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第34話 3:30、闇の中

 渋谷でのライブから一週間ほどが経ち、涼夏はバイト先であるバーのカウンターに立ちながら難しい顔で唸っていた。


「涼夏さん、もう少し愛想よくできませんか? こういう店ですから、笑顔でとは言いませんから」

「あ……すんません」


 マスターに諫められ、涼夏は止まっていた洗い物の手を動かし始める。

 今夜は、少々忙しかった。ひと組ひと組は大したことはないのだが、長居せず回転が早い。店の売り上げとしてはありがたいものの、働いている側はお酒を作り続けててんやわんやだ。

 平日ということもあり、時計の針が天辺を回るころに客足は落ち着いたが、溜まった後片付けが残っている状況だ。

 残っている客は、カウンターでマスターと親し気に話す恰幅の良い常連男性と、そこから数席空けたところに座る歳の差が離れた男女。壮年を過ぎて初老に差し掛かった男性と、涼夏とそう変わらないであろう年齢の女性との組み合わせだった。好意的に見れば親子のように見えなくもなかったが、女の方が暗がりで映える派手めの化粧をしていることから、水商売の客と店員だろうと涼夏は見ていた。

 こういう店だ、お水のアフター客がやって来ることは珍しくない。彼らはたいてい、店に飲みに来たのではなく、場所を変えて女の子と喋りに来ているだけなので、店員側も無理をして話しかけることはしない。

 それこそ、水を差すというものだ。


「それにしても、難攻不落のレインちゃんにアフターに誘って貰えるなんて、光栄だなあ」


 初老の男性が豪快に笑う。身なりは良いが少々品がないのは、ワンマンや家族経営の社長か何かといったところだろう。対するレインと呼ばれた女性は、口角を持ち上げる程度で目を細めて上品に笑い返す。


「竹本さんには、オーナーもお世話になっていますから。サービスしないと私が怒られます」

「アイツにもよろしく言っといてくれ。じゃあ、そろそろ会計にしとくか」

「あ、ちょっと待ってくださる?」


 財布を取り出した男性を、女性がやんわりと制する。


「ここは私に持たせてください。代わりに、もう一杯だけ付き合ってくれませんか?」

「そりゃ悪いねえ。もちろん、何杯でも」

「ふふ、ありがとうございます。どうでしょう、お店の方々もどうですか? 遅くまで付き合わせてしまったお礼です」

「あ?」


 不意に、女性がカウンターの向こう側に立つ涼夏たちを見渡して声をかける。話しかけられると思っていなかった涼夏は、思わず素でリアクションをしてしまった。

 すかさず、マスターが常連客の前を離れてフォローを入れる。


「お気遣いありがとうございます。乾杯させていただきます。涼夏さんも」

「いや、あたし原付なんすけど」

「ふふ、ならノンアルコールのカクテルでも……」


 女性は、カウンターの中をぐるりと見渡してから、どこか挑戦的な瞳で涼夏を見据える。


「〝シンデレラ〟――なんてどうです?」


 彼女が口にしたのは、ノンアルコールカクテルの名だ。柑橘系ジュースを混ぜた、ようはミックスジュースなのだが、お酒を飲めない――特に女性客がバーの気分を味わうにはもってこいのカクテルである。

 ただ、自分を見つめる彼女の瞳が妙に鼻についた涼夏は、洗ったグラスを磨きながらトゲのある視線を返す。


「あたしゃ、夢見る少女なんて歳じゃないっすよ」

「あら、知ってたんですね、カクテル言葉」

「……まあ、バイトでもバーテンなんで」


 嘘だ。

 適当にシンデレラにかけて言っただけだったが、カウンターの内側に立っている以上は見栄を張っておく。

 それよりも知っていて自分に出すだなんて、目の前の女の腹が見えた気分だった。拭き終えたグラスを棚に戻すと、売られた喧嘩を買う勢いで、カウンターに身を乗り出す。


「あんまり好意的に感じないのは、あたしがトガってるせいですかね?」

「あら、むしろ好意しかないですよ。先ほどから気になっておりましたもの」

「自慢じゃないけど、なかなか居ないですよ。あたしに初見から好意を持つヤツなんて」

「なら、証明にスクリュードライバーなんていかがです? マスター、ノンアルコールで作れませんか?」

「良いっすよマスター。ウォッカたっぷりで持って来てください」

「原付、良いんですか? 飲酒運転は、飲ませた方も罰則なんですが」

「タクシー代くらいあるんで。それよりもナメられたようなのが気に食わねぇ」


 ふたりの針のむしろにさらされたマスターは、落ち着いた様子で頷いて、粛々とドリンクの準備を始める。


「涼夏さん。タクシー代は出してあげますから、お客様に粗相のないように」

「わーってます」

「ふふ、嬉しい」


 女性がニィと口角をあげて笑う。

 キツネみたいに笑いやがってと、涼夏は余計にムカッ腹が立って来たが、マスターに釘を刺された手前、顔と口に出すのはどうにか抑え込んだ。

 当然、カクテルの意味なんてこれっぽっちも意に介さずに。


 *


 蓮美は、夜中に妙な物音で目を覚ました。

 若干のわずらわしさを覚えながら、真っ暗な部屋の中でベッドの上から手を伸ばして、傍のローテーブルの上をまさぐる。やがて音の正体――テーブルの上でバイブ音を唸らせるスマートフォンを掴むと、目の前に手繰り寄せる。


「なに、涼夏さん……? ちょっと……三時半じゃん」


 寝ぼけ眼をこすりながら、表示された着信名と、画面の隅に表示された時刻に目をやって顔をしかめる。


「もしもし……? どうしたんですか、こんな時間に」


 通話口に出るが、何も聞こえてこない。かすかに呼吸音のようなものが聞こえてくるが、遠くて朧げだ。


「涼夏さん? 涼夏さーん?」


 用事がないなら切って寝たい。その一心で名前を呼び続けると、やがてゴトンとけたたましい音が響いた。蓮美は、驚いてスマホを耳から離すと、慌ててハンズフリーにする。


「ど、どうしたんですか? なんかすごい音しましたけど?」


 相変わらず、何も返事がない。不安ばかりが募る中で、脳裏には少し前に見たサスペンスドラマのシーンが思い起こされていた。

 電話をしている最中に、通話口の向こうの友人が犯人に殺され、その断末魔を聞かされる主人公。断末魔は無かったが、現実にあてはめれは無い方が妙にリアルで、思わず鮮血に染まった涼夏を思い描いてしまう。

 さっと、顔から血の気が引いた。


「涼夏さん! 涼夏さんっ!」


 電話である以上、声を掛け続けることしかできない。警察だとか、救急車だとか思っても、場所が分からなければ通報のしようもない。せめて大声をあげることで、通話越しに誰かの耳に届けば――そう思っていたところで、ごそごそと、手の中からスマホをひったくられるような異音が鳴る。


「……もしもし? 誰に繋がっているのかしら?」


 スピーカーの向こうから、知らない女の声がした。蓮美はさらにゾッとして、恐る恐る向こう側へ語りかける。


「あ、あの……あなたこそ、誰ですか? 涼夏さんは……?」

「あら、女の子。蓮美ってワンチャン男の子の可能性もあったけど……もしかして、涼夏さんの恋人?」

「んなっ……!?」


 血の気の引いた顔が、一瞬で真っ赤に染まった。


「ち、違います……! 友達と言うか……仲間というか……それよりも涼夏さん、電話に出してください」

「それはムリな相談ね。彼女、もう動けないから」

「動けない!?」


 再び、猟奇的な光景が蓮美の脳裏をよぎる。


(いやいや、だったらこんな呑気に通話なんてしない。どんな快楽殺人者なの)


 馬鹿らしい考えは良識で受け流して、兎にも角にも状況整理に努めたいところだが、正直何が何なのか彼女には全く分からない。この時間に、動けなくて、知らない女が電話に出て、いったい向こう側では何が起こっているというのか――

 ぐるぐるとまとまらない考えが頭の中を駆け巡っていると、通話口の女がくすりと笑った。


「恋人じゃないならいいか。あなた、お住まいは市内?」

「え……あ、はい……一応」

「なら、タクシーを拾って迎えに来てくださらない? お金は出してあげるから」

「迎えにって……どこに?」

「メモ、とるものある?」


 蓮美は、机の上からペンと書き損じた五線譜を取り出すと、女が語る住所をメモする。


「じゃ、よろしくね」


 それで満足したのか、あちらの方から電話を切られてしまった。

 蓮美は、無音になったスマホを降ろしながらメモを見つめる。

 殴り書きの住所は、市内のマンションと思われる建物の一室を指していた。


(……何があったの、ほんとに)


 様々な疑念と不安を胸に、蓮美は手早く出かける準備を整えた。

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