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第55話 自由のある部屋にて

 地上から三十階の部屋。首都を望むタワーマンションのこの一室からは首都の湾とその向こうにある埋立地を一望することができる。


 埋立地には鎌首をもたげる大型クレーンの姿や、即席の壁や足場に覆われた建設現場が。そして一段と見晴らしの良い広場が。植樹の義の行なわれる儀式場を見ることができた。


 キッチンにあるケトルは注ぎ口から白い湯気吐き出し、スイッチの下がる乾いた音を立てて自分の仕事が終わったことを主に伝えた。

 青年はその音を聞きつけ、眠い目を擦りながらパソコンのある机から離れ、キッチンへと向かった。


 彼は紅茶を飲もうとしようとしていた。この世界の紅茶という飲み物をまだ試したことはなかったからだ。キッチンのどこにあるかは分からないが探せばきっとあるだろう、と楽観的にとらえ、彼はキッチンの棚や引き出しを漁った。それほど時間をかけずにそれらしき紫色の箱を見つけて、彼は封を開けた。


 文字はまだ完全には読めないが、描かれている絵と断片的に読み取れる文字を組み合わせればおそらくはそれが目的のものだと類推することはできる。


 マグカップに湯を注ぎ、早速飲んでみる。

「んー……」

 紅茶の味はあまり好みではなかった。彼は少し考え、もう一度棚を漁ってみることにした。


「あぁ、あるじゃないか」

 照明を反射して輝く黄色い蜂蜜の詰まったビンを探しだし、さっそく紅茶にたっぷりと付け足し、味見をする。


「……いいんじゃない」

 好みの味となって上機嫌となるとリビングの革張りの椅子に腰を降ろし、パソコンのモニターに目を向けながら紅茶を啜った。


 座り心地の良い黒い革張りの椅子は彼の体を優しく受け止めてくれ、天井や壁の間接照明は柔らかな光を部屋にふわりと投げかけている。

 部屋に流れる音楽はどのような音楽家の手によるものか定かではないが、心を豊に彩る旋律は確かなものだ。


 彼は久々にささやかながら優雅な気分に浸ることができた。実に何年ぶりのことだろうか。いや、むしろ初めてのことかもしれない。故郷では彼の立場は非常に好ましくないものであった。


 誰の目を気にするでもなく、しがらみもない。政治、権力争い、僻み、妬み、蔑み、全てが真っ白だ。臨時の仮住まいの中ではここが一番良い。ここには自由があった。


 椅子を左右に揺らしながら、今日のざっくりとした予定を立てることにした。

 午前は昨日に引き続き情報を収拾し、それから休憩に映画なるもの楽しんでみよう。だがそのまえに湯浴みをするのがいいだろうか。自慢の燃えるような赤い髪は他人の体液に汚れてしまっている。


 目の前の机にはパソコンの本体が一台。キーボードが一つ。モニターは四つ。

 もともと投資のために用意されたパソコンだったが今はもうその性能を活かしきることはないのだろう。それは何故か。持ち主が変わってしまったからだ。


 元の持ち主は二度とこのパソコンに触れることも、革張りの椅子に座ることもできない。持ち主は男であったが、この部屋の本来の主は、革張りの椅子の上でクルクルと回る青年によって全てを奪われた。


 青年の名はレデオン。年齢はその見た目に反して六百を越え、自ら片耳を切り落とし、宗主レニュの席を簒奪することに日々を費やし、虐殺を引き起こしたエルフの男。


 椅子を回し続けるレデオンの瞳に一瞬、異形の姿の何かが写り込んだが、レデオンは気に留めることも無く、紅茶を楽しんでいた。


 瞳に写り込んだもの。それは肉体と木が同化した人間。床に根を降ろし、青々とした葉を茂らせ、幹は禍々しく歪んで骨や内臓を想起させる。ところどころには服の切れ端らしきものが幹の隙間に挟みこまれて、鮮血のような樹液を滴らせていた。


 男は身動きが取れず、小さなうめき声を上げることもできずいた。彼の精神はとうにおかしくなってしまっており、慣れ親しんだモニターに映る情報の群れは、もはや彼が理解でもるのではなくなっていた。


 モニターにはある人物と、彼の属する組織についての情報が映し出されている。佐藤啓介と異世界生物侵入対策室についてだ。


 レデオンはパレードを襲撃後、逃走中にたまたま目に入った男を面白半分に追いかけ、押し入った。

 レデオンは彼からパソコンなどの操作方法を教わって用が無くなったところで今の状態にしてしまった。

 彼を完全に殺さなかったのは利用価値があるかもしれないとの考えでのことだったが、とうに彼の存在は意識の外へと追いやられていた。


「サトウとかいう男のところにはいかないのかしら?」

 リビングのさらにの奥、カーテンが閉ざされたままの部屋から女の声がした。


 パレードの襲撃の日。レデオンの傍にあわられた女。灰色の女の声だった。

 彼女は暗い部屋で自分の化粧の施された夜のように黒い爪を眺めながら言った。


「まだいかないよ。だってあきらかに誘っているし、罠だからね。向こうにはレニュがついてるんだ。どうせ何かしら口出ししているに違いないね」

 レデオンはマグカップを両手で持ち、ふうふうと息を吹きながら、椅子を回転させ続けた。


「僕に戦士の君の情報を集めさせて、襲いやすい場所に誘き出そうって魂胆だろうから。……ありがたく情報は使わせてもらうけど、嘘も混じっているだろうから、きちんとふるいに掛けないといけないのが手間だね。あと銀の君の情報は逆に絞っているのだよね。この世界では若い子どもの兵は嫌われるらしいから出していないのかな。それか僕がより食いつきやすいように探りをいれるようにように仕向けているか」


 灰色の女は立ち上がった。暗い部屋から明るい方へ出ると彼女の服は暗がりから染み出るような風合いを見せた。

 レデオンの座る椅子の回転を手で止め、向き合って見下ろす。


「前の手を使えば、こちらから誘いこませるのではなくて?」

「そんなに怖い顔しないでよ。リーア。人間を木の爆弾にするやつでしょ? やってもいいけど、どうかな……」


「使える手段は多い方がいいでしょう。在庫はそこら中に掃いて捨てるほどいるのだから」

 “掃いて捨てるほど”その言葉には強い感情がこもっていた。


「……疲れるんだよね、あれ。体を操っても精神が抵抗するから、自由に動かすとなると精度がどうしても落ちる。かといって単なる植物を操っても動きが鈍い。戦士を相手取るには少々、力不足。彼らも次は対応してくるだろうし。……たとえば、真っ先に銀の君の転送魔法で僕だけをどこか戦いやすい場所へ隔離し、あの女と一緒になって一対三の状況にするとかね」

「あなたも魔法人形を作ればいいのではなくて? この前のような不出来で無様なものでなく、エルフのように精巧で精密なものをね」


 ミーアはあからさまに嫌味なため息を吐きだし、窓の方へと体を向けた。窓へ向かう途中、木になってしまった男とすれ違い様にそっと手を這わせる。すると指を滑らせた跡から瞬く間に黒ずんで炭のようになっていき、崩れていった。黒い浸食は男の木となった体も、まだ肉のままだった組織もすべて真っ黒に塗りつぶしていく。


 青々と茂っていた葉は茶色く枯れていき、はらはらと散ってフローリングに散らばるも、落ちた傍から細かい粒子となって消えた。やがて全てがグズグズに崩れて、最後には小さな黒い灰の山になっていた。


 リーアは息の詰まる不快な部屋からベランダへと出て手すりに体を預けた。

 都内の景色を横目で見ろ降ろし、下を歩く人々を見ては、美しく整った顔を嫌悪感に歪ませた。


 だがその顔も表情もレデオンに伺い知ることはできない。灰色の薄いベールは彼女の輪郭までしかわからない。彼女は今のところ誰にもその素顔を見せてはいなかった。


 湾を挟んで反対側に見える儀式の行なわれる広場を彼女は睨みつけた。すらりとした手に自然と力がこもり、手すりが軋むのをレデオンは見た。


「焦ったところで儀式はまだ始まらないよ。利用したいんならじっくり待つことだね。釣りはやったことある? あれは忍耐が肝心だからね。これは長生きするエルフからの忠告。いや、助言って言った方がいいかな」


 灰色の女は顔をレデオンの方へ向け、ベールの奥から睨みつけた。

「エルフの魔法が、儀式がどういったものか、私が知らないわけがないでしょう」

「そうだったね。でも僕の力が必要だということも、それだけ良く分かっているんだよね。リーア」


「私の名を呼んでいいのはあの子だけよ。次、その口で私の名を口にしたなら、そこの男のようにするから、肝に銘じておくことね」

「そこの男? さて、なんのことだったっけ……?」


 リーアは外へ体を向け、埋立地を見据えた。

「私達のやりたいこと、もうあと少し。そうよね? ミーシャ」

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