめるように涼夏に尋ねると、当の本人から帰って来たのは歯切れの悪い返事だけだった。


「ええ、まあ。キーボードを求められるなら、それでも構いませんけど――」


 栗花落は、電子キーボードの傍を離れて先ほど自分が座っていた席の辺りに戻る。それから、ごそごそと持って来た荷物の中からひょうたん型にも見える特徴的な楽器ケースを引っ張り出す。


「――オーディションだというのなら、一番得意な音を聞いてもらいたいものです」


 ケースから取り出された楽器が、温かい琥珀色の輝きを放つ。艶めくニスに塗られた木製のボディは、いくら音楽に疎い人間であっても、それがどういう楽器であるかがひと目でわかる。


「バイオリン……」


 誰からともなく、ため息と共にその名が口からこぼれる。

 栗花落は、自前のバイオリンを肩に乗せると、あご当てに軽く頬を寄せる。弓を何度か弦に走らせて手早くチューニングを済ませると、深く長い深呼吸をしてから、同じくらい長いストロークで音を奏でる。


 パッと、目の前で溢れた音が部屋中に響き渡った。

 音の波が壁や天井に反響して、四方八方から身体を包み込み、揺らされるような心地だった。

 耳で聞く音ではなく、空気の震えを全身で感じる。


 あっと言う間にバンドメンバーの心を掴んだ栗花落は、妖艶な笑みを浮かべて小さく頷く。


「それでは――」


 ひと呼吸置いて、弓が弾ける。

 そこから先は、文字通り彼女の独壇場だった。

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