国道十三号を走っていたタクシーは、二〇分ほどでバイパスを下り、早朝の静かな温泉街へと足を踏み入れた。朝五時ともなれば流石に出歩いている温泉客はいないものの、旅館の従事者と思える人々が働いている姿がちらほらと目につく。
その中でも山間の奥まったところに立っている大きめの温泉宿の裏手で、車は止まる。
「こちらでよろしいですかね」
「え? ええと……たぶん。あの、これで足りますか?」
爆睡の涼夏を他所に、蓮美は握りしめていた一万円札を運転手に手渡し、いくらかのお釣りを貰う。
(やっぱり、帰りの分は足りないか)
ここまで来たら何もかも現実味がなさ過ぎて、帰りのことなど些細なことに思えてしまっている。それよりも、問題は酔いつぶれた涼夏をどう実家に引き渡すかである。
「涼夏さん、着きましたよ」
「あ? ああ……裏の勝手口」
「それがどこか分からないんですけど」
「正面玄関の反対だから裏だろぉ!」
「わかりましたから声大きくしないでください!」
仕方なく、肩を貸してよろよろとそれらしい出入り口を探して歩きまわる。
エントランスまで車を直接つけられる豪奢な正面玄関とは違い、裏手は市民ホールか何かの裏のように飾り気がなく武骨だった。巨大なエアコンの室外機が並ぶ中に、とりあえず出入り口らしいところをひとつ見つけて近寄るものの、扉の前で再び立ち止まることになる。
(どうやって中に入ろう……?)
涼夏が居るとはいえ、勝手に入っていいものなんだろうか。鍵がかかっているかもしれないし、かかっていたら当然鍵なんて持っていない。もちろん、勝手口にチャイムもついていない。ついていたところで早朝の迷惑を考えれば推すのははばかられるし、いっそノックしたところでこんな巨大な旅館の勝手口の近くに、たまたま誰かがいるなんてことあり得るだろうか。
(……どうしよう)
とりあえず開いていれば御の字と思い、ドアノブに手をかける。すると蓮美の意に反してノブは勝手に回り、扉が無造作に開け放たれた。
「うわっ!?」
蓮美は驚いて飛びのこうとしたが、涼夏を抱えていたのをすっかり忘れて、ふたりもつれるように倒れ込んでしまった。
「お嬢、何してるんですか!?」
頭上から声が降り注ぐ。強く打ったお尻をさすりながら見上げると、かっぽう着姿の若い男性がひとり、バケツを片手に蓮美たちのことを見下ろしていた。
「あの……えっと……旅館の方ですか?」
「え? ああ、まあ」
男性は、遅れて蓮美の存在に気づいたようで、気まずそうに視線を逸らす。
「涼夏さん、見ての通り潰れちゃってて……助けてくれませんか?」
「ああ、送ってくれたんですね……わざわざありがとうございます。とは言え――」
彼は、蓮美と涼夏とを見比べるようにしてから、申し訳なさそうに手を合わせる。
「自分が運ぶわけにもいかないんで、中に入れるの手伝ってもらえますか?」
「ええ、それはもう」
蓮美は、ほとんど二つ返事で頷き返した。
とりあえず不法侵入をしなくても済んだことと、涼夏を実家に送り届けるというミッションをちゃんと達成できたことに、何よりも安堵したものだった。
――と思ったのも束の間、彼女は言われるがまま通された座敷の部屋で、居心地が悪そうに正座を組んでいた。客室ではない多少生活感に溢れた部屋は、従業員スペースの奥にある、おそらくは涼夏の家――そのリビングと呼べる場所だ。
男性従業員に案内されて近くまで涼夏を運んだ蓮美だったが、途中で厳しい顔をした和服の女性とはちあった。女性は訝しい顔で潰れた涼夏を見つめると、鋭いひと振りで彼女のお尻を平手で打つ。
「あいたっ!」
「自分の部屋くらい、自分の足で歩いていきなさい」
諫められて、涼夏は多少しっかりした足取りで(だけどふらふらと)廊下の向こうへと歩いて行った。女性は、お別れの言葉を交わす間もなく取り残された蓮美に向き直ると、どこか値踏みするような視線で見下ろす。
「客間でお茶でもお出しなさい」
「あ、はい」
男性従業員へ短く言い放って、彼女はどこぞへと歩み去ってしまった。ビシリと着こなした和服に慣れた、精錬された足取りだった。
それから「客間」と呼ばれた一室に通されて二〇分ほど。出されたお茶も温くなり始めたころ、大きな座敷机を挟んで蓮美は、先ほどの女性と対面していた。
「本日は、ウチの娘が大変なご厄介をおかけしました」
先ほどの厳しい顔つきとはうって変わって、女性が物腰柔らかに頭を下げる。
「いえ、その、私は特に何も……というか、涼夏さんのお母様?」
「はい、母でございます。当旅館で女将をしております」
「はあ……そう言えばそう、ですよね」
実家が旅館だという話は聞いていたが、なら母親は女将で偉い人ということになる。当たり前のことなのに考えが至らず、蓮美は新鮮な気持ちで彼女の自己紹介を受け止めていた。
「では、お父さんが社長さん……?」
「いえ。あの子の父は、十年ほど前に病気で亡くなりました。今は、宿のことは私が仕切りながら、経営の方は昔からいる社員に任せています」
「そう、だったんですね」
そう言えば実家と家族の話って何も聞いたことが無かったなと、蓮美は思い返した。まあ今どき、どれだけ仲良しだろうと家のことまで事細かに語り合うことはそうないが、一方で全く聞かないというのも珍しい。
あまり話題に出したくないのかなと、なんとなく理解する。
「それで、あなたは?」
「ああ、えっと、柊蓮美と申します。涼夏さんの大学の後輩で……今は、一緒に音楽をやってます」
「……バンドですか」
女将の目つきが再び鋭くなり、蓮美は慌てて口を噤む。
「あの子と組んで、もう長いんですか?」
「いえ……まだ二ヶ月ほどで」
「そうですか。大学に通ううちは口出しをしないと約束した以上、好きにさせてますが、あの子も何も言わないもので。どこで誰とやっているのかも」
「通ううちは……と言うと?」
言葉に引っ掛かりを覚えて尋ねると、女将は言葉を濁すように咳ばらいをする。
「学生であるうちは、私にも保護者としての責任があるという話です。卒業してからは、彼女も社会人のひとりであると自覚して生活していただきませんと」
「……はあ」
ハッキリした答えは得られず、蓮美は半分首をかしげるように頷いた。
社会人――若干一年生である蓮美にとっては、全くイメージのわかない言葉だ。まだまだ大学生になったばかりで、卒業のことなんてこれっぽっちも考えてはいない。
蓮美が黙ったのを話の区切りと捉えて、女将は話題を変える。
「そろそろ朝食の時間ですが、良ければ食べていきますか? 娘を介抱していただいたお礼に」
「え? あ……っと、せっかくですが遠慮しておきます。そういうつもりではなかったので」
「そうですか。では、ウチの者に家まで送らせましょう」
「いや、そこまでして頂かなくても――」
言いかけて、帰りのタクシー代が足りないことを思い出す。
あまり見ず知らずの人に恩を作るのが苦手な彼女だったが、ここは断腸の思いで頷いた。
「……すみません。お願いします」
何より、夜中に叩き起こされて眠気がピークだった。朝食を断ったのも、睡眠不足で僅かに吐き気も覚えているからだ。
早く帰ってベッドに潜りたい。今、大学が夏休みで本当に良かったと思ったものだ。
そう時間を置かずに、女将さんが裏口に小さな送迎バスを準備してくれた。バスに乗り込んで、蓮美はもう一度だけ旅館の外観を見上げる。
(ここが、涼夏さんの生まれ育ったところか……)
旅館の娘って、どんな生活を送って来たんだろうな。
そんなプライベートに興味を持ちつつ、バスは走り出していった。