涼夏は翌日からも毎日飽きずに学食で蓮美が現れるのを待ったが、結局その週は一度たりとも顔を見せることはなかった。おそらく警戒されているのだろう。
勝手に待っているのに待ちぼうけを食らった気分の涼夏は、日に日に苛立ちが態度に表れていったが、週末にもなると半分諦めも混じるようになった。
もっとも蓮美のことそのものを諦めたわけではない。
――あのサックスが欲しい。
これまでギターやドラム以外の演奏にはてんで興味が無かったのに、蓮美の演奏にはただの一声で心を奪われた。誰かのライブに行けば、あいつの演奏上手いな、一緒にバンドやってみたいなと思う相手もいたが、明確に「自分のものにしたい」と感じたのは初めてだ。
それほどに、蓮美の演奏は強烈だった。
(でも、サックスのいるロックバンドって何だ?)
これまでギター、ベース、ドラムという典型的なスリーピースに傾倒していた涼夏にとって、いまいちピンとこない。金管バンドはどちらかと言えばジャズとかそちらの領分というイメージが拭えない。
試しにスマホを取り出して「ロック サックス」と検索をかけてみると、思いのほかヒットするものがあった。
(ふぅん、意外とあるもんだな)
主に海外のバンドばかりだが、決して珍しいものではないらしい。直感もアテになるもんだなと、涼夏は自分の音楽センスを見直した。
彼女は自分のことを音楽的なセンスがある人間だとは一ミリも思っていない。ベースだけは実直に続けて来たものの、ピアノも弾けなければ作曲だってできない。サマバケだって、オリジナル曲を書いていたのはギタボの向日葵だ。
その分、ベースだけはできる、というのが涼夏のプライドだ。それがサマバケ崩壊に繋がってしまったわけだが。
(具体的なビジョンはなんもねーけど、とにかく今はあいつが欲しい。あいつをあたしのバンドに引きずり込む)
逃げるのなら捕まえるだけ。鬼ごっこなら小さい頃から大の得意だった。
そんな涼夏の思惑もつゆ知らず、週明けの蓮美は心機一転、清々しい気持ちで大学へと登校した。しばらく学食を利用しなかったのは、もちろん意図的なことだ。千春からの提案で、昼食は弁当や購買のパンで過ごしていた。
「顔さえ合わせなきゃ、そのうち諦めるよ」
そう言って励ましてくれた千春の言葉を信じて、一ヶ月程度は様子を見るつもりだった。
広い講義室に席を確保して、鞄の中からノートと筆記用具を取り出す。教員がプロジェクターの準備を始めて、そろそろ講義が始まるかと言う時、ドカリと隣の席に腰を下ろした学生がいた。
「よう」
「……!?」
涼夏だった。蓮美は声にならない悲鳴をあげる。まさか講義中まで付きまとわれるとは思っておらず、口を鯉のようにパクパクさせたまま動けなくなる。
「な……何をしてるんですか?」
「講義受けに来たに決まってんだろ。あたしもこれ取ってんだよ」
「……あっ」
その言葉に、蓮美はずっと喉につっかえていた違和感を飲み込む。楽器店以前に、どこかで涼夏に会っていたような気がする既視感の正体だった。
「そっか……先週も隣だった」
「覚えてなかったのかよ」
自分は覚えてたのにと涼夏は文句を垂れると、蓮美は「ごめんなさい……」と肩をすぼめる。どうにも居心地が悪くて席を立ち上がろうとするが、涼夏に腕を掴まれて無理矢理座らされてしまった。
仕方なく、そのままふたり並んで講義を受ける。
「何で逃げるんだよ」
教員が壇上で講義の前口上を述べている中で、涼夏が声を潜めて尋ねる。蓮美にとっては「当然でしょ。察してよ」という気まんまんだったが、流石に口には出せず、何とも言えない愛想笑いで流そうと試みる。
「いや、別に……」
「何だその煮え切らない返事は。まあ、それより、もっかい。今度はちゃんと聞かせろよ」
「はい……?」
「演奏だよ。サックス」
涼夏は、退屈そうに頬杖を突きながら、切れ長の視線を蓮美へ向ける。
「……音楽、好きなんですか?」
「嫌いだったら、なんでスタジオで会うよ」
「ああ……まあ、そうですね……」
あまりにもどうでもいい会話。蓮美は、ただただ話題を逸らしたい一心で、適当に思いついた言葉を投げかける。相手は、人が大勢見ている学食でひと騒ぎ起こすような人間だ。無視と沈黙がどのような結果を及ぼすのか、気の小さい蓮美の思考では想像すらできない。
「バンド、やってるんですか……? 軽音サークル……?」
その問いに涼夏が答えるのに、一拍の間があった。涼夏は視線を蓮美から外して、正面の講義スクリーンを見つめる。
「やって〝た〟。今は無所属。あとサークルは関係ねぇ」
「外部ってことですか……社会人サークル的な」
「高校の時に組んでたんだよ。軽音部でくすぶってたウマが合う――いや、実力だけはある面子で」
「高校って……えっと先輩、ですよね? 何年生……?」
「二年だが?」
それが何か、と涼夏は再び視線を送る。互いの視線がぶつかって、蓮美はバツが悪そうに顔を背ける。涼夏が、小さく舌打ちをする。別に、どうでもいい質問を重ねることに怒っているわけではなく、単にびくついて言動のハッキリしない様子が気に入らなかった。
「で、いつなら良い? 場所はこの間のスタジオで良いだろ?」
「ま、まってください。私、演奏するなんて」
「何か不都合あるか? 演奏する〝だけ〟だぞ」
だけ――その瞬間、蓮美は眉間に皺を寄せる。普段は無神経な涼夏も、流石に目の前の少女が放つ明らかな嫌悪感に気づく。
「忙しいのか? バイトか?」
「そういうんじゃなくて――」
そこまで口にして、蓮美は言葉を飲み込むように口を噤む。やがて観念したように小さな笑みを浮かべた。
「分かりました。演奏はします」
「おう。その気になったか」
「ですが、それでおしまいです」
彼女は笑顔のまま、矢継ぎ早に投げかける。
「バンドには入りません。私、合奏が嫌いなんです」
「あ?」
言葉の意図が読み取れず、涼夏は眉をひそめて首をかしげる。
「人と演奏するの、苦手なんです。だから、一度きり聞かせるだけ……それだけです」
「……何の交換条件にもなってなくないか?」
「演奏は聞かせるから、代わりに諦めてくださいって……そう言ってるつもりですけど……ホントは人前で演奏するのもイヤなのに」
「いや、無理だろ」
涼夏は真顔で言い切る。
「ワンフレーズ聞いただけで好きになったのに、それをフルで聞いて諦めるとか、どう考えても無理だろ。いや、まあ、改めて聞いてみたら微妙ってことはあるかもしれんけど」
おそらくそれは無いと、涼夏は心の中で反芻した。蓮美がもどかしそうに口をもごもごさせる。
「じゃあ……どうやったら諦めてくれるんですか……?」
「無理だ」
再度否定して、涼夏は蓮美の鼻先に人差し指を突き立てる。
「絶対に手に入れる。むしろ、自分からやりてーって言わしてやる」
売り言葉と一緒に、涼夏はニヤリと不敵に笑った。怖いもの知らずの笑顔だった。
蓮美は目を丸くしながら息を飲んで、涼夏のすっかり固くなってテラテラと光る指先を見つめることしかできなかった。