大樹よりさらに数時間歩いた先でようやく音川たちは目的の町へと辿り着いた。町の名をグリア。町に入るその前にやることがあった。移動式住居の設置だ。
アフェリパ族たちは町から少し離れた広場に荷物を降ろしさっそく組み立てにかかる。このあたりから町から離れた森の中であるが周囲に木はなく、土は円形に踏み固められずいぶんと歩きやすい。どうやら何度もここで生活しているらしい。
「しかし困ったもんだ」
ヒミタ爺は腰を伸ばしながらぼやき、音川は荷解きを手伝いながら何が困りごとなのか問いかけるとヒミタ爺は腰を叩きながら言った。
「マミが帰るための裂け目のことだ。消えちまったとなるとあれが無いとわしらも困る。あの獣どもが現れてから近づけていなかったが、そっちの世界でしか取れない薬草があってな。栽培も試みたが、こっちの土ではどうにもならん」
「あの獣は前はいなかったの?」
「いつだったか急にあのあたりに縄張りにしよってな。元は暗い洞窟にいる奴らだったがどうしてかあそこに居座っている。ちょうどナハタがいなくなったころだったように思う」
あの魔法使いが関係しているのかもしれない。音川はふと考えたが、本当にそうだろうかとも考えた。
記憶の鍵の魔法は音川に思い出の椅子に座るという行動を忘れさせたが、あの時はまだ高校生で、小娘に魔法をかけるほどの価値があったのだろうかと。
獣が縄張りを移したことが罠だとして、小娘が追ってくることを見越したとしてもそこまでするのだろうか。
考えても分からない。仕方のない事とは言え、現状の持ち合わせている情報では魔法使いは記憶の断片から自分が追われることを嫌っているとしか判断がつかない。
インの顔がチラつく。魔法で記憶に鍵がかけられていると教えてくれたのは彼だ。昨晩の事もある。忘れようと別のことを考えていてもふとした瞬間に浮かんできてしまい、そのたびに心を揺さぶられてしまっていた。
「聞いているのか。マミ?」
「え?」
考えに囚われているところで自分を呼ぶ声にはっとして、目の前に一枚の鮮やかな色をした布を持つヒミタ爺が立っていることに気がついた。
「ごめん、考え事してて」
「町に入るためにどうすればいいかならわしも考えててな」
「そ、そうだよね。うん……。あれ? 普通に入ればいいんじゃないの?」
ヒミタ爺は手に持った布はアフェリパ族の民族衣装で、鮮やかな赤と緑に染色されている。
ヒミタ爺は音川の両肩にそえて大きさを確かめ、満足そうに微笑んだ。薬草の香りがふわりと漂って心地よく、どこか懐かしさを感じさせる。
「大きさは丁度よいな」
「私に? 変装するの?」
「そうだ。裾は長くして足を隠そう。そうすれば違和感もなかろう」
ヒミタ爺は音川へ服を半ば強引に押し付けるようにしたあと、手招きして一番最初に組み立て終わった自分のテントに音川を入らせた。
「魔法使いというのは用心深いやつらでな。契約を扱うような奴らは特にそうだ。きっとナハタが関わっているのも契約魔法の類を扱う者だろう。マミにかかっているのも似たものかもしれん。一目で異国の者だとわかるような恰好では探している魔法使いが逃げてしまうやもしれぬ。ラギに着替えを手伝ってもらうといい。それじゃあとでな」
「ラギ?」
ヒミタ爺は音川の声が聞こえなかったようで、別のところへ行ってしまった。
ほどなくしてテントの扉を潜って娘が現れた。ラギとはこの娘の名前だった。
顔や体つきを見るに歳は音川よりも下のようだ。アフェリパ族の寿命は地球人とそれほど変わらないらしいことを音川は聞いている。推測するなら年齢は高校生ほどだろうか。大人びた雰囲気のなかにどこか幼さが見え隠れしている。
娘は音川の顔をチラリと見ただけで何も言わない。
「私は音川真実。よろしくね。あなたは?」
「……ラギ」
帰って来た声は不機嫌な声色で音川は少し不安になるも自分の身に置き換えて考えてみた。知らない外国人。異世界からの人となれば不安になるものなのかもしれない。ましてや子どもだ。そう思えばこの対応も頷ける。
ラギは傍に置かれた服を手に取ると目を細めた。
「これはなに?」
「それに着替えろってヒミタ爺が言ったの」
「この服が……」
ラギは何かを言おうとして言葉を詰まらせ、なんでもないと付け足した。
音川を見据える緑色の瞳には怒りがこもっているように見え、近寄りがたい雰囲気を放っていた。
どことなく流れる気まずい空気を感じつつも、音川はラギの手を借りながら服に袖を通していく。着替えは和服の着方に似ているかもしれない。
音川は和服をきちんと着たことがあるわけではないが、表現するならこうだろうと彼女は思った。こうして異世界の服に包まれていくと彼らの一員になれたような嬉しい気持ちが湧いてきていた。
「後ろ、向いて」
音川は言われるまま後ろを向き、すると娘は服の紐を後ろからぎゅっときつくと結び、音川は少し苦し気な声を漏らした。
「苦しい。ねぇ、こんなにきついものなの。他の人はこんなに……」
その時、音川は腰に感じた違和感にびくりと反射的に体を強張らせた。腰に何か、紐以外のものが触れている。
見ると音川の腰に娘の細い両腕が後ろから前へと。ラギは音川に抱き着いていた。
「……似てる」
「あ、あの……これも着替えに必要なわけないよ……ね?」
「少し、そのままにしててよ」
五分にも満たない僅かな間。ラギはじっと音川に抱き着き、服に顔をうずめていた。音川が恐る恐るラギの腕に触れようとしたところ、ラギは驚いた猫のように素早く腕をひっこめ、音川を付き飛ばした。
「バカみたい……。バッカみたい!!」
音川はよろけて前のめりに手をついて受け身を取り、しかし振り返ると、跳ねのけられた草の扉が揺れているだけで、ラギの姿はどこにもなかった。
「昨日の夜だがは何かあったかい?」
町へと出る前、ヒミタ爺は音川に声をかけた。
あの晩、音川は涙を流しながら焚火の横を通り過ぎことをヒミタ爺は見ていたからだ。
音川は笑みを作り、気丈に振舞う。
「ううん。なんにもないよ」
それが嘘だとは誰が見ても明らかであったが、ヒミタ爺はそれ以上は聞かなかった。
少し時間をやるべきだ。この娘は帰れるかもわからない異国の地にいながらも友を探すために気を張り詰めている。まずは傍にいることがいいだろうと。だがラギは違った。
「あの耳の尖ったいけ好かない男にフラれたりでもしたの?」
「やめなさい」
「素直なのはいいことだっていっているのに今日は違うんだ。へぇ」
「時が悪いときもあると言っただろう」
ラギの呆れた物言いにヒミタ爺は彼女の頭を軽く小突いた。ラギは何が悪いのかと腕を組み、頬を膨らませて全身で抗議の意を表現した。
音川はそのようすにくすりと笑った。何気ないやり取りに今は癒される。
「気にしないで。その通りなのかも。よくわからないけど。ね、それより早く町に行こう」
「音川様」
振り向くとインが立っていた。昨晩と変わらない笑みをたたえていた。
「ほら、やっぱり。よりを戻せないかーってそんな話し……」
「ラギ」
「……ちょっと! 爺!」
ヒミタ爺はラギの耳を引っ張りながら離れていった。
音川にとって今はその気遣いが逆に困ってしまう。少なくとも町から戻るまでは彼と話したくはない。二人にされるのは避けたいところだった。インから離れようとしたが袖を掴まれ、音川は睨みつける。
「インさんは唐田さんと共に留守番でしょう。服もないし背が高くて目立つからって。そんなことすらも気に食わないって言うんですか」
「あなたは長く魔力無しの集団の中で育った。だから情が……」
インは言葉を飲み込んだ。彼もまた音川に対して意固地になっていたが、今必要なのは別の言葉だと思い留まった。
「……伝えたいのは別のことです。記憶の鍵について」