音川とインは裂け目へと飛び込み、唐田は意を決してその後を追った。
不可視の裂け目へと飛び込むと、辺りから光が失われ何も見えなくなった。
暗黒の世界だ。目を開けているか閉じているかすらわからない闇が広がり、左右どころか上下も、全ての方向感覚が失われ、風に弄ばれる落ち葉のように世界が回り、強烈な不快感に全身が包まれた。
「これが、裂け目か!」
声が自分の中で幾重にも反響し、行き場のないの音波が全て自分に帰ってきて、三半規管を掻きまわす。
唐田は辛うじて自分が裂け目の中にいることを自覚したが、どうすることもできず、胃を裏返す吐き気に口を抑えるだけで精一杯であった。
光が見えた。眩く輝く一筋の虹色の光で、万華鏡のようにうつろい、不安定に煌めている。
唐田の体は飲み込まれ、次の瞬間には重力を感じ、滑り台から勢いよく放り出されるようにして地面を転がった。
幸いにして柔らかな草地であったために怪我をすることはなかったが、彼自身はそれを気にかける余裕などなかった。
勢いが収まって回転が止まり、安堵したのもつかの間、ついに不快感は限界を超えて胃の内容物をその場に吐き出させた。
唐田は四つん這いになってひとしきり嘔吐すると、息を切らしながら腕時計を見た。
入った瞬間からおよそ三十秒。だが体感時間ではもっと長いように感じられた。
ここでようやく自分の手の下に柔らかな草があり、視線を上げれば豊かな背の高い草の草原が広がっていることに気がつく。
唐田はふらつきながら立ち上がり、周囲を見渡した。
腰ほどの高さの草が風に揺れ、波打っており、空は暗く、星が瞬いている。夜のようだ。
「音川さん! インさん!」
「こっちです」
唐田は声のする方へ振り返ると草の間に座り込むインが見え、駆け寄った。傍には音川もおり、インは彼女に自分の膝を貸していた。
「気分は?」
「問題ありません」
それはインの魔力無しの男に見せる強がりで、青くなった顔から唐田と同様の体験をしてきたことが伺えた。
インは視線を音川へ向けた。
「彼女の方はかなりまいっているようだ。あの裂け目は見かけよりずっと不安定です。我々が通ってきた裂け目がどれだけ安定していたか身に沁みましたよ」
唐田はバッグから水筒と酔い止め薬を取り出し、音川に飲ませてやることにした。
「気休めかもしれませんが」
「……ありがとうございます」
音川はそれを飲むと弱々しく礼を口にした。
唐田は周囲を再度見て、屈むとバックから装備を取り出しにかかった。中にはショットガンやナイフなどの対策室の支給品に加え、いざという時のために唐田自身が普段から持ち歩いているサバイバル用の物資が詰め込まれていた。
「用意がいいですね。少しは見直しました。魔力無しとしてはですが」
唐田はふっと笑いながら慣れた手つきでショットガンに弾を込めていく。
「誉め言葉として受け取っておきます。半分は趣味なんですけどね。キャンプが好きでして」
「キャンプ?」
「戻ったら説明しますよ。立てますか?」
唐田はバッグを背負って立ち上がる。音川の表情は辛そうで、とても動けそうになかった。
「君は荷物がある。私が彼女を背負いましょう。どこか安全な……いや、待て」
「どうしました?」
「通ってきた裂け目は?」
「そこにあるのでは……」
唐田の顔に焦りの色が浮かびあがる。
「どういう、意味ですか?」
「無いというそのままの意味ですよ。だが……何か妙です。何年もあそこにあり続けているなら不安定と言っても消えるほどでは……それが消えるなど―」
「静かに」
「何?」
インは魔力無しの男に言葉を遮られ、不快感を露わにした。
「魔力無しが、少し褒めたら―」
「しっ! 何かがいます」
唐田はショットガンの銃口を広い草原の海へと向け、何者かの接近に気がついたものの、位置までは把握できていなかった。
それは身を低くし、扇状に広がりつつ、背の高い草を掻き分けて進んでいた。通った後には細い獣道ができていたが唐田の目線からでは風に揺れる草に紛れしまっていて判別がつかない。
草の間からぎらりとした目で三人を見つめる彼らは野に潜む狩人であり、今宵の食事に丁度よい獲物を発見した。
腹は飢えに喘ぎ、早く寄こせと狩人自身をがなり立てている。
唐田は、正面に顔と銃を向けたまま、片手でインが音川を背負って立ち上がるのを手助けした。音川はぐったりとしたままだ。
「ここは不利です。後ろの森の方へ下がりましょう。
魔力無しの男の口から出た殿という言葉とその響きにインはいささか腹の立つ気持ちだったが、背中の音川の事を思い口を結ぶ。今は緊急事態だ。私情を心の奥に押しとどめる。
インは懐を探って魔法人形を取り出した。
掌にすっぽりとおさまってしまう小ささだが精巧な木製のもので、これこそがパレードにてエルフたちが操った六体の人形のうちの一体。
普段は小さく圧縮されているが、必要に応じて人の大きさに戻して武器とすることがエルフの戦い方だった。大型の魔法人形も同様の物であったが今は持って来ていない。圧縮して持ち歩いても重いため、部屋に置いて来ていたのだ。
「ミーユ!」
インは人形の名を呼び、動くよう呼びかけた。だが反応が返ってこない。普段であればすぐさま大きさを取り戻し、動き出すのだが。
「人形が動かない。魔力干渉か」
インは思わず舌打ちした。
「私は戦えないぞ」
「走って!」
唐田の声にインは走り出し、背中の音川の腕が力なく揺れる。
約百メートル。辿り着ければ安全というものでもないが、ここよりはましだと唐田は考え、インも理解していた。
何かが唐田の左正面の茂みより飛び出した!
照準が間に合わず、唐田はショットガンで攻撃を受け止めた! ぎゃりんと金属が擦れて火花を散らす。
「猿か!?」
猿が武器を使うものか! 唐田は自分の言葉を心の内で否定した。
ここは異世界だ。地球の常識は捨てろ。それでも確かなことがある。やはり、接近してきていたのは敵対的な生物であり、やらなければやられる!
銃床で殴り、怯んだところで顔面にアシストスーツのフルパワーでさらに殴りつける。ナックルガードの付いた拳の強烈な一撃に相手は茂みに殴り飛ばされた。
茂みからは複数の鳴き声が漏れて聞こえる。
この装備は使える。と感じた一瞬の気のゆるみを唐田は瞬時に律し、銃の安全装置を解除した。
怯んだが、あの程度で行動不能にするには足りない。考えねばならない。相手は群れであることは間違いなく、さらに武器を使う。武器を使うということはそれなりに頭も良い。
「どんな奴ですか!」
「わかりません! 殴り飛ばしましたが暗かったので! 猿みたいな奴でしたが」
「さる? さるとはなんです! 何もわかりませんよ!」
唐田は正面を向いたまま銃を構えて後ろへと下がる。
がさがさと茂みが動き、右斜め前方より、何者かが飛び出した。唐田は瞬時に照準を合わせ引き金を引き、スラグ弾を胴体に叩きこむ。
目標は悲鳴を上げる間もなく、衝撃に弾かれて草むらへ吹き飛ばされたが唐田は手応えを感じられなかった。
続けざまに前方と左斜め方向より二体の敵性生物が飛び出す。唐田はクレー射撃のように素早く撃ち落としたが、これも動きを止められだけで致命傷にはいたっていない。
「……二時方向に一体。十二時方向に、もう一体」
音川の声に反応して唐田は指示方向へ銃弾をお見舞いした。
短く、痛みに苦悶する鳴き声が返って来たことで命中したことを知る。
「どうして位置が?」
「敵は、対応してきています。……囲い込むつもりで。九時、十二時、三時方向にそれぞれ集まって……ます」
音川にもどうして敵の位置が判断できるのか分からなかったが、耳がかつてないほど冴えて、胸や喉の不快感とは別に、聴覚が研ぎ澄まされていく感覚を得ていた。溢れる情報が自然と整理されていくようだった。
草が揺れる音、地面を踏みしめる音、小石が蹴散らされる音。飢えた息を吐き出す湿った呼吸。金属の擦れる音。すべてが手に取るようだった。
唐田はスタングレネードのピンを抜き、九時と三時方向にそれぞれ投げ入れた。
一瞬の閃光と破裂音が轟き、草むらから悲鳴が上がる。敵性生物が慣れない衝撃に驚き、怯えたのだ。
「今度はなんなんですか!?」
「いいから走って!」
唐田は三度、威嚇射撃を行なって振り返ると、走るインとその背中の音川を押して支えた。