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第6話 うるせぇ!

 蓮美がひと息ついたのも束の間、サークル棟の方から涼夏が勢いよくやってくる。


「見つけた!」

「わ……!?」


 ベースを背中に背負った姿は、そのままスタジオを飛び出してきました感が満載だ。姿が見えるなり、蓮美はまた走り出す。あんな調子で飛び出して来てしまったら、今さら戻るわけにも、あまつさえ演奏するわけにもいかない。捕まらないために今は逃げるしかなかった。

 問題は、外が相変わらずの雨ということ。傘を持ってきてなければ、楽器を雨にさらさず家に帰る手段はない。大学内でどちらかが諦めるまでの、根気比べの鬼ごっこ。

 ともすれば、どちらが有利なのかは一見明白だ。


「あいつ、意外とはえーな……!」


 ところが、思いのほか蓮美の脚は速かった。これまでの人生をベースばかりに捧げてきた涼夏と違い、サックスに捧げてきた蓮美は体力作りも練習の一環だった。

 体力、体幹、肺活量。

 息を使う楽器を極めようとする人間はすべからく、運動部並みのトレーニングを強いられる。蓮美とてブランクこそあっても例外ではない。小動物のような身体に、同世代の女子をはるかに凌ぐポテンシャルを持っていた。

 次第に距離が離されそうになって、涼夏は根性だけで追いすがることになる。


「クソッ、待てって!」

「嫌です!」


 放課後の大学は既に人もまばらだが、サークル活動や、居残りで課題をしている者はいる。ドタバタと鬼ごっこを繰り広げるふたりは、奇特な存在に映っていることだろう。もっとも、ふたりに声をかけるほど肝の据わった人もいない。


「お前……音楽嫌いなのか!?」

「そうじゃないです!」

「じゃ、なんで演奏嫌がんだよ!?」

「先輩みたいな〝強い人〟には分かんないことです……!」


 言葉でいくらか気を引きながらも、涼夏の手はギリギリのところで蓮美に届かない。届きさえすれば、すぐに羽交い絞めにして捕まえてやるのにとやきもきするが、どうにもこうにもらちがあかない。

 ここは一か八か、蓮美の背中に投げかけた。


「分かった! とりあえず捕まえないし、演奏もさせないから、一旦止まれ! ……疲れた!」


 へとへとになって立ち止まった涼夏の気配に、蓮美も徐々にスピードを落として振り返る。多少は息が弾んでいるものの、余裕しゃくしゃくな彼女の表情を前にして、涼夏は自嘲気味に笑う。


「体力バケモンかよ……元吹部か? あいつら、下手な運動部より鍛えてるからな」

「は、はい……あ……いえ」


 蓮美は、どっちつかずの返事で顔を背ける。


「ちゃんと部活に入ってたのは中学校の時だけで」

「あの日のスタジオ……ブランクがある音には聞こえなかった。吹部じゃないなら、どこでやってた?」

「どこにも……好きな時に、ひとりで演奏してただけです」

「合奏が嫌いだから?」


 涼夏の問いに、蓮美が躊躇いがちに頷く。


「何かあったのか、高校で」


 確信があったわけじゃなく、涼夏の問いは言うなれば女の勘だ。自分もまた、数年前まで女子高生という社会の中で生きていたからこそ、物言わずに通じる何かを感じ取ったのかもしれない。

 それを裏付けるように、蓮美は肩を震わせて口を噤んだ。言葉に出すことで、嫌な記憶をリフレインさせなければならないことを恐れているかのようだった。

 涼夏は、無言のまま彼女を見つめ続ける。その圧に負けたように、蓮美がぽつりとつぶやいた。


「演奏……めちゃくちゃにしちゃったんです。夏の大事な大会で」

「んなこと……ミスぐらいで責めるやつ居るのかよ?」

「違います。その……上手くて、めちゃくちゃにしちゃったんです、私」

「はあ?」


 意味が分からず、涼夏はただ首をかしげることしかできない。


「通っていた中学が吹奏楽の強豪で、私、いっぱい練習して、いっぱい上手になったんです。全国も行って……結果は振るわなかったけど、楽しい思い出でした」


 蓮美が、言い訳のように言葉を重ねる。


「それで、高校も県内の強豪校に入りたかったんですけど……私、入試の日に熱出しちゃって、受験失敗して。それで……滑り止めで受かっていた私立に。ただ、そこは……その、吹奏楽は特に有名なところじゃなくって」

「要するに弱小校だな」

「……はい、言ってしまえば。でも、結果は結果だって自分に言い聞かせて……もちろんコンクールで良い結果を出せたら嬉しいけど、私は単純に演奏するのが好きだったから……当時は合奏も……だから、居場所さえあれば満足できるかなって、そう思ってて」


 そこまで口にして、蓮美が大きく息を飲んだ。額に脂汗がにじみ、どことなく、呼吸自体が苦しそう。彼女は短い深呼吸を重ねて、絞り出すように続ける。


「別に、吹奏楽部の雰囲気も悪くなかった。パートの先輩たちも良い人で、初めのころなんて『期待の新人だー』なんて喜んでくれたりして……歓迎会とか。私も、ここで新しい仲間と演奏できるんだって嬉しくて、練習に力を入れました。なんなら、中学のころよりも。ちょっとでも上手くなって、みんなの力になりたいって……でも、私は……〝コンクールで上位を目指さない学校〟のことを、何も分かっていませんでした」


 細い腕が、抱えた楽器ケースをぎゅっと抱きしめる。


「ある日、放課後に居残りで練習していたら、別のパートの知らない先輩が来て『そういうのやめてくれ』って言われたんです。『自分たちが頑張ってないように見えるから』って。中学のころは、朝練も居残りも当たり前だったんです。上手くなるには練習するしかないから……でも、その学校ではそこまでするような人は居なくて……私、頭が真っ白になって、何も言えなくて」

「馬鹿だろ。やる気のないヤツなんて、放っときゃいいんだ」

「先輩ならできるでしょうね。でも私、そこまで強くないから……言われた通り、学校で練習するのはやめました。それからです。なんとなく……部内で私に対する当たりが強くなったなって感じたの」


 蓮美は、震える声で、どこか吐き捨てるように言う。


「練習中、嫌味っぽいこと言われるようになったり。陰で笑われるようになったり。直接的にイジメられたわけじゃないんですけど、私を避けるような空気は感じられて。それでも、私はまだ信じてました。コンクールで良い演奏ができたら、みんな見直してくれるんじゃないかって。その一心で、練習して、練習して、練習して――そして大会当日、私は誰よりも上手く演奏しました。代わりに〝合奏〟を台無しにして」


 その声は、もはや泣いているのか、怒っているのかも分からなかった。ただ、一度口にしてしまった言葉がせき止められなくなっていることだけは、涼夏の手に取るようにわかった。


「正直、鬱憤もあったと思います。陰口叩かれた私の音楽を思いっきりぶつけてやるって。でも……駄目なんです、それじゃあ! 吹奏楽は、誰かひとりが上手すぎてもいけない。音のバランスがめちゃくちゃになって、それはもう、音楽ではなくなる。私が、そうしたんです! 周りなんて見ていなかった! 仲間の音も聞いていなかった! ただ私を認めてって! それだけで!」


 蓮美の視線が涼夏を捉える。流石の涼夏も、人を寄せ付けない彼女の圧を感じ、後ずさるように身構える。


「演奏はボロボロでした。もちろんコンクールの結果も悲惨なものです。大会の後、パートの三年生の先輩が泣いてました。これが高校最後の演奏だなんて悔しいって。先輩は私を責めなかったけど、私は自分がしたことを重大さをようやく理解しました。私を〝仲間〟にしてくれた先輩に、私は最低の演奏をプレゼントしてしまった。みんなが私を見ていました。みんなが私を蔑んでいました」


 蓮美は、再び視線を外して、自嘲するように笑う。


「全部、自業自得です。もはや居られなくなって吹奏楽部を辞めたのも、合奏が嫌い……ううん、怖いと思うようになったのも。いい演奏さえできれば、音楽に言葉はいらないって思ってたんだけどなぁ。そもそも……良い演奏じゃ無かったのかもしれません、私のは」


 最後の方は鼻を啜る水音が言葉に混ざっていた。蓮美はハンカチを取り出して、目元を優しく拭う。

 途中から口を挟まずに聞き手に回っていた涼夏は、両手を無造作にポケットに突っ込んで、「あー」と小さく唸りながら天井を見上げる。


「……で?」


 たったそれだけの短い返事。蓮美は、何を問われているのか分からず、戸惑い気味に首をかしげる。


「で……って、何が、ですか?」

「何つったら良いかな……まあ、なんだ……それとこれと、何か関係あるか?」

「はい……?」


 予想外の返答に、蓮美は赤くなった目をぱちくりさせる。


「関係って……その……私が合奏できない理由をちゃんと話したら、先輩も諦めてくれるかなって……あの……」


 次第に自信なさげに声が小さくなりながら、蓮美は視線を泳がせた。


「私、あの……かなり勇気出して、今の話したんですけど……?」

「うるせぇ! テメーの勇気とか、あたしが知るかっ!」

「ええっ!?」

「あんだけスゲー音を出せるんだ、そりゃ沢山練習して、大変なこともあったろうさ。だが、事情なんて一ミリも知らんあたしが、今のあんたの演奏を聞いて、今のあんたが欲しいと思ったんだ」


 涼夏は、肩をいきらせながらドカドカと蓮美に距離を詰める。蓮美は予想外の癇癪を前に、恐怖で一歩も動けず、震えながら立っているだけだった。


「ライブに行って、目の前のヤツがなんでこんだけ良い演奏してるのか、その人生を観客が知ってんのか? 知らんだろ!? 逆に事情を知ったら、そいつの演奏が上手に聴こえんのか? それも違うだろ!?」


 言葉尻の勢いに、蓮美は半ば強制的に頷かされる。


「テメーが言ったんじゃねぇか、音楽に言葉はいらねーって。テメーを否定するヤツなんざ放っておけ。大衆音楽に傾倒した演奏なんて、あたしはまっぴらごめんだ。聴いたヤツらを力ずくで振り向かせてナンボだろ? それがロックだ! それでこそロックだ!」


 涼夏は、目と鼻の先のツバが掛かる距離で矢継ぎ早にまくしたてた。


「あたしは、あんたの音が欲しい。吹部を辞めても、音楽は辞めなかった――テメーは何も間違ってねぇって、誰にも届かない場所で、それでも叫び続けていたその音が欲しい。立ち姿だけであたしを振り向かせた、あんたが欲しい!」


 蓮美の瞳には、いつの間にか大粒の涙が溜まっていた。涙の意図など、涼夏は知る由もないし、興味もない。ただ、自分が〝良い〟と思った音を、まるで悪いものであったかのように語られたのが我慢ならなかった。


「あたしは弱小校のザコ部員じゃねぇ! あんたの演奏に絶対負けねぇ! だからバンド組め!」


 その無神経で裏表のない真っすぐな言葉が、蓮美の頬を真正面からはたいたのは言うまでもない。彼女が流したのは、そういう涙だ。


 同情でも忖度でもない、これまでの自分をありのままに肯定してくれる人に出会った時の――

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