ひとまず、迷っていても仕方がないので、千春は蓮美にだけ事情を説明して、一度会場を後にした。迎えに行く――なんていうのは烏滸がましいことで、兎にも角にも本人から直接話を聞くべきだと思った。
事態を共有した手前、蓮美にも力を貸して貰いたかったが、彼女には話がややこしくならないようにと涼夏に上手くごまかして貰う役目を頼んでいる。やはり、彼女に伝えるのは、本当にダメだった場合に改めてが良いだろうという判断だった。
一応、緋音からのメッセージに返信を送っているが、返事はない。幸いなのは、この会場も、緋音の家があると聞いている高級住宅街も、学校のすぐ近くということだ。住宅街自体はそれほど広くはないし、しらみつぶしにあたれば「萩原」という表札を見つけることはそう難しくないだろう。
実際、会場を出てから三〇分も立たないうちに、ローマ字表記で「Hagiwara」と書かれた邸宅を発見した。豪邸とまでは言わないが、コンクリート造りの外門がある立派な家だ。
ほかに「萩原」姓の家は無さそうなので、おそらくここだろうと当たりをつける。間違っていたら謝れば良いと覚悟を決めて、千春はチャイムを鳴らした。
(……誰もいないのかな)
しばらく経っても反応が無いので、もう一度だけ鳴らしてみる。カメラがついた防犯仕様のチャイムは、千春の家にも似たようなものがあった。おそらく家の中のモニターにこちらの姿が映っていると共に、声も聞こえているはずだ。
試しに、カメラに向かって語りかけてみる。
「萩原さん……萩原緋音さんはいらっしゃいませんか?」
ダメでもともとでの挑戦だったが、やはり反応はない。やはり誰も居ないのか。それとも居留守を使われているのか。測りかねる中で、ごそりと、スピーカーごしに衣擦れのような音が響いた。
「……あの……どうしてウチを……?」
機械ごしで少しは聞きやすくなっていたその声は、間違いなく緋音のものだった。千春は、とりあえず家違い人違いでなかったことに安心して、安堵の笑みをこぼす。
「よかった。前に、家はこの辺だって聞いていたので、運が良ければ見つかるかなと」
「そんな……言ってくれたら、教えたのに」
「でも、今日は教えて貰えそうになかったので」
多少の皮肉も込めて告げると、スピーカーの向こうで緋音が息を飲むのを感じる。僅かな静寂を経て、掠れるような声で返事が届く。
「ごめんなさい……わたし、やっぱり、ダメ……みたいです」
その謝罪は、言わずもがなライブのことに関してだろう。千春はできる限り相手に負担をかけないよう、声を柔らかくして答える。
「怖い、ですか?」
語りかけながら、部活動時代もよくこういうことがあったなと、懐かしさも感じていた。中学時代にはパートリーダー。高校時代は、先輩としてB編成を率いる立場にいた千春は、パート内外の部員の相談を良く受ける立場にあった。
思春期の彼女たちの悩みは、部活のことから私生活のことまで千差万別だが、結果として行きつく相談内容は「部活を辞めたい」に集約されることがほとんどだった。
「私も怖いです」
そういう時に、千春は常に、相手と同じ気持ちであるようにと心がけていた。当たり障りのない正論を振りかざすのは簡単だが、それでは相手が本当に必要としている言葉や道を見つけることはできない。
部の和を重んじた彼女は、卒業まで誰ひとり欠けて欲しくないと思った。
「というより、怖くない本番というものを経験したことがありません。本番前はいつだって不安で、自分が信じられなくて、気持ちが落ち着かなくなるものです」
「そう……なんですね。姉崎さんでもそうなら……わたしなんて、どうしようもない……」
「だから、代わりに私は仲間を信じるようにしています。昔なら、ほとんど三六五日の苦楽を共にしてきた仲間たちを――今なら、文句の付けようがない経歴を持つ涼夏さんと、私が最も信頼を置くサキソフォニストである蓮美ちゃん。そして――」
少しでも言葉がストレートに伝わるよう、一度胸の奥で言葉を溜める。言葉も、音楽も、タイミングだ。的確な拍子で放てば、感動は直接相手の心に響く。
「自分なりに前に進もうと練習を重ねていた緋音さん。せっかく一緒に練習したのに、一度も演らないで終わりだなんて、寂しすぎます」
千春の言葉に対して、緋音の返事は戸惑うような吐息ばかりだった。しかし千春も、いつかの涼夏のように確信する。
緋音は、挑戦したがっている。
だったらすればいい――何て簡単に言うのは、努力が報われたことがある人間の特権だ。世間一般の「報われない努力」を体験したことがある人は、挑戦そのもののリスクと恐怖を知っている。
もちろん、失敗をばねに躍進できるタイプの人間も居るが、少なくとも高校で吹奏楽に見切りをつけた千春と蓮美は違った。
(こういう時……どんな言葉をかけてあげるのが正解だったんだろう)
誰も欠けて欲しくない。だけど、言葉で部の仲間を繋ぎ止めることができなかった千春は、自分を切り売りすることでどうにか事なきを得て来た。
相手が、できるだけ得意で楽しく演奏できるパートを譲る。自分の練習そっちのけで、後輩の個人練習に付き合う。ご褒美になるようなパーティーを企画する。
努力の甲斐もあって、千春の代の部員は中高共に退部率が低かった。退部した者も転校や病気、怪我などの、仕方のない理由の者だけだった。
そうして他人本位となった結果、千春は最後の大会をB編成で迎えることになった。後悔が無いと言えば嘘になるが、これが自分なりの部への貢献の仕方なのだという誇りもあった。
「私は、涼夏さんのことは苦手ですが……一方で、羨ましいと思います。自分の気持ちに正直で、結果も残している、彼女の強さが」
千春は、畳みかけるように続ける。
「だから、彼女と共に居ればもしかしたら……不完全燃焼な私をやり直せるかもって。今度は、自分の音楽で燃え尽きれるのかもって」
「――人の熱を借りんじゃねぇよ。燃えたりねぇなら勝手に燃えてろ」
不意に涼夏の声が聞こえた気がして、千春はぎょっとしながら振り返る。すると大股でこちらに近づいてくる本人の姿と、後方から慌てたように追いかけてくる蓮美の姿が遥か遠くに見えた。
「ご……ごめん、千春ちゃん……涼夏さんに問いただされて……話しちゃった」
全力疾走は流石に堪えたのか、息を弾ませながら蓮美が千春に頭を下げる。千春は苦笑しながら「いいよ」と彼女をなだめると、涼夏へ向き直った。
一方の涼夏は、千春など目もくれずにチャイムの真正面へ顔を寄せる。
「出番だ。支度しろ」
「あ……の……わたし……」
「練習したんだろ。だったら成果を見せてみろ。判断すんのはそれからでも遅くねぇ」
すっかり事情を知ったらしい涼夏の言葉に、千春はもう一度だけ蓮美に目配せをする。蓮美は何も言わず、「重ね重ねごめん」とジェスチャーだけで改めて謝った。
「で……も……どう考えても……練習不足で……足を引っ張ってしまうと」
スピーカーの向こうで、緋音の返事は相変わらず煮え切らない様子だ。涼夏は盛大にため息をつく。
「あのなあ、あたし、いつだか言わなかったか? バンドってのはステージ上で完成するんだ」
「そう言えば、そんなこと……」
ようやく息が整ってきた蓮美が、記憶を掘り起こして頷く。
「上手い下手じゃねぇ。その時の形で完成するんだ。その時の全力をステージの上から客席にぶつけるんだ。面子とか、外聞とか、そういうの全部投げ捨てて演奏する――それが許されるのがロックだ」
「……ロック」
「今の自分を空っぽになるまで出し切ってみろ。まっさらになったところに、ありったけのロックンロールを詰め込んでやる」
涼夏が言い切ってからしばらくして、内線がガチャリと音を立てて切られる。緋音からの返事は無かったが、すぐに別のガチャリ――玄関の扉が空く音が聞こえる。
扉の向こうには、青いサマーワンピースに身を包んだ緋音が、最初で最後の一歩を踏み出そうと、大きな深呼吸をしていた。
「わたしも……一度くらい青春っぽく……燃やしてみたい」
それが、先ほど自分が口にした言葉への返答だと気づくのに、千春は少しだけ時間が必要だった。彼女は照れ隠しのように噴き出して笑うと、めいいっぱいの笑顔で手招きをする。
「私たちを信じてくれたら嬉しいな」
その言葉に、緋音は小さく、しかしハッキリと頷く。
そして一歩は、踏み出されたのだ。