音川の手の中にあるティーカップは熱すぎず温くもない心地よい暖かさだった。彼女はそれをじっと見つめる。
「あの子が現れたのは秋のことです。日付で言うと今からちょうど三週間後」
さくり、さくり。
落ち葉を踏みしめる小さな足音が音川の傍へ近寄ってきた。一歩ずつ、ゆっくりと近づく音に、音川は野生動物と同じ気配を感じた。
音川はそれまで動物を直に見たことはなかったが足音は何度も聞いている。今回もきっとそうなのだろうと思っていた。
あるとき音川の母が言った。
「あなたが庭でじっとしているから不思議に思って動物が寄ってくるのかもね」
母の優しい声と、自分を取り巻く動物を想像し彼女はそれを嬉しく思った。人の社会に馴染めなかった自分でも、こうしてなら世界に馴染めるかもしれない。
音に耳を傾けている時の音川はじっとして殆ど動かない。家の中から持ってきたホットティーを少しずつ飲みつつ、その温度が変化する過程と音とで時間を感じながらただ座る。
そうしていると何者かが動く音が聞こえ、手の先に湿ってほんのり温かい何かが触れる。
それはふんふんと鼻をならして、しばらくすると満足して去っていく。見ることは叶わなくとも気配を感じられ、傍に来てくれることに喜び、世界に色が灯る。
その日の足音もきっと動物なのだろうと思ったが、それは違った。足音の主は音川の真横で足を止め、どうやら音川の顔を覗き込んでいるようだった。音川には見えないがいつもと違う様子を肌と音で感じる。
彼女がぴくりとも視線を動かさないでいると、足音の主はそれを不思議に思い、澄んだ声で問いかけた。
「どうしていつもここに座っているの? あなたいつも一人で。寒くないの?」
動物がいるかと思っていたところに話しかけられ音川は驚きはしたものの、何故だかすんなりと受け入れた。
「音を聞いているの」
「音?」
風が吹き、音川はゆっくりと手を上げて頭上にある木を指さした。風が枝を揺らし、葉を擦らせる。
腕を降ろし、地面を指す。落ち葉が静かに地面に落ち、そして風がさらって吹き上げて地面の上を滑って流れていく。
音川は人が怖くなっていた。辛い学校生活が音川をそうさせてしまったのだが、足音の主を怖いとは少しも思わなかった。理由は分からないが、それでいいと彼女は思った。
足音の主はゆっくりと傍に腰を降ろした。
「ずっと見てたんだ。あなたのこと。そこの森の中から時々ね」
森の中に民家はない。それに話し声が聞こえたことも無かった。
音に集中している時の音川は気配に敏感だったが、これまで家の裏手の森の奥から人の気配に気が付いたことはなかった。
音川は心の中で呟く。
でも、もしかすると聞いていたのかもしれない。時折感じていた気配はこの子で、私は動物と勘違いしていたのかも。
「そっか。時々、聞こえていた足音はあなただったのね」
人気のない山に、いるはずのない人がいる。音川は不思議に思ったが、家族以外の誰かと話をすることに楽しさを感じ始めていたことで、すぐにどうでもよくなった。
音川は隣に座る足音の主に顔を向けた。でも濃い霧の中のような世界では足音の主の姿はぼやけた輪郭程度にしかわからない。
互いの視線は交わらず、音川の目が見えないことを知らない足音の主は首を傾げた。
「じゃぁ洞穴も知ってる? わたし達そこを通って時々ここに来てるの。ここの森や少し行ったとこの山にはいい薬の材料があるんだ」
「洞穴があるんだ。それって大きい?」
「案内しても良いよ。いつもブーンて変な音が鳴ってて面白んだ」
ブーンという音。幼い音川にはそんな音は聞こえなかった。
雨が降っていても、雪が降っていても、外に出ていたのに家の裏手からそんな音は聞いたことがなかった。
音川は目を開けてティーカップを見つめた。
手の中の茶は既に冷めていたが、掌には微かな温もりが残っている。視線をあげてインを見る。
「結局その日は、穴には行きませんでした。目が殆ど見えない私には、なだらかな斜面すら怖かったですから。それと今なら分かります。あの子が言っていたブーンという音は時空の裂け目の音だったんです。いくら音に耳を傾けていても、魔法を扱えない私にあの音は聞こえない。この日本には前から裂け目が繋がることがあったんです」
「そのご友人も異世界の住人だった。というわけですね」
音川は頷いた。
足音の主との交流は不定期に続いた。
一日開けて来ることもあれば、一週間、一か月、一時間だけ空けて再び来ることもあり、次第に人間とはまた別の生き物だと、なんとなく理解するようになっていった。
異世界の友人との交流は両親には秘密にしていた。
言ったところで人間でない存在との交流を信じるはずがないのだから。それか、家の中から窓越しに何かと会話する娘の姿をこっそりと見ていて、娘に友達ができるならどんな子でも嬉しいと思っていたのかもしれない。
音川は再び目を閉じ、過去の幼き音川が目を開けて友人のいる方向へ顔を向けた。
「いい薬の材料は見つかった? ナハタ」
異世界から現れた音川の友人はナハタと名乗った。
「見つかったよ! こーんなに!」
この日は薬草取りの帰りに音川のもとへと立ち寄ったところだった。
ナハタは背中から数々の薬草の詰まった籠を降ろすと音川の傍により、自慢げにがさがさと揺らした。すると摘まれたての新鮮な薬草の匂いと共に、潜んでいた小指の先ほど虫が驚いて飛び出し、音川の鼻に止まった。
「わ! 何?」
「ただの虫。怖がりだなぁ」
ナハタは虫を捕まえると後ろへ放り投げた。
「これは傷を癒すのに使う。でもすっごくしみるから私は嫌いなんだよね。ヒミタ爺はそれが良いんだって言ってたけど老人の言うことはよくわかんないね。こっちは熱が出た時に舐めたり、鼻に塗ったりするの。どう?」
ナハタは音川の鼻に薬草近づけた。
「なんだかスースーする。いい匂い」
「でしょ! たまに疲れた時にこっそり塗ってる。完成したら今度持ってきてあげる。そんでこっちはー……」
弾んでいたナハタの声が急に静かになった。
「どうしたの……? それはなんの薬になるの?」
「……の薬」
「ん?」
「目の、薬」
ナハタは申し訳なさそうに言った。
「ごめん。これは目を治せるようなものじゃないんだ……。魔法使い達が使うことはあるけど……。ずっと治してあげたいけど、まだわからないくて」
ナハタの声は謝罪と無力感。それに自分への言い訳をはらんだものだった。
音川はそっとナハタの方へと手を差し出し、両側から頬を包んだ。形を確かめ、片方の手を離す。
「……ここね」
音川はナハタのおでこを指で弾いた。
「痛!」
「謝らないでよ。目が悪いのはナハタのせいじゃないんだから。私を思ってくれるのは嬉しいけど、ナハタはまだ見習いでしょ。ヒミタ爺でも難しいって話じゃない。それなのにもう一人前みたいな事言って、そういうの生意気っていうんだ」
「なんだと!」
ナハタは笑い声を上げながら音川に飛び掛かった。
二人は笑い、柔らかい庭の草の上を転がって仰向けになった。季節は春であり、葉の隙間から降り注ぐ陽の光が柔らかく二人を包み込んだ。
「いつか、絶対。意、地、で、も。治してやるんだ。覚悟しといてよ」
「分かった。期待しないで待ってる」
「それでね一緒に空を見ようよ。お日様の光を葉っぱで透かして見て。夜は星を数える。あとは動物の足跡を追って。川でまん丸の石を探そう。それから……えーと、とにかくいっぱい色んなものを見よう!」
音川は記憶の中のナハタに別れを告げ、現在に意識を向けた。
窓から入った光が音川の手を暖めている。この日の秋の陽射しは、あの春の光に似ている。
音川は淡々と続きを話した。
「その約束からナハタは私の前に姿を現しませんでした。私の方はというと、ナハタのお陰で家の外に出られるようになっていて。ナハタを通して……一人で歩く勇気を貰ったんです。少し離れた学校に通えるようにもなりました。そうして何年か過ごしているうちに寂しかったはずなのに、だんだんと忘れていったんです。声しかわからない異世界の住人という存在は、私の中でゆっくりと現実味を失って。あれはただ夢だったのかも、ナハタは私の寂しさが生み出した空想の人なんじゃないかって。……初めて会ったのが小学生の時で、それから高校生になったときナハタが私の前に戻ってきました」
ティーカップの中の茶はすっかり冷めてしまっていた。目を瞑って、今はインの微かな息遣いが聞こえる。
「ナハタは治す方法が見つかったと言いました。でもどこか悲しそうでもあったんです。ナハタは言いました。治す代わりに取引をした。目は生まれ変わったようになるはず、珍しい魔法だから成功の保証はないけど、きっと良くなる、って。その時、気が付きました。そばに知らない誰かがいたことに」
「それはヒミタ爺でしょうか?」
インの問いに音川は首を横に振った。
「ヒミタ爺だったらすぐに分かるはずです。久々の再会で、お喋り好きなヒミタ爺が一言も喋らないはずがないですから。それに珍しい魔法……と。そもそも二人は魔法を使えるといっていましたが、使えるのは魔術の区分だと」
「魔術は物体を媒介とし、効果を増強するもの。魔法は自然の法則にのっとりながらそれを時に捻じ曲げるもの。似て非なるものだ」
「ナハタは私を治す代わりに取引をした。代わりに渡すものは……」
音川は呻き、頭を抱えた。刺すような痛みが内側から響いて来て、手から落ちたティーカップが音を立てて割れた。
「大丈夫ですか!」
ふらつき、椅子から落ちそうになった音川をインはとっさに支える。
記憶の向こうの魔法使いが音川の額に手をそえている。とたんに目に激痛が走ったことを思い出す。眼球が熱く燃えあがるかのような激痛。小さな呻き声を喉から絞り出すのが精一杯で、涙がとめどなく溢れる。
呼吸は荒く早くなり、肺は圧し潰されたかのように苦しい。
温かい手が背中に触れ、手を握ってくれている。ナハタだ。心配そうな声が心と体を支えてくれている。
そして「成功」という声を聞く。それは魔法使いの声で、笑っていた。
それまで明瞭であった記憶が朧げなものとなっていた。そこだけが黒く塗りつぶされているような感覚だった。
音川に触れていた手の気配が消え、落ち葉の上を、ざりざりと引きづられて行く音が聞こえた。
「ごめん、ごめんね。約束、やぶっちゃった」
ナタハの声が遠ざかっていく。
痛みに横たわっている音川は声のする方を見ようとしたが、世界は強烈に眩しく痛みを伴い、涙は世界を歪ませて正確に姿を見ることは叶わなかった。
一目でもいい。ナハタの顔が見たい。
微かに見える二つの人影は森の中へ消えていった。
「行かないと……」
音川は目を抑え、インの手を借りながら立ち上がった。
「行く? どこへです?」
インは尾根を寄せる。
それまで穏やかであった彼女の纏っていた雰囲気が変わっている事に気がついた。強く、進み続けようとする意思を感じたのだ。
音川は涙を拭い、眼鏡をかけることはしなかった。今度こそ友人に手が届きそうな気がした。
「私の古い家に行きます。きっと、何かわかるはず」