音川は額に浮かんだ汗をハンカチで拭い、シャツのボタンを一つ外した。
音川たちはアフェリパ族と共に深い森の中の道を一列になって進んでいた。彼らは今やキャラバン隊で、それぞれが荷物を持って歩き、賑やかに進んでいく。
蔦で編まれた袋や籠には食料を始めとした様々な物資をこれでもかと積み込んで、重石がわりに幼子をその上に座らせている。幼子はその特等席から一団を見下ろしながら手に持った小枝を振り回し、拙い歌を森に響かせていた。その牧歌的な光景は音川の心に幾ばくかの安らぎを与えてくれた。
彼らは非常に足腰が強い。強靭な獣脚で重い荷物を背負いながらも不安定な倒木の上や苔むした岩の上を跳ねるように進んでいく。唐田もアシストスーツの力を使って荷役を担ってはいるものの、鍛えているからといっても彼らには敵わない。
音川と唐田は一団の先頭にいた。
音川はふと時間が気になってスマホを取り出す。十五時に移動を開始して、今はきっかり十七時だ。空は明るく、どうやら時差はかなりあるようだった。
「……あの、唐田さん」
少し後ろを歩く唐田が意外そうな顔で音川を見る。不安定な足場を進むことに注力し、声を掛けられると思っていなかったからだ。
音川は一瞬声を詰まらせ、立ち止まって頭を下げた。
「ごめんなさい!」
「……何をですか?」
「巻き込んでしまったことについて。謝ってなかったので……」
唐田は音川の傍を通り過ぎ、音川は慌てて追いかけた。
「気にしないでください。仕事ですから。厄介なことになったとは思いますが、裂け目に飛び込んだのは紛れもなく自分の意志ですし、結果的に二人の命を守ることができた。私にはそれだけで充分なんです」
音川はそれでもやはり謝りたいのだろう。目を伏せ、遠慮がちに唐田を見た。
「でも……」
唐田は額の汗を拭いながら言った。
「また何かあるたびにきっとあなたは頭を下げるでしょう。ではこうしましょう。全てが終わったら反省会と称して全員に酒を奢ってください。どうです?」
唐田は実際気にしてなどいないが、彼女にとってはこの言葉が救いになるのだろうと思った。音川の顔が唐田の言葉を聞いて少し明るくなるのを見て、彼は小さく笑った。
唐田はキャラバンの後方へ顔を向けた。
「あのエルフにも声をかけてやってください。彼はここで孤立しているし、できるならそうであってほしくない」
音川は隊列の後ろを見やると最後尾のそのさらに後ろを一人で歩くインの姿があった。
「あの男、どういうわけかあなたに対しては態度が柔らかいですからね」
唐田は困ったように笑った。
夜になり、大樹の根元で野宿することになった。
ビルよりも高い大樹は一周するだけでも五十メートルほど。根元から見上げる星々は幻想的に瞬き、空を覆う大樹の枝葉は影となって星の灯りを隠すさまは空にぽっかりと穴が空いているようだった。インは大樹の根元に立ち、見上げていた。
落ち葉を踏む音がしてインが振り向くと音川が立っていた。
「音川様……」
インはの表情はどこか暗く見え、心理的な距離を音川は感じた。
「えっと。これ、どうぞ」
音川は手に持った果物をインに手渡す。それは村人から貰った果実だ。丸くて黄色がかっていて、下はほんのりと緑色をしている。
「夕食、また食べていないですよね」
「ええ、ありがとう」
インは腰を降ろし、音川も隣に座った。
ひと齧りしてみると甘く、汁気の多い柔らかな果肉が口の中でほどけて、喉を潤していく。
「お口に合いませんでしたか?」
「そんなことは。美味しいです、とても」
音川は隣で静かにしている。いつ、何と言葉を切り出そうかと膝を寄せて丸くなるように座る様にインはついおかしくなって笑ってしまった。
音川は顔を上げ不思議そうな目をインに向けた。
「失礼。謝りに来たのにどうしようか。そんな顔をしていたもので」
「わかってるなら……からかわないでください。その様子だと謝らなくていいって次は言いますか?」
「ふふ、今度はこちらが当てられてしまいましたね」
音川も笑いながら言った。
「なら謝りません。もう言っても遅いですから。……でも、もし、聞き間違いであるなら、ごめんなさい」
「それは何についての謝罪ですか?」
「それは……。私、あのときインさんが、唐田さんを囮にするって聞こえたような気がして。気が動転してたから聞き間違いだったのかもって思って」
音川は顔を上げ、笑ってみせた。
「そんなことないですよね! 私ってば失礼なことを……」
「いいえ、囮にしようとしました」
インは淡々とした口調で表情を変えずに言った。音川は言葉を失った。
インからどことなく距離を感じていたがそれは違った。自分自身が、音川自身が距離をとろうとしていたと彼女は自覚した。
親身に話を聞き、何の得にもならないのに手助けをするといい。優しく頼りになると思っていた人物が、冷酷にも音川とインを守ろうと戦う人に向けてそんな言葉を吐き出すはずがない。
囮と聞こえたのは何かの間違いである。きっとそうに違いない。彼から本当の言葉を聞き出すことに抵抗感があって、目覚めてから自然と距離を置いていたと。
「魔法を扱う才能のない人の命など、そんなものです。いくら道具を使い、戦う術を身に着け、魔法に匹敵する科学を生み出していようが変わらない。そこに価値を見出すなど、私にはとても。それに、あの時は緊急だったゆえの判断として間違いは無かった。私はそう思っています」
「唐田さんと仲が悪いのは知っています。でも戦ってくれた人にそんな……」
インは静かに様々な感情の混じった声を絞り出した。
「私が! 私が戦っておればあのような事態にもならなかった! 魔力無しに守られたなど、宗主様の側近として情けないにもほどがある!」
悔しさ、嫉妬、それから自分自信と唐田への怒りがあった。音川の見る唐田とインの衝突はごく表層の一部分でしかなく、彼自身に根差すエルフの考え方によるものだった。
音川にはインが急に違う人に見え始めていた。外見的に耳が尖っているかそうでないかの違いだけなのだと思っていた。流れる赤い血も同じ、骨格も、筋肉も。文化や歴史は違っても互いに歩み寄れるものなのだと。
「……私は何が違うのですか?」
「あなたは特別です」
インの音川を見て微笑む優しいその瞳が、少し怖く見えた。
「初めて会った時、微かにあなたからは魔力の気配を感じた。魔力無し共が蔓延っている世界でみた蕾に私は希望を見出したのです。その直観は間違っていないと信じたい。あなたと、あなたの仲間はあなたたちの世界を変える蕾と花なんです」
仲間? その仲間に室長は? 唐田さんや小松さんに西島さんは入っているの? いいえ、きっと入っていなんかいない。
心が騒めき、音川は立ち上がらずにはいられなかった。隣に座ることに耐えられなかった。
インは親切で優しく、でも好き嫌いがはっきりとして、新しいものに触れる目は少年のようで。そこに惹かれるものがあった。その全てが違った。
「誰にだって好き嫌いはありますけど……。でも、囮だなんて。あの時はあれは! 死んでもいいってそう言うんですか!」
インは立ち上がり、音川の手を握り、世間を知らぬ娘を諭すように言った。
「好き嫌いの問題ではなく、事実。我らと彼らの間に横たわる純然たる事実なのです。自然の節理を覆す事などできると思いですか? 魔力の無しにどれほどの価値が―」
「嫌! もう聞きたくなんかない!」
音川は手を払い、踵を返して皆のいる焚火の方へ向かおうとしたが踏みとどまり、焚火の方を指さした。そこではヒミタ爺や唐田が焚火を囲って笑いあっている。
「あの輪に入らないのはあの人たちが等しく価値が無いからだって言うんですか?」
インは黙ったまま。瞳に焚火の赤々とした炎が写り込んでいるが、音川には焚火以外は何も写り込んでいないように見えた。
「それなら……なんでナハタを探す手伝いなんか……」
「音川様が求めているからです。魔法の蕾を宿すあなたの探し物を手伝ってあげたいと思うのはごく自然のことでしょう。たとえ探し物が価値のないものであっても、求めるのなら与えたい」
「ナハタは物なんかじゃないし! 誰かに与えられるものでもない!」
音川は声を荒げてその場から去った。
零れる涙はやけに冷たかった。