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第41話 音川の世界

 音川はホテルの別室にて、側近の一人であるイン・ギリン・マウと机を挟んで向き合っていた。

 エルフ達との交流を深めるためには翻訳魔法を挟まない形での会話が必要であり、そのため互いに言葉を学び、双方の翻訳作業にいそしんでいた。


 インは肩まで伸びた長い髪を結んでまとめていた。

 ただ結んでいるだけでも窓から入る光に煌めく様子は美しく、長い耳はいっそうそれを惹きたてる。外見年齢は二十代くらいに見え、レニュよりも歳上のように見えた。


 エルフの言葉はまるで歌うようだった。

 インは例をあげながらエルフ後を読み上げていく。もし、何も知らない者がこの場にいたなら歌を練習する光景に見えたことだろう。

 音川は言語の一つ一つをパソコンに記録し、並行してノートにまとめつつ、傍にはカメラを置き録画していた。


 音川はメガネを取って眉間を摘まんでもみほぐした。

 互いに言語をすり合わせながらかれこれ数時間。それなりにはかどってはいると言えるだろうが翻訳魔法がなければ今以上に時間がかかっていたはずだ。

 溜まった疲労をほぐすため音川は休憩を提案してみたところインは快諾した。


 インが喉を抑えたことに音川は気がつき、電気ケトルのスイッチを入れた。

「喉には温かいものが良いと聞いたのですが、冷たい方がよかったでしょうか? 蜂蜜があればもっといいのですけど」


 インは電気ケトルが気になるようでお湯が湧く様子をじっとみている。

「ケトルが気になりますか?」

「え? あぁ、はい」

 インは音川に声をかけられてようやく自分がケトルの様子に夢中になっていたことに気が付いた。

「これは、魔法なのですか?」

「科学です」

 インは不思議そうに科学と繰り返し、再びケトルを見た。すでにお湯が湧き始め、湯が立ち上り始めていた。


「呪文や、魔法陣を扱わずにこのようなことを。驚きだ。そのパソコンという物やカメラという物も驚きだ。やはりただのお忍びでの観光ではわからないことだらけですな」


「科学です。こっちの世界の人は自然の現象を研究し解明し、こうした形にして落とし込んで使っているんです」

「魔法も自然現象を追求し取り込んだ物だが……世界が違えばその理解の仕方も大いに違うというわけです。やけに暑い気候というのもありそうですね」

「あはは……それはまぁ、いずれお話しします」

 科学技術が進んだせいで環境破壊も進んでしまったとは言いずらい。音川は環境問題については触れないようにすることにした。


「この道具さえあれば誰であっても同じようにお湯を沸かせると……。火や雷も使えるのですか?」

「もちろん火も使えます。雷とはちょっと違うけど“電気”という形でこのケトルの白い紐の中を今まさに流れていますよ。そして天井の灯りも電気のお陰です」

「安全なのですか?」

「ええ、もちろん」

「素晴らしい。それで先ほどは何と? 別のことに気がそれてしまった」

「冷たいお茶? それとも温かいお茶? といってももう湯を沸かしてしまったのですけど」

 インは暖かな微笑みを返した。

「では、温かい茶を」



 インの動作も優雅さに溢れている。

 レニュの所作が国の主たる気品に溢れた様と表現するならインは控えめだが艶があり、岩の間を流れるの清水のようにゆったりとしている。レニュの気品より目立たず、かつ花をそえるような動きを意識しているのだとインは答えた。


 インは休憩がてらエルフの国の文化を掻い摘んで音川に伝えた。

 ビルより大きな巨大な大樹を刳り貫いて城や住居として暮らすこと。木々の間には無数の吊り橋がかけられ自由に行き来すること。レニュの暮らす樹城と呼ばれる城は特に大きく、堅牢な結界が張られていることも教えてくれた。

 そしてめったに地上には降りないのだという。特に貴族などの尊き血の人々はさらに地上におりることは少ない。


 仕方なく降りることがあれば、木と木の皮で作った靴を履いて行くのだという。

 インは自分の履いている靴を音川に見せた。精巧な模様が掘られ、滑らかに削られた靴からは美しい職人の技巧を感じることができた。


 音川は小松がこの場にいれば喉から手が出るほどの情報だろうと思った。同時にこの場にいなくて良かったとも思う。きっとインの口から数々の小説のネタを引き出しにかかるはずだ。満足するまで離れないだろうし、離れてもしばらくは仕事に手が付かないだろうことは容易に想像できる。

 音川ですらインの話す異世界の話は楽しいのだから、小松が聞いたらその比ではない。


「室長が小松さんを連れて行くなって言ったの、よくわかった」

「こまつさん?」

「あ、いえ! ただの独り言です」

「せっかくです。次はそちらのことも聞きたいのですが、よろしいでしょうか?」

「もちろん!」

「音川様のその赤い目は生まれつきなのですかな?」

「目、ですか」


 まさか自分の事を聞かれるとは思っておらず、音川はきょとんとした顔をした。

「すまない。嫌でしたか」

「そんな。まさか目の話になるとは思わなかったので……」


 音川は疲れて目頭を抑えた後に眼鏡を掛けなおしていなかったことを思い出した。

 度の入っていない伊達メガネは瞳の特異な赤い色を隠すためのもで視力補正の為ではない。

 一度はコンタクトで隠すことを考えたが、どうしてか赤い目はコンタクトを受けつけなかった。


 もしかするとこの目のことを話せば、行方不明の友人の事に繋がるかもしれない。音川は胸の中に小さな希望湧いた気持ちだった。

「元々は薄い茶色の目をしていたらしいです」

「らしい?」

 インは音川の曖昧な言葉に首を傾げた。

「赤い目になる前の私は殆ど目が見えませんでした」


 音川は一つ一つ思い出しながら語り始めた。

 端的に伝えれば自分の身の上など省いても構わないが、インができるなら聞きたいというのだ。ほぼ初対面だが不思議と悪い気はしなかった。


 音川は生まれつき目が悪いため視界は常にぼやけていて暗いものだった。自分の顔はおろか、親の顔も学校の同級生の顔も分からない。

 不幸なことに学校の同級生たちは音川に対して理解のある子ども達ではなく、酷い仕打ちを行ない、それを咎めて導く大人達もいなかった。

 そのことをについて音川は深く語りたがらなかったがインは構わないと言って、逆に謝った。


 いつの間にか音川は無意識に目を瞑って話していた。

 学校でのことから話題は音川の自宅へと移る。次第に自宅にこもるようになったのだが、日々、音に耳をすませて過ごすようになった。以前よりも、ずっと耳を外界に向けたのだ。


 風の音、雨の音は聞こえてもそれがどのようなものか分からない。肌で感じても見ることは叶わない。

 完全に光が失われていないことがかえって幼い音川には辛かった。昼と夜を知っていても、その世界がどのようなことか感じられないことがもどかしかったが心を惹かれ、没頭した。


 自宅の庭はわずらわしい人間関係から身を離しつつ、道路からは人々の足音と話し声が聞こえる程よい距離感で生垣の向こうへ意識を向けた。

 家の裏には森が広がっており、音川は表側の音に飽きると裏手へ椅子を運んで、音の中に身を沈めた。

 家は山に囲まれ田舎の自然の溢れる場所にあるため、昼間は鳥の声が囀りに耳を傾け、夜は虫たちの合唱を聴き入って、枝の落ちる音、葉の一枚一枚に意識を向けているうちに、一日の大半をそこで過ごすようになった。


「今にして思えば他の言語に興味を持つ切っ掛けは、こうした環境があったからかもしれません」

「人の声を聞くように動物や植物の声を知りたい……と。素敵なことです」 

 音川は照れくさそうに頷き、話を続けた。


「あるとき庭の隅から声が聞こえたんです。とっても小さくて儚い声でしたが、芯の通る声でした。声は私に言いました。どうしたの? って。私は突然のことでびっくりしてしまって声を出せずにいると。落ち葉を踏む小さな足音をたてながら何者かが近づいて来るのを聞きました」

 インは黙って聞いていた。

「私、分かったんです。直観的にですけど。きっと毎日、自然の音を聞いていたからかもしれません。この足音の主はきっと人間じゃないだろうなって」

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