「それで、緋音さんとふたりで涼夏さんのバイト先で飲んでたと」
千春が苦笑して答えた。バンドメンバーは、現状の曲の出来と意見交換のために、一週間ぶりにスタジオに集合していたところだった。
「わ、私は飲んでないよ? ただ、緋音さんが結構飲んじゃって、結局タクシーで送ってくことになって」
「ありゃ面白かったな。タクシーにぶち込んだ瞬間寝ちまったから、行先も告げられずに結局、蓮美も乗ってくことになって」
「す……すみませんでしたぁ……」
目下の針の筵である緋音が、恥ずかしそうに顔を覆って、消え入りそうなくらい小さくうずくまった。
「試しに、今日は酒入れて歌ってみろよ。案外いいセンいくんじゃねーの」
「か、勘弁してくださいぃ……これ以上、恥ずかしいところは……」
「冗談はその辺にしておいて、曲の話をしようよ」
咳ばらいをひとつして、蓮美は話題を切り替える。
「とりあえず私からだけど……ごめん、完成度はまだイマイチ」
「やっぱり難しい?」
「うん……それもあるけど、まだこの曲が目指してるものが表現できてないような気がするというか」
千春の言葉に、蓮美は何とも言えない苦い顔で首をかしげる。
「改めて考えてみると、私、誰も演奏したことを無い曲を吹くのって初めてなんだよね……だから、この曲の完成した形が、まだ全然見えてない気がする」
「完成した形が――って、前にカバーやった時も言ってたが、そんなに考えることか?」
「完成までは言わなくっても、お手本というか……吹奏楽のころは、やっぱり、プロが演奏しているCDとかがあったから。それをベースにして自分たちなりの味付けとかができたんだけど」
「これもひとつのゼロイチの苦しみってやつなのかな」
千春が、同意するように頷く。
「私も似たようなところだね。一通り譜面通り叩くことはできるんだけど、たぶん、この楽譜が意図したものまで引き出せてない気がする」
「そういやお前、この間、向日葵に何か言われてなかったか?」
「ああ、それは――」
涼夏に突っ込まれて、千春は過ぎし日のことを嫌でも思い出す。
向日葵と蓮美が勝負を行ったあの日、向日葵が去り際に千春へ声をかけた。
「アンタの演奏、なんだか窮屈ね」
「窮屈?」
「イイコチャンっていうか、叩かせて頂いてます感っていうか」
「そう、聞こえますか?」
「少なくとも、アタシはアンタを自分のバンドに欲しいとは思わない」
「はは……涼夏さんにも、似たようなことを言われてますよ。私、まだ仮加入なので」
「ふぅん」
向日葵は、どこか意外そうに涼夏の横顔を盗み見る。
「アイツが妥協するとか……案外切羽詰まってるわね。これ、もう少し強引に押したらイケるかしら」
「それは困りますよ。名実共にウチのバンドの要なんですから」
「冗談に決まってるでしょ」
千春のマジレスに、向日葵がムッとして唇を尖らせる。
「でも、このままだとアンタ、一生〝仮〟取れないわよ」
「肝に銘じておきます」
それがあの日、千春が向日葵と話したこと。
なあなあに受け止めているようで、その実、それなりのショックは受けていた。
自分に一番足りないもの――それを、涼夏と向日葵のふたりは、たった一、二度のセッションで漠然と見抜いてしまった。
何が足りないのかは、実のところ千春自身も理解しているつもりだ。だが、それを補う方法が分からない。これは性分と言っていいのかもしれないが、つくづく自分は「上を目指す」ことに向いていないんだなと痛感する。
「アドバイスを貰っただけだよ。まだ、自分の中で噛み砕けてないけれど……ものにできるよう、努力はしているつもり」
「向日葵がアドバイス?」
あの日、向日葵が怪訝な表情を浮かべたように、今度は涼夏が神妙な顔つきで眉をひそめる。
「どういう風の吹き回しだ。余計な事すんじゃねぇよ、あいつ……これはあたしのバンドだ。テメーの好みを押し付けんじゃねぇ」
「そこまで言わなくても。それに、わりと普遍的なことだったし、自分でもどうにかしたいなと思っていたことだから」
なだめるように補足すると、涼夏も多少なり納得した様子で怒りの矛を収める。
すると、返す刃のように蓮美がジト目で彼女を睨んだ。
「そういう涼夏さんは、どうなの?」
「あたし? そりゃあ――」
涼夏は、繋いだばかりのアンプに灯を入れると、弦の調子を確かめてから、息をするように指を走らせる。
「え……すっご」
繰り広げられる旋律が、果たして楽譜通りなのかどうか、ベースパートまで覚えていない蓮美には判断ができなかった。しかし、その堂々たる弾きぶりは、涼夏自身が「これがこの曲の完成形だ」という自信と矜持を持っていることを物語っている。
「てか、この短期間で、もうソラで弾けるの……?」
「そりゃ、一回楽譜を見てひと通り弾けば、だいたい身体が覚えるだろ」
「音感ないのに、どうなってるのその身体」
蓮美は、根無涼夏という人間の底知れなさに慄く。
「んで、肝心のボーカルはどうなんだよ」
「ひっ……」
いまだにうずくまったままの緋音が悲鳴をあげて、わなわな震えながら涙でうるんだ瞳をみんなに向ける。
「ごめんなさい……全然ですぅ……!」
正直、予想通りだったのか、ほかの三人も「だよねぇ」という顔で執拗に責めることはしなかった。
一通りの現状報告を聞いて、最後に涼夏が統括するように口を開く。
「ま、完成度は十パーってとこだな」
「えと、涼夏さん……だと、当面の目標は?」
「合わせられるようになって、まあ五〇パー。すべてはそっからだ」
「道のりは遠いなぁ……」
蓮美が項垂れる。やる気こそあるものの、日を重ねるだけ自信を失っていくかのうようだった。
「週末、もっかい集まるぞ。その時までに、せめてセッションできるようにしとけ」
「わ、わかりました」
アテのない約束。しかし、それでもやらなければならないのだ。
東京でのライブの日は、刻一刻と迫っている。