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第7話 ロックにギターは必要ねぇ

「……っ!」


 蓮美は、涼夏を振り切るように背を向けて、再び走り出した。涼夏も「ああ、くそっ!」と悪態を吐きつつ後を追う。

 絶対に追い詰める。

 涼夏にはその覚悟があった。一方で蓮美に、絶対に振り切るという覚悟があったのかどうかは、本人ですらわからない。あるのは、自分を取り巻くものすべてから逃げたいという一心だけだ。

 向き合いたくない。音楽とも、自分の本心とも。

 ひたすらに遠ざけることが彼女なりの処世術であり、自分で自分を傷つけないための手段だった。


 しかし涼夏は、そんな蓮美の心を「うるせぇ」と一蹴した。まさか、そんなこと言われるとは思ってなかった蓮美にとって、自分自身のこれまでを丸ごと否定されたような衝撃だった。


 だから逃げた。


 未だに高校時代のことを引きずっている蓮美に、涼夏を受け入れるだけの心の余裕はない。自分が変わるのではなく、周りを――世界の方を変えてやろうという彼女は、蓮美にとってあまりに眩しく、大きすぎた。


 闇雲に逃げていただけの蓮美は、とっくに自分が追い詰められていることに気づく。そして涼夏も、ようやく追い詰めたことに気分が高揚する。行きついたトイレが決戦の場だと感覚で理解した。この際、床のタイルが汚いだの、そういうことはすべて意識の外にある。抱えてきたスピーカー付きのアンプに相棒のムスタングを繋いで、真正面から喧嘩を売るだけだ……と。


「あの……涼夏さん、何を」


 戸惑う蓮美の声も、今の涼夏には聞こえていない。いや、口から発せられる音なんて、そもそも意に介していない。涼夏が欲しいのは、あの金色のボディから放たれる、脳天を突き抜けるようなサックスの一声だ。

 初めて他人の音が欲しいと思った。


 いや……初めて、か?


 ベースを爪弾きながら、涼夏は三年前のことを思い出す。高校生として、何も考えずに軽音部で音楽をやろうと思っていた涼夏は、レベルの低さと向上心のなさに退屈を覚えていた。いや、厳密に言えば向上心はあるのだが、涼夏の目からしたら「お遊戯会を頑張ろうね」くらいのものにしか映らなかった。

 すると、同じ世界を見ていた女が身近にもうひとり居た。それが向日葵だった。

 もちろん、ふたりの心には高校生特有の世間知らずさと、生意気さもあった。しかし、その生意気を貫き通してできたのが〝サマーバケーション〟だった。


 あの時、涼夏は向日葵の音を「欲しい」と思っただろうか。よく覚えていないし、今となっては知る術もない。少なくともサマバケはもう過去のものだ。

 過去を破壊するために、涼夏に今必要なのは蓮美の音だった。


「本当にもう……やめてください!」


 何を叫ばれてもやめる気など毛頭ない。必要なのは言葉じゃなく行動だ。不躾なベースに喧嘩腰で応える演奏でも、涼夏を突き飛ばしてトイレから飛び出す力ずくの逃走でも、どっちだっていい。

 唯一、蓮美がその場で呆然と立ち尽くしたままなら、涼夏は諦めて立ち去るかもしれない。蓮美の過去は涼夏に関係ないが、まあ、同情はする。だが、感傷に浸ったまま足踏みし続けたいのなら勝手にしろ。そういう人間を、涼夏は求めていない。

 これから結成するバンドは、涼夏にとっても大勝負になる。だからこそ、勝負できるだけのカードが欲しい。ポーカーで、ブタでハッタリをかますようなバンドは願い下げだ。

 欲しいのは、自分に並ぶ〝何か〟を持ったメンバー。そして、自分にいつでも食って掛かる、音楽に対して血の気の多いメンバー。


 〝飢え〟と〝反骨〟。

 音楽による〝下剋上〟だ。


 サマバケで成し遂げられなかったことを、今度こそ成し遂げる。


 そして蓮美は――金色のサックスのボディで涼夏に応えた。半べそをかきながらも、激しい怒りと熱で燃え上がる瞳で涼夏を睨みつけ、彼女の暴力的な演奏に真っ向から立ち向かう。精錬された音の波が、涼夏のステージをまばゆいばかりに塗り替えて、浸食する。


(嫌だって言ってるのに、いつまでも、どこまでも……本当に勝手で、最悪の人……!)


 蓮美の演奏を満たしているのは、ただひたすらに涼夏への憤りだけだった。大学で音楽をやろうなんてこれっぽっちも思っていなかったし、なんならゼミやサークルで音楽以外の楽しいことを探そうと、希望すら抱いて進学してきたのだ。

 それなのに、自分勝手な都合で再び音楽の世界に引きずり込もうとして、話も聞いてくれなくて、終いにはずっと胸につかえていたトラウマまで「知らねぇ」と一蹴されて。

 これまでの自分を根こそぎ否定されたような、最悪の気分だった。

 しかし……心のどこかでは、否定されたかった自分もいた。トラウマに屈して、それが義務みたいに殻に閉じこもっているのが正しいと信じ込んでいる自分を、誰かが違うと言ってくれることを。

 欲しかったのはきっと承認だ。


 ――お前は、お前の演奏を続けて良いんだ。


 誰かがそう言ってくれるのを、蓮美は待ち続けていたのかもしれない。誰とも知らない、なんなら一生現れなかったかもしれない、手を引いて殻から引っ張り出してくれる〝誰か〟を。


 放課後のトイレでの演奏会は、周囲の学生たちから見たら意味不明で、滑稽ですらあっただろう。しかし、彼女たちは真剣だった。時も、場所も、場合も、TPOの全てをかなぐり捨てて、ただひたすらに音楽に向き合っていた。

 やがて……どちらからともなく音が止む。互いに息を飲んで大粒の汗を滴らせる中で、涼夏は本能むき出しのらんらんとした上目遣いで蓮美を見つめる。


「あんたでいく」

「は?」

「バンド」

「いや、わけが分からないです」


 途方に暮れる蓮美に、涼夏はニィと八重歯をいっぱいに見せて笑った。


「ロックにギターは必要ねえ。これが、あたしらの音楽だ」


 一方的な宣言に、蓮美はせき込むように待ったをかける。


「ま、待ってください! 私、本当に無理で――」

「無理? 今、できたじゃねぇかよ。合奏」

「そ……それはその通りですけど! これは自分勝手で諦めの悪いあなたに対して、怒りやらなにやら、鬱憤が爆発した結果というか……!」

「じゃあ、あんたを怒らせ続けたら、今みたいな〝合奏〟ができるわけだ」


 ケタケタと笑う涼夏は、これ見よがしに〝合奏〟の部分を強調して煽る。蓮美は顔を真っ赤にして、ふいと視線を逸らした。


「で、どうだったよ? 久々に合奏してみた感想は?」

「知りません!」

「あたしは最高だった。ここ二年くらいで一番興奮したセッションだった。やっぱ、あんたと音楽やりてーわ」


 むくれる相手に、涼夏は満面の笑みを浮かべる。悪戯好きな子供のように、純粋で裏の無い表情を前にして、蓮美の澄ました口元は次第に引くついたように歪む。目元には、大粒の涙があふれていた。


「わた……私も、思いっきり吹けて……楽しかった、ですぅ……!」


 音楽をすることを望まれなかった高校時代の記憶を吹き飛ばしてしまうほど、蓮美にとって涼夏との演奏は刺激的だった。調和を良しとする吹奏楽の世界では、決して得られなかった充実感。思いっきり演奏して、音をぶつけ合って、音で喧嘩をする。

 ずっと押し込めていた、まっさらな自分をさらけ出した気分だった。


「過去形にすんじゃねぇよ。今、ここで結成すんだから」

「トイレでの結成は……なんかイヤ……!」

「うるせぇ! ここに逃げ込んだテメーを恨め」

「それは……その通りですぅ! ごめんなさいぃぃぃ!」


 外の雨は激しさを増して、蓮美の嗚咽はかすかな雑音程度にしか、校舎に響くことは無かった。だから、このことを知っているのは当事者のふたりだけ。

 ここが、涼夏にとっても新たな出発点となるのだ。

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