数日後――夜の繁華街に、こそこそと涼夏の跡を付ける蓮美の姿があった。傍らには、歓楽街のネオンにやられて落ち着かない様子の緋音の姿もある。
「あっ……角曲がりました! 行こう!」
「は、はい……」
涼夏が本当にバイトを始めたらしいという話を聞いて、蓮美が行動に移すまで、それほど時間はかからなかった。夜の店の割の良いバイト――単なる好奇心と、ちょっとばかりの心配によるものだったが、一度気になり出すと止まらない性分なものだから、せめてバイト先だけでも突き止めようという魂胆だった。
ひとりで尾行するのは心もとなかったので、はじめは千春に声をかけたが、あいにく彼女は彼女でバイトの予定が入っていた。ちなみにバイト先は、蓮美も良く知る地元の中華料理屋だという。実家に帰る時があれば、こちらはこちらで、千春がシフトの入っている時に遊びに行ってみようと蓮美は思っている。
そこで千春がダメならと、ダメ元で緋音に声をかけてみたところ、なんとOKを貰えて今に至る。
「緋音さん……なんでOKしてくれたんですか?」
「え……誘われたから……ですが」
こんなこと、なぜ手伝ってくれるのか蓮美も疑問だったが、理由は実に単純明快だった。
「友達に外出に誘われるってこと……初めてだったので、嬉しくて」
「あ、緋音さん……」
恥ずかしそうに語る緋音に、蓮美は思わず色んな意味で目頭が熱くなる。
「次は、ちゃんとどこかに遊びに行きましょうね」
「は、はい」
あまりに不憫だったので、そんな約束を取り付けつつ、ふたりは先を行く涼夏が洋風の一軒家に入っていくところを目撃する。歓楽街から一本外れた路地にある重そうな木の扉。そこには厳かな書体で『Melissa』と店名らしきものが刻まれていた。
「お店っぽいけど、何のお店なんだろう」
「窓がないから……中も見えませんね。レストランか何かのようにも見えますけど……」
「失礼」
店の前で管を巻いていると、背後から恰幅の良いスーツ姿の紳士に声をかけられる。ふたりが「すみません」と謝って道を譲ると、紳士は慣れた様子で『Melissa』の扉をくぐっていった。
「なんだか格式高そうな感じ……緋音さん、聞いたこと無いですか?」
「すみません……こういう歓楽街に来たことはなくって」
「ですよねぇ……どうしよう」
「どうしようって……入らないんですか?」
「流石に気おくれすると言うか」
先ほどの紳士の身なりが良かったので、大学生感丸出しの自分達の姿が、なんだか浮いた存在に見えやしないか。そもそも小娘がふたり並んで歓楽街を歩いているだけで、場違い感甚だしいわけだが、どうにも踏ん切りがつかない蓮美である。
しかし、やがて意を決したように扉を見つめて、大きく頷く。
「い、いきましょう……!」
「は、はい……」
「とりあえず中の様子を伺って……怖そうだったら引き返しましょう!」
「は……はい!」
実に頼りない約束を交わして、蓮美はドアノブに手をかけた。
重い扉の向こうは、短く曲がりくねった通路になっていた。入ってすぐは中の様子が伺えない作りだ。仕方なく、恐る恐る奥へと進んでいくと通路の向こうに薄暗い店内が広がっていた。
真っ先に目についたのが、壁一面に並んだ色とりどりの酒瓶だ。長方形の店内の真ん中あたりを横断する長いカウンターテーブルの向こうに設えられた棚に、大学生の知識では見たことのないラベルの洋酒が所せましと並んでいる。
カウンターには背の高い椅子がずらりと並び、そのうちの一席に先ほどの紳士が座って、カウンターの中に立つ初老の男性と親し気に会話をしている。カウンターの男性は、フォーマルなベストに身を包み、グレーがかった髪を整髪剤でカッチリとオールバックに固めている。
その雰囲気で、ここが「バー」と呼ばれる場所であることは、経験が無くても理解できた。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
初老のバーテンダーが、にこやかな笑みでカウンターの空席を指す。完全に空間に飲み込まれていたふたりは、断ることもできずに、促されるまま席についていた。
「こちら、メニューでございます」
おしぼりと一緒に受け取ったメニュー表に視線を落として、ようやく我に返ったようにハッとする。
「な、流れで座っちゃったけど、私、未成年だよ」
「ノンアルコールのドリンクもございます」
「あ、そうなんですね……じゃなくって」
図らずもノリつっこみになってしまった自分に恥ずかしさを覚えつつ、蓮美はバーテンに向き直る。
「あの……ここで、大学生の女の子、働いてませんか?」
「従業員のプライベートにはお答えしかねますが」
「根無涼夏さんって……あの、私たち、彼女の知り合いで」
「――は? テメーら何してんだよ」
バーテンの言葉を待たずに、聞き覚えのある声がカウンターの奥から響く。スタッフルームらしき扉の向こうから、同じくフォーマルなベストに身を包んだ涼夏が現れたからだ。
「わっ、涼夏さん!? そ、その恰好は……?」
「見ての通り、バーテンのバイトだが」
突然の涼夏の登場に、どぎまぎしながら訪ねた蓮美へ涼夏は不躾に答える。
「涼夏さん、お友達でもお客様ですよ」
「うーす、すいません」
彼女は、優しく諫めるバーテンに形だけ謝ってみせると、カウンターに身を乗り出すようにしてふたりに顔を寄せ、声を潜めた。
「マジで何で居んだよ」
「あの……えっと……涼夏さんのバイト先ってどんなとこかなーって」
「暇かよ……んなことしてる余裕あるなら、新曲の練習してろよ」
「う……それは、ごもっともです」
涼夏が、前かがみになっていた身体を起こして、めんどくさそうに舌打ちをする。蓮美は、ぐうの音も出ない様子だったが、そんな彼女の姿をちらりと盗み見るように視線を向けた。いつものラフな姿とは似つかない、キリッとしたいで立ちに、思わず頬が上気する。
「とりあえず、座っちまったなら何か頼んでけよ。それが店の流儀ってやつだ」
「そ、そうですよね……じゃあ、何かノンアルコールのものを」
「おう。緋音は?」
「あ……じゃあ……その……マンハッタンを」
「お、酒イケる口か?」
「春に二十歳になりまして……姉が誕生日祝いに、いろいろ教えてくれました」
「そりゃいいことで。マスター、マンハッタンと、そうだな……シャーリーテンプルで」
「かしこまりました」
涼夏のオーダーを受けて、先ほどのバーテンが一礼してからドリンクの準備にかかる。マスターと呼ばれたところから、この店の店長なのだろう。
「涼夏さんが作るんじゃないんだ……?」
「忙しい時は、簡単なのなら作るが、見ての通り暇な時は、基本全部マスターだ。あたしは、その間の客の相手」
「なるほど」
しばらくそうして他愛のない話をしているうちに、マスターが作り終えたカクテルをふたりの前へと差し出す。蓮美のは長いコリンズグラスに。緋音のは逆三角形のカクテルグラスにそれぞれ、ルビーのように赤みがかった液体が注がれている。
「あの、これ、ノンアルコールですよね?」
「そうだ。まあ、飲んでみろ」
涼夏の言質を取って、蓮美は恐る恐る口をつける。ほんのり甘みのある微炭酸に、後からきゅっと果実らしい酸味が爽やかに口の中に広がる。
「あ……美味しい」
「だろ。緋音の方は……って、はえーな」
涼夏が視線を移すと、緋音のグラスはすでに半分ほど中身が無くなっていた。
「え……あ、あの……ショートカクテルって、数口で飲み切るものだって姉が」
「はは。確かに、温くならないうちに美味しくお召し上がりいただくにはそうしていただきたいですが、特に決まりがあるわけではないのでご自分のペースで飲まれて大丈夫ですよ」
「あっ……そ、そうなんですね……すみません」
「いえ、謝られることはありません」
にこやかに語るマスターに、緋音は慌てて頭を下げると、グラスの残りをキュッとひと息に煽る。その様子を見て、蓮美がぎょっと目を見開く。
「わっ……緋音さん、大丈夫?」
「だ、だいよーぶです! えっと、おかわりを」
「かしこまりました」
「緋音さん、お酒強いんだ……」
感心したように目を見張る蓮美の視線の向こうで、緋音は顔をほんのり赤らめて、「ほう」と熱っぽい吐息を吐く。それが妙に色っぽくて、蓮美は思わず目を逸らしてしまう。
緋音は、二杯目も同様のペースでキュッと片付けると、珍しくリラックスした様子で笑みを浮かべた。
「おいしい! お姉ちゃんにおせーて貰った中でも、これが一番好きですねぇ。確か……カルテルの女王とか」
「
「カルテルの女王は、タダのヤベーヤツだな」
呆れ顔の涼夏の隣で、マスターがにこやかに頷く。すると緋音も柔らかい笑顔を浮かべて頷き返す。
「ひゃい! わたし、お姉ちゃん大好きなんです。優しいし、何でも知ってるし、わたしと違って堂々としてるし」
「へぇ……きっと緋音さんに似て美人なんだろうなぁ」
「お姉ちゃん、すっごく綺麗です。お姉ちゃんに比べたら、わたしなんて、ちんちくりんのハム蔵です」
「ハム蔵……?」
「昔やってたアニメ! 毎週見てらした」
「あ、知ってる! 私も見てた! けど……緋音さんがハム蔵はどうかな?」
「なんでぇ? わらし、ハム蔵好きらのに~!」
苦笑する蓮美に、緋音はキョトンとして首をかしげる。
そんなふたりのやり取りを、涼夏が怪訝な顔で見つめていた。
「緋音、あのよ」
「なんれしょう、りょーかしゃん」
「めっちゃ喋るじゃん」
「あっ……言われてみれば、今の緋音さん、すごく話しやすいかも」
「ひゃい?」
とりあえず恥ずかしそうに口元を押さえて、緋音は顔を一層赤らめる。
「お前、今度から酒入れてステージ立て」
「え?」
「確かにアリ……かも」
「ええっ!?」
素っ頓狂な声が店に響く中で、蓮美のグラスの氷が、カランと音を立てて崩れた。