ライブ出演が決まってから約二週間後。本番の日を迎えた涼夏たちは、大学からほど近いところにある、軽音サークル御用達の貸しスタジオを訪れていた。ライブハウスと大見えを切って呼べるほどの箱ではないが、設備も収容人数もそこそこかつ安いという地方の苦学生のオアシスのような場所だ。
「出演引き受けてくれてありがとうございます。おかげでチケットノルマも早めに達成できて助かりました」
開演に向けてステージのセッティングが行われる傍らで、涼夏たちは会場の下見を兼ねて、サークル長から今日一日の流れの説明を受けていた。短めのボブカットが似合う細身の女性であるサークル長に、蓮美はどこか見覚えがあった。喉元にひっかかるようなもどかしさを経て、ようやく、涼夏と学校のスタジオに押し掛けた時に部屋にいたギタリストだと気づいたころには、説明らしい説明はすっかり終わってしまっていた。
「ギターレスバンドですか。どんな演奏になるのか楽しみです。後でバンドごとに順番でレベルチェックの音出ししますので、サクソフォンの方にマイク必要かどうかはその時に判断しましょう」
「今のところ、こっちから細かい指定はねーから任せる」
涼夏の投げやりな返答で締めくくられ、打ち合わせは一旦解散となった。蓮美が、詰まっていた息を吐きだすように、大きく深呼吸をする。
「ライブハウスってこんな感じなんですね……初めて来たせいか、なんだか落ち着かないです」
「私は高校の時に軽音部のライブとか付き合いで行ってたけど、ライブハウスには独特の空気があるよね。いい意味での暗さと圧迫感というか。アングラ感って言ったらいいのかな」
「確かに……吹奏楽の演奏って、天井が高くてひらけたホールでやるから、なんだか正反対って感じがする」
千春の言葉に蓮美が同調するように頷いたが、涼夏がそれを鼻で一蹴する。
「都市部に行きゃ広い箱もあるし、野外フェスとかになりゃ文字通り青天井だぞ」
「そっか……」
「でも、どこのバンドもスタートはこういうもんだ。なんつーか……帰って来たって感じはするな」
珍しくアンニュイな表情で設営中のステージを見つめる涼夏の横顔に、蓮美は自然と惹き付けられた。比較的、感情を表に出しがちなように見える涼夏だが、ハッキリと温度差があるのは怒っている時ぐらいで、他は何を考えているのかイマイチ周りの人間には分からないところがある。普段から突拍子もないことを考えているせいもあるのだろうが、それ以上に自分のことを多くは語らないから、というのが一番の理由だろう。
そもそも、身の上を知るより音を聞いてくれ、という性分だ。彼女なりに理に叶った生き方をしているつもりだが、人付き合いという点では見直すべきところもあるだろう。
そんな横顔が、不意に不機嫌そうな苛立ちで歪む。
「つーか、緋音はどこ行ったんだよ! あいつ、練習はちゃっかり見学するくせにライブは来ないつもりか?」
「チケット買ってましたし、来ると思いますよ。お客さんとして開場時間になってから」
「それじゃあテスト間に合わねーじゃねーかよ。しゃーねぇ……とりあえずボーカルの音量は最大にしておいて貰うか」
「まだ諦めたわけじゃなかったんですね」
「たりめーだろ」
苦笑する千春へ、涼夏は大真面目に言い放つ。この二週間、涼夏はあえて緋音にボーカルに関して執拗なアプローチを行わなかった。それで油断させておいて、当日のステージに拉致して立たせてやろうという算段だったが、そもそも来ていないのでは話にならない。
「とりあえず、今すぐ来いってメッセージは送っとくか……あ、いや、あたしあいつの連絡先知らねーわ」
「それなら、私が送っておきますよ。来るかは彼女次第ですけど」
「どうにか来させろ」
んな無茶なと思いつつも、千春は言われた通り「来れるなら早めに来て欲しい」と緋音にメッセージを送る。千春たちはこの二週間で何度も、緋音のカラオケでの歌練習に力を貸していた。三度目ともなると、緋音も千春たちのことに慣れて来たのか、少しずつ打ち解けて来たような様子があった。はじめはおっかなびっくり、恥ずかしそうにしていたカラオケも、ふたりの前では普通に歌える程度にはなっている。
しかし、やはりネックになっているのが声量だ。これは恥ずかしいとかそういう話ではなく、そもそも大きな声を出すという経験をしたことが無いせいだろうと千春たちは睨んでいる。それさえ除けば、美しい容姿に透き通たウィースパーボイスを持つ緋音は、人を惹き付けるだけのポテンシャルを持っているとも思った。
「小学校のころ……一度だけ教会の聖歌隊に入ったことがあるんです……綺麗な衣装を着てクリスマス・キャッロルを歌うのが小さい頃の夢で……」
歌練習の休憩時間で、緋音はふたりにそんな身の上話を語った。
「でも、ご存じの通りの声量で……その、みんなにやる気が無いように思われてしまって……居づらくなって……やめてしまいました」
そう言って、緋音は控えめに笑う。
「せっかく振り絞った勇気を無駄にした自分に……ずっと後悔してます」
だから、今回の誘いはひとつのチャンスなのではと思ったという。
「でも……いざ歌ってみると、歌っただけ自信がなくなっていって……おふたりは、上手く演奏できないとき……どうやって乗り越えているんですか……?」
「私は……とにかくできるようになるまで練習しました。何度でも、何度でも。うまくできるようになったら『やった!』って感じで」
「『これだけ時間をかけて練習したんだぞ』っていうのもひとつの自信になるよね。緊張する後輩ちゃんたちにも、よくそういうことを言ってたよ」
何十人という編成で演奏をする吹奏楽に於いて、ベストな演奏とは、練習の時のベストを再現するという意味合いが強い。だからこそ何度も練習し、その「練習時のベスト」を日々更新し続けるのだ。
「だから、涼夏さんのいうバンドはステージ上で完成するっていう感覚は、まだピンと来てないかな。言わんとしてることは、分からなくもないんだけど」
「千春ちゃんは分かるんだ……私は、全然」
ふたりの脳裏には、やはり「練習で出来ないことはできないのだ」という感覚が染みついてしまっている。ある意味で、コンクール成果主義の中高吹奏楽という環境にいたための職業病のようなものなのかもしれない。
「緋音さんの挑戦したい気持ちは後押ししたいです。反復練習っていうアドバイスくらいしかできないけど、せめてこうして一緒にカラオケに行くくらいは」
「……ありがとうございます」
言葉で目先の不安を取り除くことはできるけど、根本的な解決策を示すことはできない。そのもどかしさを、千春と蓮美は、これ以上ないくらいに感じていた。
そんな事を思い返している間に、千春のスマホに緋音からの返事が返って来た。メッセージアプリを開いて目を落とした瞬間、彼女の口から「えっ」と戸惑いが零れる。
――すみません。やはり私いけません。迷惑をかけるばかりで本当にすみません。
「どうした?」
「あ……いえ、その……」
不審がる涼夏に、流石の千春もどうすべきか迷いが生まれる。
これは、このまま伝えて良いことなのだろうか。
伝えるにしても、どう伝えるべきなのだろうか。
涼夏の性格を考えれば大事になるのは目に見えている。
暴れるだろうし、その結果、何をしでかすかも分からない。
「ちょっと、飲み物を買ってきますね」
迷った末に、千春は一度、緋音からの返事を隠すことにした。
せめて、どう対処するのがベストなのかを考えるだけの時間が欲しかった。
(……どうしよう)
答えは、まだ何も見えていない。