蓮美が指定の住所についたころには、時刻は四時半を回ろうとしていた。そもそも大学そばの住宅街では空車のタクシーが捕まらず、ほとんど繁華街に近づいたところで、ようやく一台を見つけられたところだった。
(こんな夜中に街を歩くの初めてだな……)
高校時代ならすぐにパトロール中の警察に捕まって、補導されていたことだろう。成人はまだ先でも、自分が大人カテゴリの一員に入ったんだということを思い知らされた気分だ。
そして目的のマンションを前にして、躊躇するように足踏みをする。
(でか……てか、どうやって入るんだろ、これ)
そこは、市内中心街のど真ん中にある新築のマンションだった。先日向かった渋谷のタワマンに比べれば小さいが、地方都市としては十分な大きさと設備の物件だ。使ったことがないオートロックの解除ボックスを前に固まってしまった蓮美は、否が応でも自分や同級生が住むエントランスすらないアパートと比べてしまう。
近くに張り付けてあった説明書きを熟読して、半信半疑ながらも、貰った部屋番号を打ち込んで「呼出」ボタンを押す。
ピンポーンとお決まりのチャイム音が響いて、通話口の向こうに人の気配を感じる。
『あら……そう、あなたが蓮美ちゃんだったの』
「え……何がですか?」
はい、でも、もしもし、でもなくかけられた言葉に顔をしかめていたら、ガチャンと目の前のオートロックが開いた音が響く。
『どうぞ。エレベーターは、入って左側ね』
「……はい」
釈然としないながらも、言われた通りにエレベーターで目的の階へと上がる。
廊下をそろりそろりと歩いて目的の部屋の前にたどり着くと、番号を三度ほど確認してから、恐る恐る呼び鈴を鳴らした。
ガチャリ――返事もなく開いた扉の向こう側。そこに立っていた人物を見て、蓮美は再び固まってしまった。
「どうぞ?」
その声から、目の前の女性が再三受話口で話した相手であることは分かった。
問題はその恰好だ。ほとんど下着……というよりも、完全に下着だった。
ランジェリーショップでしか見たことがないような、水色のベビードール。カップ部分以外はシースルーになった煽情的なデザインから、当然のように、下に身に着けたシルクのショーツの艶が覗く。
蓮美なら、玄関先どころか家の中であっても人前に出れない恰好で、初対面(のはず)の相手を堂々と出迎えた女性は、艶っぽい笑みを浮かべて部屋の中へと誘う。
「え……あの……」
「あら……涼夏ちゃんを迎えに来たんじゃないの?」
「そう……ですけど……」
頭の中が真っ白になって軽くパニック状態に陥る。蓮美の心中を察したのか、女性は優しく腕を取って、彼女を室内へと連れ込む。
マンションの外観に違わず、部屋の中も高級そうな家具で揃えられていた。しかし、広い部屋の中に家具は必要最低限で、レイアウトが精錬されているのが分かる。狭い部屋にベッドや机を押し込んだ、ギュウギュウ詰めの蓮美のアパートとは大違いだ。
中でも目を惹くのは、窓辺に置かれた大きなグランドピアノだ。おそらくはひとり暮らしらしい部屋の中で、重厚な黒い輝きだけがどうにも異質だった。
「あ、涼夏さん」
ぐるりと部屋を見渡している間に、L字に組まれたローソファーの上で横になる涼夏の姿を見つける。蓮美が駆け寄って揺り起こそうとすると、濃いアルコールの香りと共に、ツンと酸っぱい匂いが鼻先を掠める。
「うっ……いったい何が」
「飲みすぎちゃったみたい。煽ったのもあるけど、思ったより弱かったみたいで」
苦笑する女性の言葉を横耳に、蓮美はテーブルの上に広げられたシャンパングラスと、クラッカーに乗ったおつまみの山を見やる。
「涼夏ちゃんの服が汚れなかったのが幸いね。代わりに私が着替えるハメになったけど……ごめんなさいね、こんな格好で」
「いえ、構いませんけど……」
だからと言って、これから人が来るのにその恰好はどうなんだと蓮美は思った。
(だって、そういうのって、その、エッチなことするときに着るやつ)
というのはもちろん偏見でしかないが、彼女が大人向けの漫画やドラマでしか見たことが無いのは確かだ。
「ほら、涼夏さん、帰りますよ」
「んあ……触んなぁ!」
「触んなきゃ支えられないでしょう……もう」
酔っぱらいの相手も二回目となると多少は慣れたもんで、蓮美は涼夏の小言を受け流して立ち上がらせる。家主の女性は、それを微笑ましそうに見守っていた。
「電話をかけなきゃ、そのまま泊って行ってもらって良かったのだけど」
「それは……電話してくれて良かったです」
「ふふ、もしかして妬いてる?」
「泊まるぐらいならウチだってあるし……それくらいじゃ何も思いません」
「ふぅん、じゃあ妬くようなこともあるのね」
「あ、揚げ足取るようなことばっかり」
目の前の女生と話していると、どうにも胸の内がざわざわして仕方がなかった。早めに退散するために、急ぎ足で玄関へ向かう。
「――次は、あなたの音を聞かせてね」
「え……何ですか?」
声を掛けられたような気がした蓮美は、涼夏が落ちないよう気を付けながら振り返るが、その時には女性は既に口を結んで、にこやかな笑みを浮かべるばかりだった。
どうにかエレベーターで一階へ降りて、マンションの外へと出る。入る時は遠隔で開錠された入口のドアは、帰りはどうやって閉まるのかななんて思いもしたが、それ以上に待たせていたタクシーに涼夏を詰め込む方が大変で、全てが終わったころには滝のような汗をかいていた。
「どちらまでお送りしましょう」
「ええと……あれ、どうしたら良いんだろう」
運転手に問われて、蓮美は首を捻る。
「涼夏さん、おうち、どこです?」
「あー? 寝れりゃ、どこでも」
「もおー……仕方ない、ウチに連れてくか」
蓮美は、心の中で「仕方ない」と念を押すようにつぶやいて、自分も後部座席に乗り込む。
「えっと、それじゃあ中桜田の――」
「……古蓉!」
「へ?」
蓮美の言葉を遮るように涼夏が叫ぶ……と言うより遮る意図なんてない、単なる酔っ払いの突然の大声だ。
「かみのやま温泉の?」
「おう……表じゃなくて裏によろしく」
「かしこまりました」
「え、あの、ちょっと」
あっけにとられて本日三度目の硬直となった蓮美が我に返ったころには、既にタクシーは走り出してしまっていた。どこか解らない謎の行先に目を白黒させる。
「温泉……って、もしかして涼夏さんの実家!?」
「あー? そりゃ、タクシー乗ったら帰るだろ……家に」
「さっきはどこでもいいって言ったのにー!」
「それより、着いたら起こしてくれ、な」
蓮美の声などうわの空で、涼夏はすぐに寝息を立ててしまった。
(まって、この時間に家と全然違う方向……ってか、涼夏さんの実家? なんで?)
ここで降ろして貰おうかとも思ったが、手にはベビードールの女から握らされた一万円札と、隣には爆睡の涼夏。このまま放っておいて何かあったら自分のせいだと、妙な責任感にさいなまれる。
(一万円で帰りの分も足りるかな……?)
深夜料金で、恐ろしい速度で回っていくタクシーメーターを見つめながら、蓮美は覚悟を決めたのだった。